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冒険者はまだ見ぬロマンを求めて  作者: 片山武琉
第一章 魔女と銀の笛

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第一章56 『決別』


 セージは、苦しみながらもリュートを見つめた。


 赤黒い色に侵されていく瞳の奥には、まだ僅かに紫色が残っている。


「リュート……」


「うん!」


 リュートは笛を握ったまま、すぐに答えた。


「ここにいるよ!」


「……聞いて」


「何?」


「今なら……」


 セージは一度、苦しそうに息を吐いた。


「まだ……言えるから」


 その言葉に、リュートの胸の奥で嫌な予感が膨らむ。


「セージ?」


「私……」


 セージは黒く変形した右腕へ視線を落とした。


「もう……戻れない」


「……え?」


 リュートの表情が止まった。


「何言ってるの?」


 リュートはすぐに首を横へ振る。


「戻れるよ。だって、まだ僕のこと分かってるじゃん!」


「話せてる!」


「笛だって効いてる!」


「だから――」


「違うの」


 セージの静かな声が、リュートの言葉を遮った。


「今だから分かる」


 セージは自分の胸元へ手を置く。


「この身体は、もう私の言うことを聞いてくれない」


「……」


「動かそうと思う前に動く。止まりたいと思っても……止まらない」


 セージは苦しそうに眉を寄せた。


「思い出そうとしたものも、どんどん消えていく」


 リュートは何も言えなかった。


「研究も……どうして始めたのか、もうほとんど分からない」


「……」


「グランベルを恨んでいたことも、どうして恨んでいたのか……さっきまで思い出せなかった」


 セージの声が僅かに震える。


「あなたのことまで、一度忘れた」


「でも!」


 リュートが強く叫んだ。


「思い出した!」


「今は分かってる!」


「僕がリュートだって分かってるじゃん!」


「……ええ」


 セージは、ほんの僅かに笑った。


「今は」


「……」


「だから」


 リュートが一歩前へ出ようとする。


「まだ間に合う!」


「僕がもっと強く笛を吹けば――」


「リュート」


 セージはゆっくり首を横へ振った。


「次も思い出せるとは限らない」


「……!」


「次にあなたを見た時、私はあなたを襲うかもしれない」


「そんなこと――」


「もうしているでしょう?」


「……」


 リュートは言葉を失った。


 確かに、セージの身体は何度もリュートへ向かっていた。


 本人が望んでいないのに。


 その身体の中にある力が、セージ自身の意思を無視して。


「……嫌だ」


 リュートが小さく呟く。


「リュート」


「嫌だよ」


 今度は、はっきりと首を振った。


「僕はセージを助けるためにここまで来たんだ」


「……」


「セージを止めたのも、研究を壊したのも、全部セージに生きてほしかったからだよ!」


 リュートの声が震える。


「それなのに、戻れないって何だよ……」


「……」


「まだ話せるじゃん」


「まだ僕を覚えてるじゃん!」


「だったら、最後までやってみないと分からないじゃん!」


 セージは何も言わず、リュートの言葉を聞いていた。


「僕は諦めない」


 リュートは笛を強く握る。


「何回忘れても、何回でも僕が教える」


「セージが誰なのか」


「僕が誰なのか」


「全部!」


「だから――」


「……ありがとう」


「……!」


 リュートの言葉が止まった。


「でも」


 セージは穏やかな表情で少年を見る。


「あなたは、もう十分に私を助けようとしてくれた」


「そんなの……十分じゃない」


「十分よ」


「違う!」


「リュート」


 その声は。


 森の家で、何度も自分の名前を呼んでくれた。


 昔のセージの声に近かった。


「お願いがあるの」


「……嫌だ」


「まだ何も言ってないわ」


「分かるよ……」


 リュートは震えながら首を横へ振る。


「そんな顔で僕を見ないでよ……」


「……」


「セージ。お願いだから、そんなこと言わないで……」


 セージの表情が僅かに歪んだ。


「……ごめんなさい」


 それでも。


 セージはゆっくりと、はっきりリュートを見つめた。


「私を止めて」


「……」


「これ以上、誰かを傷つける前に」


「……」


「あなたのことまで、何も分からなくなる前に」


 セージは一度目を閉じた。


 そして、再び目を開く。


「私を……殺して」


「嫌だ!!」


 リュートの叫びが森へ響いた。


 笛を握る手が激しく震えている。


「絶対嫌だ!」


「僕にはできない!」


「セージを殺すなんて!」


「……」


「僕は!」


 リュートの目から涙が溢れる。


「セージを助けたいんだよ!」


「……知ってる」


「だったら!」


「だからよ」


「……え?」


 セージはリュートを見つめる。


「あなたなら、最後まで私をセージとして見てくれるでしょう?」


「……」


「魔女でも、怪物でもなく」


 セージは僅かに笑う。


「私を」


 リュートは答えられない。


「だから、あなたにお願いしたいの」


「……」


「そんなの……ずるいよ……」


 リュートの声が掠れる。


「僕が断れないって、分かってるじゃん……」


「ええ」


「……」


「ごめんなさい」


 涙を流すリュートを、セージは静かに見つめる。


「リュート」


「……何」


「あなたを森で拾ったこと、今でも覚えてる」


「……」


「小さくて、泣いていて。放っておけば、すぐに死んでしまいそうだった」


「……」


「最初は、本当にただの興味だったのかもしれない」


 セージは少しだけ目を伏せる。


「でも、いつの間にかあなたがいることが当たり前になった」


「……」


「研究が上手くいかない日も、あなたが笛を吹いている音が聞こえると……少しだけ気持ちが楽になった」


「セージ……」


「あなたを拾って」


 セージの目元が柔らかくなる。


「よかった」


 リュートは俯いたまま、何も言えなかった。


「それに」


 セージが続ける。


「私の言うことを何でも聞く子に育たなくて、本当によかった」


「……!」


 リュートが顔を上げる。


「セージ……」


「自分で考えて、私に逆らって、私の研究まで壊した」


 セージは少しだけ笑う。


「昔の私なら、きっと許さなかったでしょうね」


「……今も怒ってたじゃん」


「……そうね」


 セージが小さく笑った。


 リュートも涙を流しながら、ほんの少しだけ笑う。


「でも、それでいい」


「……」


「これからも自分で考えなさい」


「私のように、何か一つに囚われて、大切なものが見えなくなる前に」


 セージはまっすぐリュートを見る。


「自分で選びなさい」


「……うん」


 リュートが小さく頷いた。


「……うん。分かった……」


「……よかった」


 セージは安心したように目を細めた。


 その時だった。


 ――ドクンッ!!


「っ……!」


 セージの身体が大きく跳ねる。


「セージ!」


「あ……ぁ……!」


 黒い紋が一気に顔へ広がった。


「カイル!」


「まずい!」


 カイルが杖を構える。


「今までで一番強い!」


「セージ!」


 リュートが駆け寄ろうとする。


「来ないで!!」


 セージが叫んだ。


 リュートの足が止まる。


「まだ……」


 セージは自分の頭を押さえながら、必死にリュートへ目を向けた。


「まだ分かる……」


「リュート……」


「うん!」


「僕だよ!」


「……」


 セージは少年を見つめた。


「リュート……」


「うん!」


「……リュート」


 忘れないように、自分の中へ刻み込むように。


 セージは何度もその名前を呼んだ。


「覚えてる」


「……」


「まだ、覚えてるから……」


「セージ……」


「だから」


 セージは苦しそうに笑った。


「これが最後……」


「……!」


「待って!」


「セージ!」


「私が……私でなくなる前に……」


 セージの瞳から、紫色が急速に失われていく。


「リュート」


「うん!」


「……お願い」


「……」


 リュートの唇が震える。


 それでも。


 今度は逃げずに、セージの目を見た。


「……分かった」


 小さな声だった。


 だが、その言葉を聞いたセージの表情は、ほんの僅かに安堵したものへ変わった。


「……ありがとう」


 ――ドクンッ!!


「ああああああああっ!!」


 セージの絶叫が森を揺らした。


 次の瞬間、身体から赤黒い魔力が爆発するように噴き出す。


「全員下がれ!」


 ジョージが叫んだ。


「ウインドウォール!」


 カイルが杖を振ると、巨大な風の壁がルイスたちの前へ広がった。


 ――ドォォォォォン!!


 凄まじい衝撃が風壁へ激突する。


「ぐぅっ……!」


 カイルは杖を両手で支え、押し寄せる魔力に耐える。


 風の壁の向こうでは、セージの身体がさらに変わっていた。


 黒く膨れ上がっていた右腕だけではない。


 左腕にも同じ変化が広がり、肩や背中、脚の輪郭まで人間のものから離れていく。


「セージ……!」


 リュートが叫んだ。


 返事はない。


「セージ!」


「僕だよ!」


 それでも反応しない。


 赤黒い魔力の中で、セージがゆっくりと顔を上げる。


「……!」


 その両目には。


 もう紫色は残っていなかった。


「セージ……?」


 リュートが、もう一度呼ぶ。


「僕だよ」


「……」


「リュートだよ……」


 セージの視線はリュートの上を通り過ぎた。


 まるで。


 そこに誰もいないかのように。


「……セージ」


 リュートの声が震える。


 やがて。


 セージの喉から、低い唸り声が漏れた。


「グルルルルル……」


 それはもう。


 言葉ではなかった。


「セージ!」


「グァァァァァァァァッ!!」


 返ってきたのは、獣のような咆哮だけだった。


「……」


 リュートはその場から動けなかった。


「リュート!」


 ルイスの声で、ようやく意識を戻す。


「来る!」


 セージが地面を蹴った。


 ――ドンッ!!


 今までとは比べものにならない速度で、巨体が前へ飛び出す。


「盾!」


 ジョージの号令を受け、騎士たちが一斉に盾を重ねた。


 ――ガァァン!!


「ぐぁっ!」


「持て!」


 数人がかりでも、セージの突進を完全には止められない。


「ウインドバースト!」


 カイルの放った風が横から叩きつけられ、セージの進路を僅かに逸らした。


「今だ!」


 その隙に冒険者たちが一斉に攻撃を仕掛ける。


 槍が脇腹へ突き刺さり、剣が脚を切り裂く。さらに斧が背中へ食い込んだ。


 だが。


「嘘だろ……!」


 傷つけた直後から、裂けた肉が急速に塞がり始める。


「再生がさらに速くなってる!」


 カイルが叫んだ。


「ルイス!」


「おう!」


 ルイスはセージの側面へ回り込むように駆け出した。


 右手へ炎を灯し、その火を短剣の根元へ添える。


 そして再生し始めた脇腹の傷へ、炎を伴った刃を深く走らせた。


 ――ザンッ!!


 傷口に入り込んだ炎が、赤黒い肉を焼く。


「グァァァッ!!」


 セージがルイスへ振り向き、黒い爪を振るった。


「っ!」


「ルイス!」


 ジョージが間へ割って入り、剣で爪の軌道を逸らす。


「下がれ!」


「ありがとう!」


 ルイスはすぐに後方へ飛んだ。


「傷は!?」


 カイルが叫ぶ。


「残ってる!」


 ルイスが焼いた場所だけは、他の傷より明らかに再生が遅い。


 だが。


 そこも少しずつ塞がっている。


「これじゃ、どれだけ斬っても終わらない!」


「分かっている!」


 ジョージが剣を構え直す。


「だが止めるな!」


「全員! ルイスの炎を通すぞ!」


「おおっ!」


 再び、騎士と冒険者たちがセージへ向かう。


「ウインドカッター!」


 カイルの放った風の刃がセージの脚を切り裂いた。


 続けてカイルは杖を突き出す。


「ウインドランス!」


 風の槍が肩口へ突き刺さり、セージの身体を大きくよろめかせる。


「今だ!」


 ジョージが正面から踏み込み、セージの黒い右腕を剣で外側へ弾いた。


「ルイス!」


「おう!」


 胸元が開く。


 ルイスはその隙を逃さず、セージの懐へ潜り込んだ。


 炎を添えた短剣で胸元を斬りつける。


 ――ザンッ!!


「グォォォォッ!!」


 セージが苦しそうに身体を捻る。


 ルイスはすぐに距離を取りながら、たった今斬った場所へ目を向けた。


「……!」


 胸元の傷の奥では、他の場所とは比べものにならないほど濃い赤黒い魔力が脈打っていた。


 しかも、全身へ散った魔力が何度もそこへ集まり、また身体の各部へ流れている。


「カイル!」


「何!?」


「胸!」


 ルイスが叫ぶ。


「魔力がずっと胸に集まってる!」


 カイルもすぐに視線を向けた。


「……本当だ」


「前の巨大魔獣もそうだった!」


 ルイスはセージの胸元を見つめる。


「あいつも胸に力が集まってた!」


「同じものとは限らない!」


 カイルは慎重に言いながらも、目は胸元から離さなかった。


「でも……今のセージの魔力が、あそこを中心に巡ってるのは確かだ!」


「なら」


 ジョージも二人の会話を聞いていた。


「確かめるしかない!」


 ジョージが剣を高く掲げる。


「全員! 胸元へ道を作るぞ!」


「はっ!」


 だが、その直後。


 セージが大きく身体を反らした。


「グァァァァァァァァッ!!」


 咆哮とともに、赤黒い魔力が全身から爆発する。


「散れ!」


 ――ドォォォン!!


 近くにいた騎士と冒険者たちがまとめて吹き飛ばされた。


「ぐっ!」


「うわぁっ!」


「ウインドウォール!」


 カイルが風壁を展開し、後方へ押し寄せる魔力を受け止める。


「負傷者を下げろ!」


 ジョージが叫んだ。


「動ける者だけ残れ!」


「はっ!」


 戦える人数が、確実に減っていく。


 ルイスも肩で大きく息をしていた。


 カイルの額には汗が浮かび、ジョージの鎧にもいくつもの傷が走っている。


 騎士も。


 冒険者も。


 全員が限界へ近づいている。


 それでも。


 セージだけは立っていた。


 何度傷つけても再生し、今なお赤黒い魔力を放ち続けている。


「……」


 その姿を、リュートは少し離れた場所から見つめていた。


 頭の中には。


 セージが最後に残した言葉が、何度も響いている。


『私を殺して』


 リュートの手の中で、笛が震えた。


「リュート」


 カイルが呼ぶ。


 返事がない。


「リュート!」


「……分かってる」


 リュートが顔を上げた。


 目にはまだ涙が残っている。


「僕の笛」


「まだ効くよね?」


「……ああ」


 カイルが頷く。


「前より効きは弱くなってる。でも、魔獣由来の力には今も反応してる」


「再生も?」


「たぶん」


 カイルは慎重に答える。


「さっきまで君が強く笛を吹いていた時は、再生も明らかに鈍っていた」


「……」


「ただ」


 カイルは変異したセージを見る。


「今のセージを完全に止めるなら、相当な魔力が必要になる」


「……」


「君が持つかは分からない」


「……そう」


 リュートは笛へ目を落とした。


 残っている魔力は多くない。


 セージを戻そうとして、何度も何度も使った。


 それでも。


 まだ残っている。


「リュート」


 ルイスが近づく。


「無理すんなよ」


「……」


「俺たちでもう少し――」


「ルイス」


「何?」


「セージが」


 リュートは変わり果てたセージを見る。


「僕に頼んだんだ」


「……」


「止めてって」


「……!」


「自分を殺してって」


 ルイスは何も言わなかった。


「僕、嫌だった」


 リュートの声が震える。


「今も嫌だよ」


「……」


「でも」


 もう一度セージを見る。


 呼んでも。


 もう自分を見ない。


 声も返ってこない。


「もう」


 リュートは笛を握り直した。


「戻すために吹くんじゃない」


「……」


「セージが最後に僕へ頼んだことを」


 リュートは顔を上げる。


「やる」


「……リュート」


「ルイス」


 リュートはセージの胸元を見る。


「さっきのところ」


「狙える?」


「……」


 ルイスも同じ場所を見る。


 赤黒い魔力が、何度も胸元を中心に脈打っている。


「やる」


「……」


「絶対に届かせる」


「……うん」


 リュートが小さく頷いた。


「じゃあ僕が止める」


「どれくらい?」


「分からない」


 リュートは笛を握る。


「一瞬かもしれない」


「……」


「でも」


「その一瞬は絶対に作る」


「……十分」


 ルイスが笑った。


「それだけあれば、俺が行く」


 リュートも少しだけ笑った。


「ほんと、そういうところ変わらないね」


「何が?」


「考えるより先に行くところ」


「今は考えた!」


「少しだけでしょ」


「少しは考えた!」


 リュートは小さく息を吐いた。


「ルイス」


「ん?」


「お願い」


「……おう」


 二人の会話を聞いていたジョージが、剣を構え直す。


「決まったか」


「うん」


 リュートが答える。


「僕一人じゃできない」


「だから……力を貸して」


「……分かった」


 ジョージは周囲にいる者たちを見渡した。


「聞いたな!」


「残っている者!」


「これが最後だ!」


 ジョージが剣を掲げる。


「セージの動きを止める!」


「ルイスへ道を作れ!」


「はっ!!」


「おおっ!!」


 カイルも杖を構えた。


「リュート」


「何?」


「君が笛を吹いたら、僕たちはそれに合わせる」


「……うん」


「無理に長く止めなくていい」


「ルイスが届くまででいい」


「……分かった」


 リュートはセージを見る。


 もう。


 自分を見てはいない。


「セージ」


 それでも最後に、名前を呼んだ。


 返事はない。


「……分かったよ」


 リュートは笛を口元へ運ぶ。


「僕が止める」


 大きく息を吸い込み。


 残っている魔力を、すべて笛へ流し込んだ。


 ――ピィィィィィィィィィィィィィ――!!


 今までで一番強い笛の音が、森全体へ響き渡る。


「グッ……!?」


 セージの身体が大きく跳ねた。


「効いた!」


 カイルが叫ぶ。


 振り上げようとしていた黒い右腕が止まり、地面を踏み出そうとしていた脚もその場で硬直する。


 全身を覆っていた赤黒い魔力さえ、不規則に揺らぎ始めた。


「グァ……ァ……!」


 セージは身体を震わせ、笛の音へ抗おうとする。


「っ……!」


 その反動を受けるように、リュートの身体も大きく揺れた。


「リュート!」


「まだ……!」


 鼻から一筋の血が流れる。


 それでも。


 リュートは笛を離さなかった。


「まだ!」


 残された魔力をさらに注ぎ込む。


 ――ピィィィィィィィィィィィィィ――!!


「グ……!」


 ついに。


 セージの身体が完全に止まった。


「カイル!」


「見てる!」


 カイルはすぐにセージの胸元へ視線を向けた。


 先ほどルイスが作った傷。


 その周囲で再生しようとしていた赤黒い肉が、笛の音に縛られるように動きを止めている。


「止まった!」


 カイルが叫ぶ。


「力の流れがほとんど止まってる! 再生も追いついてない!」


「ジョージ!」


「全員!」


 ジョージが剣を掲げた。


「行けぇぇぇぇっ!!」


「おおおおおおっ!!」


 騎士たちが左右から走り出す。


 冒険者たちも残る力を振り絞り、セージの周囲で蠢く赤黒い魔力へ武器を叩き込んだ。


「ウインドカッター!」


 カイルの放った風の刃が、ルイスの進路を塞ぐ魔力を切り裂く。


 続けて杖を前へ突き出した。


「ウインドランス!」


 風の槍が正面から飛び出した赤黒い塊を撃ち抜き、ルイスへ一直線の道が開いた。


「ルイス!」


 カイルが叫ぶ。


「走って!」


「おう!!」


 ルイスは地面を強く蹴った。


 目指すのは。


 セージの胸元。


 先ほどから赤黒い魔力が何度も集中している場所。


 走りながら。


 ルイスの脳裏に、街を襲った巨大魔獣との戦いが蘇る。


 あの時も。


 再生を繰り返す魔獣の胸に、力の中心があった。


 同じものかどうかは分からない。


 それでも。


 今は信じて進むしかない。


 ルイスは一度だけリュートへ目を向けた。


 少年の膝は震え、今にも倒れそうになっている。


 それでも笛の音は止まらない。


「ルイス!!」


 リュートが笛の合間に叫んだ。


「行けぇぇぇぇ!!」


「おおおおおおっ!!」


 ルイスはさらに速度を上げた。


 セージの身体から僅かに赤黒い魔力が噴き出し、ルイスの進路へ伸びる。


「邪魔だ!」


 ジョージが横から踏み込み、剣でその魔力を弾き飛ばした。


「ルイス!」


「前だけ見ろ!」


「おう!」


 ルイスは右手へ意識を集中させる。


 今ではもう。


 最初に炎を出した時のような長い集中は必要ない。


 呼吸を整えるのとほとんど同時に炎が灯り、ルイスはその火を短剣の根元へ添えた。


 視線の先。


 セージの胸元に刻まれた傷の奥で、赤黒い光が激しく脈打っている。


「そこだ!」


 ルイスは身体を低くし、最後の一歩を強く踏み込んだ。


「はぁぁぁぁぁぁっ!!」


 炎を添えた短剣を、セージの胸元へ深く突き込む。


 ――ズブッ!!


「グァァァァァァァァッ!!」


 セージの身体が大きく反った。


 胸元から溢れた赤黒い魔力が、ルイスの腕を押し返そうとする。


「ぐっ……!」


 短剣の動きが止まりかける。


「まだ……!」


 ルイスは右手の炎を強めた。


 炎が短剣を通して傷口の奥へ入り込み、再生しようとする赤黒い肉を焼く。


 ――ジュウゥゥゥッ!!


「グォォォォォォッ!!」


「ルイス!!」


 リュートの声が飛ぶ。


「やれぇぇぇぇ!!」


「おおおおおおおおっ!!」


 ルイスは全身の力を短剣へ込めた。


「ぐっ……!」


 だが。


 押し込もうとする刃に対して、セージの胸元から赤黒い肉が次々と盛り上がってくる。


 リュートの笛によって再生そのものは抑えられている。


 それでも完全に消えたわけではない。


 短剣を押し返そうとする赤黒い魔力と、傷口を塞ごうとする肉が、ルイスの炎へまとわりつく。


「くそっ……!」


 刃が進まない。


 炎で焼く。


 その端から再生しようとする。


 焼いては塞がれ。


 押し込んでは押し返される。


 ルイスの短剣とセージの再生が、胸元で完全に拮抗していた。


「ルイス!!」


 リュートは笛を吹き続けながら叫ぶ。


「止めてる……!」


「今しか……ない!!」


「分かってる!!」


 ルイスはさらに力を込める。


 しかし。


 ――ギギッ。


 短剣が僅かに震えるだけで、それ以上深く入らない。


「まだ……!」


 右手の炎を強める。


 それでも。


 赤黒い力が炎を押し返してくる。


「届かない……!」


 その光景を後方から見ていたカイルが、杖を強く握った。


「……だったら」


 カイルはルイスの背中へ杖を向ける。


「ルイス!」


 カイルが叫んだ。


「炎を消さないで!」


「え!?」


「そのまま前へ押し続けて!」


「分かった!」


 ルイスは理由を聞かなかった。


 短剣を握り締め、炎を絶やさないことだけに集中する。


 カイルは大きく息を吸った。


「風で……」


 杖の先へ魔力が集まる。


「その炎ごと押す!」


「……!」


 ルイスが目を見開く。


「ウインドバースト!」


 ――ドンッ!!


 ルイスの背後から、強烈な風が吹き抜けた。


「うおっ!?」


 だが。


 その風はルイスを吹き飛ばすためのものではない。


 背中から身体を押し。


 同時に。


 短剣の根元で燃えていた炎へ流れ込む。


 ――ボォッ!!


「……!」


 炎が一気に膨れ上がった。


 風を受けた炎が刃の進む方向へ激しく噴き上がり、傷口を塞ごうと盛り上がる赤黒い肉をさらに焼いていく。


「これ……!」


「行け、ルイス!!」


 カイルが杖を突き出したまま叫ぶ。


「僕の風も使え!!」


「……おう!!」


 ルイスは地面を踏み締めた。


 背中からカイルの風。


 前ではリュートの笛が、セージの内側を巡る力を必死に押さえ込んでいる。


 そして。


 ルイスの手には炎。


「リュート!」


「止めてる!!」


「カイル!」


「押してる!!」


「だったら――!」


 ルイスは歯を食いしばり、短剣を握る両手へありったけの力を込めた。


「行けぇぇぇぇぇっ!!」


 リュートの笛が、セージの内側を巡る力を限界まで鈍らせる。


 カイルの風が炎を押し上げる。


 炎が再生しようと盛り上がる肉を焼き続ける。


 ルイスはその隙を逃さず、短剣をさらに押し込む。


 ――ジュウゥゥゥゥッ!!


「グォォォォォォォッ!!」


 ついに。


 拮抗していた力が崩れた。


 セージの再生を押し退け、炎を纏った短剣が一気に奥へ沈み込む。


 そして。


 その先端が何か硬いものへ触れた。


「……!」


 それは、巨大魔獣の胸を貫いた時に感じたものによく似ていた。


 赤黒い魔力が、その一点を中心に激しく渦巻いている。


「見つけた!!」


 ルイスは短剣を深く押し込んだまま、強く横へ捻った。


 ――バキッ。


 乾いた音が響く。


 その瞬間。


 セージの身体が硬直した。


「……!」


 ルイスは胸元を見た。


 傷の奥で脈打っていた赤黒い光に一本の亀裂が走り、その割れ目から炎が入り込んでいく。


「リュート!」


 その変化に、リュートも気づいた。


「ルイス!」


「壊して!!」


「おう!!」


 ルイスは残る力を振り絞り、右手の炎をさらに強く短剣へ送り込んだ。


 炎が亀裂の奥へ広がっていく。


 次の瞬間。


 ――バキバキバキッ!!


 赤黒い光が内側から砕けた。


 ――ドォォォォォン!!


 行き場を失った魔力が、セージの胸元から一気に空へ噴き上がる。


「ルイス!」


 ジョージが駆け出した。


 ルイスは短剣を引き抜くと、その場から後方へ飛ぶ。


 直後。


 セージの身体から大量の赤黒い魔力が溢れ出した。


「ウインドウォール!」


 カイルが風の壁を作り、全員をその後ろへ庇う。


「ぐっ……!」


 赤黒い光は空高く昇り、森の上へ広がっていった。


 それも。


 少しずつ。


 少しずつ。


 勢いを失っていく。


 やがて。


 最後の光が消えた。


「……」


 同時に。


 リュートの笛の音も途切れた。


 手から笛が滑り落ちる。


「……」


 リュートの身体が傾いた。


「リュート!」


 ルイスが駆け寄り、倒れかけた少年を抱える。


「大丈夫!?」


「……魔力」


 リュートは苦しそうに笑った。


「全部……使った」


「無茶しすぎだろ!」


「ルイスに……言われたくない」


「なんで!?」


「君も……無茶したから……」


「……それは……そうだけど」


「ふふ……」


 リュートは弱々しく笑った。


 そして。


 すぐにセージへ目を向けた。


「……」


 そこに。


 もう立っているセージはいなかった。


 赤黒い魔力が消えた場所で。


 セージは地面へ静かに倒れている。


「セージ……」


 リュートはルイスの腕から離れようとする。


「リュート?」


「行く……」


「でも」


「行かせて」


「……」


 ルイスは何も言わず、リュートの身体を支えた。


 二人はゆっくりとセージへ近づく。


 ジョージも。


 カイルも。


 騎士たちも。


 冒険者たちも。


 誰も二人を止めなかった。


「……セージ」


 リュートがセージの傍らへ膝をつく。


 変形していた腕からは力が抜け、黒い紋も光を失っている。


 リュートは震える手を伸ばし、セージの頬へそっと触れた。


「終わったよ」


「……」


 返事はない。


「ちゃんと」


「止めたよ」


「……」


 リュートの頬を、一滴の涙が伝った。


「約束」


「守ったよ……」


 森の中。


 誰も声を出さなかった。


 ただ。


 木々の間を抜ける風だけが。


 静かに。


 彼らの傍を通り過ぎていった。


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