第一章53 『抗う者たち』
――ピィィィィィィ……。
リュートの笛から流れた澄んだ音が、静かな森の中へ広がっていく。
騎士たちも冒険者たちも武器を構えたまま、すぐには動かなかった。
誰もがセージの様子を窺っている。
「……」
セージにも。
最初は大きな変化がなかった。
黒く変形した右腕。
身体の周囲を漂う赤黒い魔力。
乱れた呼吸。
どれもそのままだ。
「リュート……」
ルイスが小さく名前を呼ぶ。
「まだ」
リュートは笛を吹いたまま、セージから目を離さなかった。
指先を動かし、音を少しずつ変えていく。
これまで魔獣へ呼びかける時に使ってきた音。
無理やり命令を押しつけるのではなく、自分の魔力を音へ乗せて相手へ届ける。
リュートが何度も使ってきた方法だった。
――ピィィィ……。
「……っ」
その時。
セージの指先が僅かに動いた。
「!」
リュートが気づく。
セージの身体を覆っていた赤黒い魔力が、一瞬だけ弱まった。
「今……」
カイルも目を細める。
「何か変わった」
リュートは笛を止めない。
さらに魔力を込める。
――ピィィィィィィ……。
「う……」
セージが胸元を押さえた。
「……リュート」
「!」
名前。
はっきり。
さっきよりも迷いなく呼んだ。
リュートは笛を吹きながら、目を大きく見開く。
「効いてる……」
ルイスもセージを見る。
「本当に届いてる!」
セージを覆っていた赤黒い魔力が僅かに弱まる。
その隙間から。
赤黒く染まった瞳の奥に。
一瞬だけ元の紫が覗いた。
「……この音」
セージが掠れた声を漏らす。
「覚えてる?」
リュートは一度だけ笛を口から離した。
「セージ」
「……」
「僕が吹いてた笛だよ」
「笛……」
セージはリュートの手元を見る。
「私が……」
「うん」
「セージが教えてくれた」
「……そう」
セージの顔に。
少しずつ。
理解の色が戻る。
「私が……教えた」
「そうだよ!」
リュートは嬉しそうに頷いた。
「思い出せる?」
「……ええ」
「なら!」
リュートが一歩近づこうとする。
「待って」
カイルが腕を出した。
「まだ近づかないで」
「でも!」
「効いてるのは間違いない」
カイルはセージの周囲に残る魔力を注意深く見ていた。
「だけど、消えたわけじゃない」
「……」
「今は抑えられてるだけかもしれない」
リュートは足を止めた。
「分かった」
それでも。
表情は明るいままだ。
「抑えられるなら」
「戻せるかもしれない」
「……うん」
カイルは否定しなかった。
「可能性はある」
その言葉だけで。
リュートには十分だった。
「セージ」
もう一度。
リュートが名前を呼ぶ。
「……何?」
「分かる?」
「何が……?」
「僕のこと」
「……」
セージはリュートを見る。
少し考えて。
「リュート」
「うん!」
「森で……」
セージは目を細める。
「拾った」
「そう!」
「小さかった……」
「それは今もそんなに変わってないかも」
「……ふふ」
「!」
笑った。
ほんの僅か。
けれど。
確かにセージが笑った。
「セージ……」
リュートの目に涙が滲む。
「戻ってきてる」
「……戻る」
「うん!」
「戻らないと……」
セージは黒くなった自分の右腕を見る。
「これは……嫌」
「絶対戻せるよ」
「……」
「僕が戻す」
「あなたが?」
「うん」
リュートは笛を持ち上げる。
「だって」
「この音」
「効いてるんでしょ?」
「……そうみたいね」
「だったら」
「何回でも吹くよ」
その言葉に。
セージは少しだけ目を伏せた。
「……あなたは」
「何?」
「昔から」
「変なところで頑固だったわね」
「セージに似たのかも」
「それは……嫌ね」
「ひどい!」
僅かな。
本当に僅かなやり取り。
それでも。
そこにいたのは。
確かに。
リュートが知っているセージだった。
「……」
ルイスも。
思わず笑う。
「ほんとに戻せるかもな」
「まだ油断しないで」
カイルはそう言いながらも。
声は先ほどより柔らかかった。
「でも」
カイルはセージの右腕を見る。
「少なくとも、笛が何かに作用してるのは確かだね」
「魔獣の力に?」
ルイスが尋ねる。
「たぶん」
カイルは慎重に答えた。
「断言はできないけど」
「笛を吹いてる間」
「セージの中を流れてた赤黒い魔力が、明らかに弱くなってた」
「じゃあ」
リュートが笛を見る。
「もっと吹けば」
「もっと戻せる?」
「可能性は――」
カイルが言い切る前だった。
――ドクンッ!!
「っ……!」
セージが胸元を押さえた。
「セージ!」
「待って」
カイルがすぐに杖を構える。
「また魔力が上がる!」
「そんな!」
セージの身体から。
弱まっていたはずの赤黒い魔力が再び溢れ始めた。
「セージ!」
リュートが笛を口元へ運ぶ。
「もう一回!」
――ピィィィィィィ……!
音が響く。
「ぁ……」
セージの魔力が一瞬揺らいだ。
「効いてる!」
リュートはさらに魔力を込める。
――ピィィィィィィィィ……!
「ぐ……っ」
セージは頭を押さえ、その場に膝をついた。
「リュート……」
「うん!」
「ここにいるよ!」
「……」
「セージ!」
「私は……」
セージは苦しそうに息をする。
「私は……何を……」
「大丈夫!」
「今は思い出さなくていい!」
リュートがすぐに答える。
「僕の声だけ聞いて!」
「……声」
「うん!」
「リュート……」
「そう!」
セージの瞳。
再び。
紫色が戻る。
「セージが出てきてる!」
リュートが叫ぶ。
「ほら!」
「やっぱり戻せる!」
だが。
カイルは喜ぶリュートとは違う場所を見ていた。
「……待って」
「え?」
「セージの腕」
全員の視線が向く。
先ほどルイスが斬りつけた左腕。
炎で焼かれ。
再生が遅れていた傷。
「……止まってる」
ルイスが気づいた。
傷が。
塞がっていない。
「俺の炎?」
「それだけじゃない」
カイルが答える。
「さっきまでは」
「遅くても少しずつ再生してた」
「でも今」
リュートを見る。
「笛を吹き始めてから」
「ほとんど動いてない」
「……!」
リュートが目を見開く。
「じゃあ」
「僕の笛で」
「再生も止められる?」
「再生そのものを止めてるわけじゃない」
「でも」
カイルはセージの傷を見た。
「セージの中を巡ってる力が鈍って、その分だけ傷の治りも遅くなってるんだ」
「……」
ルイスが。
短剣を見る。
「それなら」
「止められる!」
「……」
リュートは。
少しだけ黙った。
「うん」
それから。
笛を握り直す。
「止めよう」
「セージを」
「元に戻すために」
「……おう」
ルイスも頷いた。
「ジョージ!」
「聞こえている!」
ジョージが剣を構え直す。
「笛が鳴っている間に」
「全員で動きを封じる!」
「ルイス!」
「おう!」
「傷を作れ!」
「ただし深追いするな!」
「分かった!」
「騎士団!」
ジョージの声が飛ぶ。
「正面と左右へ分かれろ!」
「セージを囲む!」
「はっ!」
「冒険者たちは騎士の間を埋めろ!」
「一人で仕掛けるな!」
「おう!」
次々と人が動き始める。
その中央。
リュートは笛を吹き続ける。
――ピィィィィィィ……。
「……リュート」
セージは膝をついたまま。
少年を見る。
「何?」
「……苦しい」
「……」
「ごめん」
リュートの表情が歪む。
「でも」
「もう少しだけ」
「我慢して」
「……」
「絶対」
「終わらせるから」
「……終わる」
「うん」
「そうしたら」
「帰ろう」
「……」
「森の家に」
「……森」
セージは。
ゆっくり目を閉じた。
「家……」
「うん」
「……」
「帰ろう?」
ほんの少し。
セージが頷いた。
「……帰る」
「!」
リュートは。
笛を吹きながら笑った。
「約束だからね」
「……約束」
「そう」
「忘れないで」
「……ええ」
その言葉を聞きながら。
ジョージが剣を握り直した。
「行くぞ!」
まず。
ジョージが正面から走り出す。
「セージ!」
呼ばれたセージが顔を上げる。
「……ジョージ」
「まだ私が分かるな!」
「……ええ」
「なら悪く思うな!」
ジョージは地面を踏み込み、セージの黒い右腕へ剣を振り下ろした。
――ガキィン!!
セージは反射的に腕を上げる。
だが。
「っ……!」
先ほどまでと違う。
動きが遅い。
「笛だ!」
ジョージが叫ぶ。
「効いている!」
「今だ!」
左右から騎士たちが踏み込む。
槍の穂先がセージの左右の脚へ向かう。
セージは避けようと身体を動かした。
しかし。
足が追いつかない。
――ズブッ!!
「っ……!」
二本の槍が両脚へ突き刺さった。
「押さえろ!」
「はっ!」
騎士たちが槍へ体重をかける。
「セージ!」
リュートは笛を吹きながら呼びかける。
「動かないで!」
「……」
セージは。
苦しそうに。
それでもリュートを見る。
「リュート……」
「大丈夫!」
「すぐ終わる!」
別の方向から。
冒険者たちが腕を狙う。
剣が振るわれ。
肩と腕へ傷が入る。
「今までより再生が遅いぞ!」
「押せ!」
「ルイス!」
ジョージが叫ぶ。
「行け!」
「おう!」
ルイスは短剣を握り、正面から走り出した。
右手に炎を灯すと、その火を短剣の根元へ添える。
笛によって動きを鈍らされ。
騎士たちによって両脚を押さえられているセージ。
その脇を抜けるように、ルイスは一気に懐へ入り込んだ。
「ごめん!」
狙ったのは。
右肩。
黒く変形した部分。
ルイスが炎を添えた短剣を振り抜く。
――ザンッ!!
「あぁっ!」
セージの悲鳴が上がった。
「っ……!」
リュートの笛の音が一瞬だけ乱れる。
「リュート!」
カイルが叫ぶ。
「止めないで!」
「……!」
リュートはすぐに息を吹き込む。
――ピィィィィィィ……!
再び。
笛の音が安定する。
「ごめん……セージ」
リュートは。
笛を吹きながら。
心の中で謝る。
傷つけたいわけじゃない。
でも。
戻すには。
まず。
この暴走を止めなければならない。
そのためなら。
自分も。
耐える。
「ルイス!」
「分かってる!」
ルイスはすぐに距離を取った。
「カイル!」
「ウインドランス!」
カイルが放った風の槍が、セージの身体そのものではなく足元の地面へ突き刺さる。
――ドンッ!!
地面が抉れ。
セージの足場が大きく崩れた。
「っ!」
体勢を崩したセージへ。
ジョージと騎士たちがさらに圧力をかける。
「今だ!」
「押し倒せ!」
騎士たちが槍を押し込み。
セージの身体が。
地面へ。
倒れる。
――ドンッ!
「押さえろ!」
ジョージが叫ぶ。
何人もの騎士と冒険者が。
セージへ武器を向けた。
誰も。
致命傷を狙わない。
腕。
脚。
動きを止めるため。
それだけ。
「……」
ルイスは。
少し離れた場所で短剣を構える。
「止まった……?」
「まだ!」
カイルが叫ぶ。
「魔力は残ってる!」
「リュート!」
「うん!」
――ピィィィィィィ……。
笛。
続く。
「セージ!」
リュートは。
音の合間。
声をかける。
「聞こえる?」
「……」
「セージ!」
少し。
間があった。
「……聞こえてる」
「!」
「よかった!」
「……」
セージは地面へ倒れたまま。
ゆっくり。
リュートを見る。
「私……」
「うん」
「戻れる……?」
「戻れるよ!」
リュートは迷わなかった。
「絶対」
「戻れる!」
「……そう」
「うん!」
「じゃあ……」
セージは。
目を閉じる。
「少し……」
「休みたい……」
「……!」
「うん」
リュートの声が柔らかくなる。
「休んで」
「僕が」
「ずっと吹いてるから」
「……」
「大丈夫だよ」
「……」
セージの身体から。
少しずつ。
力が抜けていく。
「……やった?」
ルイスが。
小さく呟く。
「まだ分からない」
カイルは警戒を解かない。
それでも。
赤黒い魔力は。
明らかに弱くなっている。
「リュート」
ジョージが少年を見る。
「そのまま続けられるか?」
「うん」
「大丈夫」
答えながら。
リュートは笛を吹き続ける。
しかし。
カイルは。
その顔を見ていた。
「……リュート」
「?」
「ちょっと待って」
カイルが近づく。
「顔色悪くない?」
「……そう?」
「そうだよ」
「でも」
「まだ平気」
「魔力は?」
「……」
「リュート」
「大丈夫だって」
「答えになってない」
「……」
リュートは。
笛を吹きながら。
ほんの少し目を逸らした。
「どれくらい使ってる?」
「……結構」
「やっぱり!」
「でも!」
リュートは一度だけ笛を離す。
「止めたら」
「また暴走するかもしれない!」
「分かってる」
カイルはセージを見る。
「だから」
「無理に止めろとは言わない」
「でも」
リュートを見る。
「限界まで黙ってるのは禁止」
「……」
「分かった?」
「……うん」
「本当に?」
「本当」
「ならいいけど」
カイルが少し離れる。
リュートは。
もう一度。
笛を口元へ。
――ピィィィィィィ……。
「……」
セージは。
静か。
赤黒い魔力も。
弱い。
「もしかして」
ルイスが。
少し笑う。
「このままいける?」
「……」
ジョージも。
何も言わず。
セージを見る。
騎士たち。
冒険者たちも。
少しずつ。
緊張を緩め始める。
リュートの音。
セージへ。
届いている。
戻せる。
誰もが。
そう思い始めた。
その時。
「……」
セージの指先が。
僅かに動いた。
「セージ?」
リュートが気づく。
「……」
「どうしたの?」
「……もっと」
「え?」
「……」
セージの唇が。
ゆっくり。
動く。
「もっと……」
「セージ?」
目。
開く。
「……力」
「……!」
リュートの表情が変わった。
「違う」
「セージ」
「もう力はいらないよ」
「……」
「僕の音、届いてるでしょ?」
「……音」
「そう」
「だから――」
「足りない」
「え?」
「……足りない」
セージの瞳へ。
赤黒い色が。
再び。
滲み始める。
「力が……」
「足りない……」
「セージ!」
「もっと……」
騎士たちが。
一斉に身体へ力を込めた。
「領主様!」
「動きます!」
「押さえろ!」
ジョージが叫ぶ。
「リュート!」
「続けて!」
「うん!」
――ピィィィィィィィィ……!
リュートがさらに魔力を込める。
「ぁ……!」
セージの動き。
止まる。
「効いてる!」
ルイスが叫ぶ。
しかし。
セージは。
震えながら。
少しずつ。
顔を上げた。
「リュート……」
「うん!」
「僕だよ!」
「……」
「セージ?」
「……どうして」
「何が?」
「どうして……」
セージは。
苦しそうに。
リュートを見る。
「止めるの……?」
「……!」
「セージ?」
「私には……」
黒い右手。
地面を掴む。
「もっと……」
「力が……」
「必要なのに……」
「違う!」
「何度も言ったでしょ!」
「必要じゃない!」
「……」
「戻りたいって」
「セージが自分で言ったんだよ!」
「戻る……」
「そう!」
「……」
セージは。
少し考える。
「戻るために……」
「力を……」
「違うよ!」
「……」
リュートは。
必死に。
笛。
吹く。
声。
届かせる。
「セージ!」
「僕を見て!」
「……リュート」
「そう!」
「僕がいる!」
「……」
「だから」
「戻ろう!」
「……」
ほんの一瞬。
紫色。
瞳。
戻る。
「……戻る」
「うん!」
しかし。
その紫を。
赤黒い色が。
また。
ゆっくり覆っていく。
「でも……」
「……」
「もっと」
「力があれば……」
「……」
「もっと……」
リュートは。
笛を吹きながら。
セージを見つめる。
戻る。
また。
遠ざかる。
名前を呼ぶ。
思い出す。
そして。
また。
忘れ始める。
それでも。
まだ。
リュートは諦めなかった。
だって。
今も。
セージは。
自分の名前を呼べた。
笛にも。
反応した。
「……」
リュートは。
さらに。
息を吸う。
まだ。
届く。
まだ。
戻せる。
そう信じて。
リュートは。
もう一度。
セージへ。
笛の音を届けた。




