第一章42 『魔女の目的』
夜。
西の森。
深い森の奥。
人の通らない場所に。
もう一つ。
古びた建物があった。
セージの研究施設。
地上に建つ古びた建物とは違い。
地下へ続く研究室には。
淡い魔法の光が灯っていた。
「……」
その中央。
セージは。
一人で立っていた。
目の前には。
大きな魔法陣。
そして。
その中心に置かれた。
透明な容器。
中には。
淡い光が溜まっている。
魔獣から吸い上げた魔力。
そこから。
余分な性質を削ぎ落とし。
生命へ干渉できる形へと。
精製された力。
「……ここまではいい」
セージが。
小さく呟く。
魔法陣へ手をかざす。
――ドクン。
床に刻まれた線が。
淡く光った。
容器の中にある力が。
一瞬だけ。
強く輝く。
「収集」
「抽出」
「安定化」
セージは。
一つずつ確認するように言葉を並べる。
「どれも問題ない」
視線の先。
壁には。
何枚もの紙が貼られていた。
魔石。
魔獣。
人体。
そして。
身体中を巡る。
複雑な魔力経路。
「残るのは」
セージが。
その中の一枚へ近づく。
「受け入れる側」
人間の身体。
指先。
腕。
胸。
頭。
その全てへ。
細い線が伸びている。
「二十年前」
セージは。
その紙を見つめる。
「私は間違えた」
魔石から。
力を取り出すことには成功した。
小さな動物へ与えれば。
傷の治りが早くなった。
衰えた身体へ与えれば。
活力を取り戻した。
そして。
人間でも。
同じことが起きた。
老いた身体が。
若さを取り戻す。
衰えていた肉体が。
まるで時間を巻き戻すように。
再び力を取り戻す。
「成功した」
セージは呟く。
「確かに」
自分の手を見る。
白い肌。
細い指。
七十を越えた人間のものには。
見えない。
二十年前。
五十を過ぎていた身体は。
若返った。
それは。
紛れもない事実だった。
だから。
あの時は思った。
完成したのだと。
老いを。
乗り越えたのだと。
「でも」
セージは。
袖を捲った。
手首。
そこには。
薄い黒い紋が浮かんでいる。
「違った」
若返りはした。
だが。
時間そのものが止まったわけではない。
身体は。
ゆっくりと。
再び変化を始めた。
普通の人間より。
遥かに遅く。
それでも。
確実に。
時間は進んでいる。
「結局」
セージの指が。
黒い紋をなぞる。
「人間の身体である限り」
「老いからは逃れられない」
静かな声。
けれど。
そこには。
僅かな苛立ちが混じっていた。
「……」
セージは。
目を閉じる。
昔。
鏡を見るたび。
増えていった皺。
白くなっていった髪。
重くなっていった身体。
昨日までできたことが。
少しずつ。
できなくなっていく恐怖。
それだけではない。
自分が何十年もかけて集めた知識。
研究。
発見。
それら全てを。
いつか。
自分自身が失う。
死ねば。
そこで終わる。
「そんなもの」
セージが目を開く。
「受け入れられるわけがない」
人は。
いつか死ぬ。
それが自然だと。
多くの者は言う。
けれど。
セージには。
どうしても。
理解できなかった。
なぜ。
知れば知るほど。
世界は広がっていくのに。
なぜ。
それを知るための時間だけが。
少しずつ減っていくのか。
「私は」
セージは。
目の前の光を見る。
「まだ知らないことがある」
魔法。
魔獣。
魔石。
この世界。
「まだ」
「知りたいことがある」
だから。
終われない。
老いることも。
死ぬことも。
受け入れられない。
「必要なのは」
セージが。
人体の図へ手を添える。
「若返らせることじゃない」
一度。
若さを取り戻すだけでは。
意味がない。
「身体そのものを」
「外から与えられた力を受け入れられる形へ変える」
失ったものを。
何度でも補える身体。
老いによって。
生命力が減れば。
外から与える。
傷つけば。
外から補う。
衰えれば。
また戻す。
「そうすれば」
セージの瞳が。
僅かに細くなる。
「老いに奪われる必要はなくなる」
――ドクン。
容器の中。
淡い光が脈打った。
その瞬間。
「……っ」
セージの指が。
僅かに震えた。
「……」
手首。
黒い紋が。
一瞬だけ。
濃くなる。
そして。
すぐに戻った。
「……まだね」
セージは。
自分の腕を見る。
集めることはできる。
力を取り出すこともできる。
安定させることも。
以前より。
遥かに上手くなった。
だが。
問題は。
人間の身体。
それ自体。
「この身体では」
セージが呟く。
「まだ足りない」
魔獣ですら。
大量の力を流し込めば。
耐えきれず変質する。
巨大魔獣が。
そうだった。
身体を巨大化させ。
異常な再生能力を得た。
けれど。
その代わり。
肉体は。
完全に魔石へ支配されていた。
「同じことを」
セージの目が。
冷たく細められる。
「私の身体で起こすわけにはいかない」
力を得ても。
自分でなくなれば意味がない。
知識を失っても。
思考を失っても。
意味がない。
欲しいのは。
怪物になることではない。
自分のまま。
老いに奪われない身体。
その完成。
ただ。
それだけだった。
「……あと少し」
セージが。
机の上へ置かれた紙を見る。
必要な力。
必要な魔石。
そして。
その力を身体へ馴染ませるための術式。
最後の部分だけが。
まだ完成していない。
「あと少しあれば」
その時。
――コンコン。
扉が。
小さく叩かれた。
「入りなさい」
扉が開く。
銀色の髪。
灰色の外套。
胸元には。
一本の笛。
「……失礼します」
リュートだった。
「終わった?」
「……はい」
短い返事。
セージは。
研究資料から目を離さない。
「何匹?」
「六匹です」
「少ないわね」
「……」
「昨日より増やすように言ったでしょう?」
「でも」
リュートの手が。
胸元の笛へ触れる。
「これ以上は」
「何?」
「……」
リュートは。
少しだけ俯く。
「魔獣たちが」
「かなり弱っています」
「知っているわ」
「……!」
リュートが顔を上げる。
「知ってる……?」
「当然でしょう」
セージは。
机の上の資料を一枚取る。
「どれほど力を回収したかは、全て記録しているもの」
「じゃあ」
リュートの声が。
僅かに強くなる。
「どれくらい苦しんでるかも」
「分かってるんですか?」
「ええ」
「……」
答えは。
あまりにも簡単だった。
「だったら」
リュートが。
拳を握る。
「やっぱり、もう――」
「リュート」
「……!」
セージが。
静かに名前を呼ぶ。
「忘れたの?」
「……何を?」
「あなたを拾った日のこと」
その一言で。
リュートの身体が止まった。
「……」
森。
雨。
寒さ。
そして。
記憶の中にある。
最も古い温もり。
「あなたは」
セージが続ける。
「一人だった」
「……はい」
「誰もいなかった」
「……」
「私が見つけなければ」
そこで。
僅かに言葉を切る。
「今頃どうなっていたでしょうね」
リュートは。
答えられなかった。
セージに拾われた。
育ててもらった。
食事を与えてもらった。
病気になれば。
薬を作ってくれた。
笛の使い方も。
魔獣との接し方も。
森で生きる方法も。
全部。
セージから教わった。
だから。
自分にとって。
セージは。
ただの魔女ではない。
「僕は……」
声が。
小さくなる。
「感謝してます」
「そう」
「今でも」
リュートは。
セージを見る。
「本当に」
「なら」
セージの視線が。
リュートへ向く。
「もう少しだけ手伝って」
「……」
「もう少しなの」
セージが。
容器の中に溜まった光を見る。
「二十年以上かけた研究が」
「もうすぐ完成する」
「……」
リュートは。
その横顔を見つめた。
以前なら。
それだけで。
頷けた。
セージが望むなら。
何でもしたいと思った。
けれど。
今は。
頭の中に。
別の顔が浮かぶ。
赤い髪。
橙色の瞳。
まっすぐこちらを見る少年。
『本人に聞いてみないと分からない』
森で。
聞いた言葉。
何も知らないのに。
敵だった自分を。
最初から悪いと決めつけなかった。
あの少年。
「……」
リュートは。
目を伏せる。
「セージ」
「何?」
「一つ」
少し迷ったあと。
口を開く。
「聞いてもいいですか?」
「ええ」
「研究が」
「完成したら」
「……」
セージが。
リュートを見る。
「何をするんですか?」
「……」
初めて。
セージの返事が止まった。
「老いを止めるためなのは」
「僕も知ってます」
「でも」
リュートは続ける。
「街まで襲う必要が」
「本当にあるんですか?」
「……」
「巨大な魔獣を街へ向かわせて」
「たくさんの魔獣を動かして」
「人を傷つけて」
「そこまでしないと」
「完成しないんですか?」
静かな研究室。
セージは。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
「違うわ」
「……え?」
リュートが顔を上げる。
「研究だけなら」
セージは。
淡々と答えた。
「街を襲う必要なんてない」
「……!」
リュートの目が見開かれる。
「じゃあ」
「なんで……」
「忘れていないから」
「……」
「二十年前」
セージが。
ゆっくりと。
自分の首へ手を触れる。
「私が」
「何をされたのか」
処刑場。
拘束された身体。
向けられた視線。
罵声。
恐怖。
そして。
最後に見た。
グランベルの街。
「私は」
セージの声が。
低くなる。
「確かに罪を犯した」
「……」
「研究のために」
「してはいけないことをした」
人を使った。
許されないことをした。
それを。
セージ自身も。
分かっている。
けれど。
「だからといって」
紫がかった瞳が。
僅かに揺れる。
「私の全てまで否定される理由にはならない」
「……」
「研究も」
「積み重ねた時間も」
「私が求めたものも」
「何もかも」
処刑。
そして。
森へ捨てられた身体。
「全部」
「間違いだったことにされた」
リュートは。
何も言えなかった。
「だから」
セージが。
小さく笑う。
「証明するの」
「証明……?」
「私の研究が」
「間違いではなかったと」
「……」
「私が」
セージは。
自分の手を見る。
「老いを乗り越えれば」
「二十年前」
「私を笑った者たちは」
「もう何も言えないでしょう?」
その笑顔は。
穏やかだった。
けれど。
リュートには。
なぜか。
怖く見えた。
「それと」
「街を襲うことが」
「どう繋がるんですか?」
「……」
セージの笑みが。
消える。
「怒っているのよ」
あまりにも。
単純な言葉だった。
「……」
「私は」
「グランベルを許していない」
セージは。
窓のない地下室で。
まるでその向こうに街があるように。
遠くを見る。
「研究を奪った者たちも」
「私を処刑した者たちも」
「それを見ていた者たちも」
「そして」
僅かに。
目を細める。
「私を森へ捨てた者たちも」
「……」
リュートの胸が。
ざわつく。
「だから」
「復讐するんですか?」
セージは。
すぐには答えなかった。
「……そう呼びたいなら」
やがて。
静かに言う。
「そうなのかもしれないわね」
「……」
「でも」
セージが。
リュートを見る。
「あなたには関係ない」
「!」
「あなたは」
「私の言う通りにしていればいい」
「……」
その瞬間。
胸の奥に。
小さな痛みが走った。
今まで。
何度も聞いた言葉。
言われた通りに。
それで。
いいと思っていた。
でも。
なぜだろう。
今日は。
少しだけ。
違って聞こえた。
「……はい」
それでも。
リュートは。
頷いた。
「明日」
セージが。
机の上から。
小さな黒い魔石を取る。
「これを使うわ」
「……それは?」
「改良したもの」
魔石の中。
黒い筋が。
ゆっくりと蠢いている。
「今までより」
「遠くからでも力を集められる」
「……」
「だから」
それを。
リュートへ差し出す。
「もっと奥の魔獣を集めて」
「……」
リュートは。
魔石を見る。
受け取らない。
「リュート?」
「……」
「どうしたの?」
「僕は」
言葉が。
喉で止まる。
嫌だ。
そう言いたかった。
もう。
魔獣を連れてきたくない。
街へも。
向かわせたくない。
けれど。
目の前にいるのは。
自分を育ててくれた人。
捨てられなかった。
その恩を。
なかったことには。
できなかった。
「……分かった」
リュートは。
黒い魔石を受け取った。
「お願いね」
「……うん」
背を向ける。
扉へ。
一歩。
また一歩。
歩く。
「……」
扉の前。
リュートは。
一度だけ。
足を止めた。
「セージ」
「何?」
「僕」
振り返らないまま。
言う。
「セージに拾ってもらって」
「本当に良かったと思ってます」
「……」
「今でも」
「それは変わりません」
セージは。
何も答えない。
「でも」
リュートの指が。
黒い魔石を握る。
「最近」
「分からなくなるんです」
「何が?」
「……」
少しだけ。
沈黙。
「何が正しいのか」
リュートは。
それだけ言って。
部屋を出た。
――パタン。
扉が閉じる。
「……」
セージは。
しばらく。
その扉を見つめていた。
そして。
「正しいかどうかなんて」
小さく呟く。
「何の意味があるの」
机へ戻る。
「結果が」
「証明するものよ」
その手が。
容器へ伸びる。
――ドクン。
淡い光が。
再び脈打つ。
同時に。
セージの手首。
薄い黒い紋が。
先ほどより。
ほんの少しだけ。
上へ伸びた。
「……」
セージは。
それに気づいていた。
けれど。
何も言わなかった。
――――――――――
翌朝。
グランベル領主館。
「偵察?」
「ああ」
ルイスが。
机の上へ身を乗り出す。
「森に入っていいのか!?」
「声が大きい!」
ジョージが眉を寄せる。
「それに」
「森の奥へ行っていいとは言っていない」
「なんだよ!」
「話を最後まで聞け!」
隣で。
カイルが苦笑した。
机の上。
地図には。
昨日よりも。
多くの印が書き込まれている。
「昨夜」
ジョージが説明する。
「騎士団が森の外周を調べた」
「何か見つかった?」
カイルが聞く。
「ああ」
ジョージが。
一箇所を指差す。
「ここだ」
森の北西。
「古い道?」
ルイスが首を傾げる。
「今はほとんど使われていない」
「二十年前」
ジョージは続ける。
「セージの保管区画へ物資を運ぶために使われていた古い道の一つだ」
「……!」
「じゃあ!」
「ああ」
ジョージが頷く。
「昨日」
「お前たちが確認した魔力の流れ」
指が。
地図の上を動く。
「それと」
「ほぼ同じ方向だ」
「……」
カイルが。
地図をじっと見る。
「なら」
「じゃあ、この道の先に……まだ見つかってない場所があるかもしれない?」
「可能性はある」
ジョージが答える。
「だが」
表情が険しくなる。
「問題もある」
「何?」
「魔獣だ」
ジョージが。
別の印を指差す。
「昨夜だけで」
「森の外周に十数体」
「確認されている」
「そんなに?」
「ああ」
「しかも」
ジョージが。
ルイスを見る。
「その多くに」
「例の黒い筋があった」
「……」
ルイスの表情が変わる。
魔獣から。
力を吸い上げる。
黒い魔石。
「増えてる」
カイルが呟く。
「ああ」
「そして」
「集められている魔力も」
ジョージは。
森の奥へ指を動かす。
「恐らく」
「増えている」
「……」
ルイスが。
地図を見つめる。
「急いだ方がいいんじゃないか?」
「ああ」
ジョージは。
すぐに答えた。
「だから偵察を出す」
「!」
「森の外周から」
「旧道を確認する」
「今も使われている痕跡があるか」
「魔獣がどこから集まっているのか」
「そして」
指先が。
二十年前に保管区画が見つかった地域の。
さらに奥へ向く。
「本当に」
「この先へ魔力が集まっているのか」
「そこまで確認する」
「俺も行く!」
「最初からそのつもりだ」
「おお!」
「ただし!」
ジョージが。
机を叩く。
「勝手に奥へ行くな!」
「分かってるって!」
「昨日も聞いた!」
「今日は大丈夫!」
「その言葉が一番不安なんだ!」
「カイルもいるだろ!」
「僕に全部押しつけないでよ」
「頼むぞ!」
「今言う?」
ジョージが。
大きく息を吐く。
そして。
改めて。
ルイスとカイルを見る。
「冗談抜きで」
「今回は危険だ」
「……」
二人の表情が変わる。
「あの巨大魔獣」
「黒い魔石」
「魔獣から消えている魔力」
「全てが」
「二十年前のセージの研究と繋がっている可能性が高い」
「……」
「相手が」
「何を完成させようとしているのか」
「まだ分からん」
ジョージは。
拳を握る。
「だから」
「見つけても」
「すぐには踏み込むな」
「戻って報告しろ」
「……分かった」
ルイスが答える。
今度は。
迷わなかった。
「それから」
ジョージが。
ルイスを見る。
「リュートを見つけても同じだ」
「……!」
「一人で追うな」
「でも」
「ルイス」
カイルが。
横から声をかける。
「今回は約束しよう」
「……」
「リュートと話したいのは」
「僕も分かってる」
「でも」
「僕たちに何かあったら」
「話すことすらできなくなる」
「……」
ルイスは。
少し考えた。
「分かった」
そして。
拳を握る。
「絶対戻ってくる」
「それでいい」
ジョージが頷く。
ルイスは。
地図を見る。
西の森。
その奥。
まだ。
何があるのか分からない。
けれど。
その奥には。
セージがいる。
そして。
リュートも。
「……行こう」
ルイスは。
地図から顔を上げた。




