第一章41『研究の完成は』
西の森。
人の気配が途絶えるほど。
深い森の奥。
そこに。
古びた建物があった。
外から見れば。
長い間使われていない小屋にしか見えない。
苔のついた壁。
傷んだ屋根。
蔦に覆われた窓。
けれど。
その内部。
さらに。
床下へ続く階段を降りた先には。
地上とはまるで違う光景が広がっていた。
石造りの部屋。
壁一面に並べられた棚。
古びた研究資料。
魔獣の身体を描いた図。
魔石の構造。
魔力の流れ。
そして。
床へ刻まれた。
複雑な魔法陣。
「……」
その中央に。
一人の女が立っていた。
長い黒髪。
白い肌。
紫がかった瞳。
古びた黒いローブ。
セージ・ナイトシェード。
かつて。
グランベル領主家に仕え。
二十年前。
人体実験の罪によって処刑されたはずの魔法使い。
その手元には。
一つの魔石があった。
ただし。
普通の魔石ではない。
全体が。
黒く濁っている。
内部では。
細い黒い筋が。
脈を打つように動いていた。
「……」
セージは。
その魔石を。
金属製の台座へ置く。
周囲には。
同じ形をした台座がいくつも並んでいた。
その上にあるのは。
ひび割れた魔石。
黒く濁ったもの。
砕けてしまったもの。
中には。
完全に光を失ったものもある。
「やはり」
セージが呟く。
「一つでは耐えきれない」
指先で。
ひび割れた魔石に触れる。
「魔獣一体が蓄えられる量にも限界がある」
巨大魔獣。
街を襲った。
あの異形。
身体を巨大化させ。
傷を塞ぎ。
何度倒れても。
再び立ち上がらせる。
あの力も。
元を辿れば。
魔石に蓄えられた力を。
無理やり全身へ流し続けた結果だった。
そして。
最後には。
胸の魔石そのものが。
肉体を支える核になっていた。
「出力を上げれば肉体が壊れる」
セージは。
紙へ何かを書き込む。
「抑えれば、必要な量に届かない」
その視線が。
別の台座へ向く。
そこには。
昨日まで使っていたものよりも。
ずっと小さな魔石が置かれていた。
色も。
完全な黒ではない。
透明な石の中へ。
細い黒い筋が入り込んでいるだけ。
グランベルの騎士たちが。
魔獣から回収したものと。
よく似ていた。
「なら」
セージが。
魔石へ手をかざす。
「一つに溜めなければいい」
指先から。
淡い魔力が流れる。
魔法陣が光った。
――ドクン。
黒い筋が脈打つ。
次の瞬間。
遠く離れた場所から。
細い魔力が。
魔法陣へ流れ込んできた。
一つ。
二つ。
三つ。
森の各所。
そして。
森の外。
魔獣たちの体内へ仕込まれた。
黒い筋を持つ魔石。
それらから。
少しずつ。
少しずつ。
魔力が集まってくる。
「……」
セージの口元が。
僅かに緩む。
「成功」
黒い魔石は。
ただ力を溜めるためのものではない。
魔獣の体内にある魔石へ。
別の魔石から抽出した力を混ぜる。
そうすることで。
魔獣の肉体へ干渉し。
魔力の流れそのものを変える。
巨大魔獣に施したものは。
身体を強化するため。
そして。
今。
森にいる魔獣たちへ施しているものは。
その逆。
魔獣が持つ力を。
少しずつ。
こちらへ集めるため。
魔力を。
一箇所へ集める。
そのための。
道標。
「これなら」
セージが。
魔法陣の中央を見る。
そこには。
透明な容器が置かれていた。
中には。
淡い光。
黒ではない。
赤でもない。
色を失ったような。
薄い光。
魔石から抽出され。
余分な性質を削ぎ落とされた。
純粋な力。
二十年前。
セージが。
初めて取り出したものと。
同じもの。
あの時。
彼女は。
この力を小動物へ与え。
次に。
人へ与えた。
そして最後に。
自分自身へ使った。
老い始めていた身体は。
若さを取り戻した。
止まりかけていた生命は。
再び活力を得た。
成功だった。
少なくとも。
当時のセージは。
そう思っていた。
「……」
セージは。
自分の手を見る。
白く。
細い指。
七十を越えた人間のものには。
とても見えない。
けれど。
袖の奥。
手首には。
薄い黒い紋が残っている。
「まだ」
セージは。
その紋を指でなぞる。
「足りない」
二十年前の研究は。
完全ではなかった。
投与された力は。
長い時間をかけて。
少しずつ。
身体に馴染み。
そして。
失われていく。
それだけではない。
取り込む量を増やせば。
肉体へかかる負担も増える。
魔獣ですら。
耐えきれずに壊れた。
人間ならば。
なおさら。
「だから」
セージは。
壁に貼られた一枚の紙を見る。
そこには。
人体の図。
身体中を巡る魔力。
そして。
胸元へ集中する。
いくつもの線が描かれていた。
「一つに集めるだけでは足りない」
指が。
その線を辿る。
「受け止める側も、変えなければ」
「……」
セージの瞳が。
静かに細められる。
そして。
魔法陣へ。
再び魔力を流した。
――ドクン。
装置が脈打つ。
森の中。
何匹もの魔獣が。
同時に身体を震わせた。
――――――――――
「グ……」
一匹の魔獣が。
地面へ崩れ落ちた。
「……!」
「やめろ!」
声が飛ぶ。
森の中。
銀髪の少年が。
倒れた魔獣へ駆け寄った。
リュート。
膝をつき。
荒く呼吸する魔獣の身体へ触れる。
「大丈夫か?」
「グゥ……」
弱々しい声。
身体には。
目立った傷がない。
それなのに。
立ち上がることすらできない。
「……」
リュートは。
魔獣の胸元を見る。
皮膚の下。
薄い黒い筋が。
脈打っていた。
昨日より。
濃い。
「また……」
リュートの表情が曇る。
これで。
何匹目だろう。
笛で集め。
セージに言われた通り。
決められた場所へ向かわせた魔獣たち。
最初は。
少し様子がおかしい程度だった。
それが。
日が経つにつれ。
一匹。
また一匹と。
弱り始めた。
森の外へ向かった魔獣の中には。
戻ってこなかったものもいる。
そして。
戻ってきても。
「……魔力が」
ほとんど残っていない。
リュートにも。
それくらいは分かった。
「……」
頭へ。
そっと手を置く。
「ごめん」
魔獣は。
何も答えない。
「僕が連れてきたから……」
胸元の笛を見る。
セージに教わった。
魔獣へ意思を伝えるための笛。
本来。
傷つけるためのものではなかった。
敵意を抑えたり。
危険な場所から遠ざけたり。
そうやって。
森で生きるために。
使ってきた。
それなのに。
今は。
「……」
リュートは。
笛を強く握る。
魔獣を。
セージの研究へ連れてくるために使っている。
「リュート」
「……!」
背後から。
声がした。
振り返る。
少し離れた木々の間。
セージが立っていた。
「何をしているの?」
「……この子が」
「そう」
セージは。
倒れた魔獣を見る。
「もう限界みたいね」
「……限界?」
「ええ」
それだけ。
まるで。
壊れた道具を見るような声だった。
「セージ」
「何?」
「この黒いものが、この子たちを苦しませてるんだよね」
リュートが。
魔獣の胸元を見る。
「……」
「昨日、もうやりたくないって言った」
リュートは続ける。
「なのに、まだ僕に集めさせるの?」
言われたことを。
やればいいと思っていた。
セージには。
拾ってもらった恩がある。
育ててもらった。
食べ物を与えてもらった。
笛の使い方も。
森での生き方も。
たくさんのことを教えてもらった。
だから。
疑う必要なんてないと思っていた。
でも。
「この子たち」
リュートの声が震える。
「これのせいで弱ってるんだよね?」
「……」
セージは。
しばらく答えなかった。
やがて。
「研究に必要なの」
それだけ言った。
「でも!」
「昨日も言ったでしょう?」
「……」
「必要なのよ」
静かな声。
怒ってはいない。
それなのに。
リュートは。
それ以上。
言葉を続けられなかった。
「リュート」
「……うん」
「まだ魔獣が必要よ」
「……」
「今までより多く」
リュートの指が。
笛を握り締める。
「……どれくらい?」
「集められるだけ」
「!」
リュートが顔を上げる。
「そんなに……?」
「もう少しなの」
セージは。
森の奥を見る。
「あと少しで」
長い時間をかけた研究が。
ようやく。
次の段階へ進む。
「完成する」
「……」
リュートは。
何も言えなかった。
セージが。
歩き出す。
「日が暮れる前にお願い」
「……うん」
小さな返事。
セージは。
そのまま森の奥へ消えていった。
「……」
一人残されたリュートは。
笛を見る。
吹けば。
魔獣たちは集まる。
自分を信じて。
音についてくる。
その先で。
何が待っているのか。
今なら。
もう分かっている。
「……」
吹けなかった。
口元へ持っていくことすら。
できなかった。
「ルイス……」
思い浮かんだのは。
赤い髪の少年。
何も知らず。
それでも。
まっすぐ自分を見てきた。
あの少年なら。
こんな時。
どうするだろう。
「……」
リュートは。
すぐに首を振った。
「僕は……」
セージに育ててもらった。
恩がある。
裏切れるはずがない。
けれど。
目の前では。
魔獣が苦しんでいる。
「……どうしたらいいんだよ」
初めて。
そんな言葉が。
口から漏れた。
――――――――――
夕方。
グランベル領主館。
机の上。
一つの魔石が置かれていた。
今日。
西街道で回収したもの。
内部には。
細い黒い筋が走っている。
「……間違いないな?」
「ああ」
ジョージの問いに。
騎士が答える。
「昨日回収されたものと同じ特徴があります」
「それだけじゃない」
カイルが続ける。
「魔獣から抜けていた魔力は、森側へ偏っているように感じました」
「……」
ジョージは。
魔石を見る。
「そして笛の音、か」
「うん」
ルイスが頷いた。
「音が聞こえた途端、魔獣は森へ戻っていった」
「なるほどな」
ジョージは。
地図へ視線を移す。
机の上には。
これまで。
異常な魔獣が確認された場所へ。
印がつけられていた。
街の北西。
西街道。
森の入口付近。
そして。
巨大魔獣が現れた場所。
「カイル」
「はい」
「魔力が流れていた方向は分かるか?」
「正確な場所までは」
カイルは。
地図を見る。
「でも」
指を置く。
西街道。
そこから。
森へ向かって。
ゆっくりと指を動かす。
「こっちです」
「……」
別の印から。
もう一本。
「たぶん、この辺りからでも」
さらに。
森へ。
「同じ方向に向かっていると思います」
ジョージの目が。
細くなる。
「つまり」
ルイスが地図を覗き込む。
「全部追っていけば」
「ああ」
ジョージが答えた。
「異常個体が確認された場所も、西側へ偏っている」
「そこへ、カイルが感じた魔力の偏りを重ねると……」
「森のどこかで交わる」
「そこに」
ルイスが言う。
「セージがいる?」
「可能性は高い」
ジョージは。
地図上。
いくつもの線が集まりそうな場所を見る。
「だが」
「?」
「ここは」
ジョージの表情が変わった。
「知ってる場所なのか?」
ルイスが尋ねる。
「……ああ」
指先が。
森の奥。
一箇所を示す。
「二十年前」
ジョージが。
低い声で言った。
「セージの保管区画がいくつか見つかった地域に近い」
「……!」
ルイスとカイルが。
同時に地図を見る。
「そこに」
ルイスの声が。
僅かに弾む。
「まだ何か残ってるのか?」
「分からん」
ジョージは首を振る。
「事件の後、騎士団が捜索した」
「研究資料の多くも押収された」
「だが」
一度。
言葉を切る。
「このさらに奥までは当時も十分に調べられなかった」
「どうして?」
カイルが聞く。
「一部が崩れていた」
「それに」
ジョージは。
昔を思い出すように目を細める。
「セージ自身が使っていた術式が複雑すぎた」
「魔法で隠してたってこと?」
「その可能性もある」
「もし、見つからなかった研究場所があるなら……この辺りかもしれん」
「……」
ルイスは。
地図を見る。
黒い魔石。
魔獣から失われる魔力。
森へ向かう流れ。
リュートの笛。
そして。
二十年前から残る。
森の研究の痕跡。
「全部」
小さく呟く。
「そこにあるのかもしれない」
「かもしれない、だ」
ジョージが言う。
「まだ決めつけるな」
「分かってる」
「……珍しく素直だな」
「俺だって成長するんだぞ!」
「昨日、森へ勝手に行こうとした奴の言葉とは思えんな」
「行ってないだろ!」
「止められたからね」
「カイル!」
僅かに。
部屋の空気が緩む。
だが。
ジョージはすぐに。
地図へ目を戻した。
「……明日から」
「?」
「森の外周を中心に騎士団の調査範囲を広げる」
「!」
「ただし」
ジョージが。
ルイスを見る。
「まだ奥へは入らん」
「ええ!?」
「話を最後まで聞け!」
「だって!」
「敵の居場所が分かりかけているからこそだ」
ジョージの声が。
少し低くなる。
「あの巨大魔獣を忘れたのか?」
「……」
ルイスが黙る。
「あれと同じものが」
「森の奥に何体いるか分からん」
「……!」
「それだけではない」
黒い魔石。
異常な再生。
魔獣から抜かれている魔力。
「相手が何を研究し」
「どこまで完成させているのか」
「我々はまだ知らない」
ジョージは。
地図へ手を置く。
「だから」
「次は」
「見つからずに近づく方法を探す」
「……」
ルイスは。
少しだけ考え。
「分かった」
頷いた。
けれど。
その目は。
地図上の森から離れない。
その奥には。
セージがいるかもしれない。
そして。
リュートも。
「待ってろ」
誰にも聞こえないほどの声で。
ルイスは呟いた。
「今度はちゃんと」
「話を聞くからな」
その頃。
西の森では。
また一つ。
黒い筋の入った魔石が。
ゆっくりと。
脈を打った。




