第一章30 「少年の思い」
「全員下がれ!」
騎士団長が叫ぶ。
「負傷者を連れて森の外へ退け! 残った魔獣を近づけるな!」
騎士たちは互いを支えながら後退していく。
それでも何匹かの魔獣が追おうとする。
「そっちは俺たちが押さえる!」
騎士団長たちは、巨大魔獣ではなく周囲の魔獣へ向き直った。
巨大魔獣が、地面を踏み砕く。
――ドンッ!
土が跳ねた。
空気が震える。
ただ一歩。
それだけで、普通の魔獣とはまるで違うことが分かった。
「来るぞ!」
カイルの声と同時に、巨大魔獣が地面を蹴った。
「――ッ!」
速い。
あれだけの巨体からは想像できない速度で、黒い影が一気に迫る。
「ルイス、避けろ!」
「分かってる!」
巨大な前脚が振り下ろされた。
ルイスは横へ飛ぶ。
――ズドォンッ!
「うわっ!」
さっきまで立っていた地面が抉れ、土と石が弾け飛んだ。
転がりながら体勢を立て直す。
「なんて力だよ……!」
まともに受ければ、短剣どころか腕ごと持っていかれる。
「正面から受けるな! あれは無理だ!」
「言われなくても分かる!」
巨大魔獣がルイスへ顔を向ける。
濁った赤い瞳。
口の隙間からは黒ずんだ涎が垂れ、荒い呼吸をするたび、身体に浮かぶ黒い筋が脈打っていた。
そして。
胸元。
――ドクン。
赤黒い光が、また強くなる。
「……」
ルイスの視線が一瞬だけそこへ吸い寄せられた。
「ルイス!」
「っ!」
巨大魔獣の爪が迫る。
ルイスは地面へ手をつき、無理やり身体を捻った。
頭上を巨大な爪が通り過ぎる。
「危なっ!」
「ぼさっとするな!」
「してないって!」
「してた!」
カイルが杖を振るう。
「――ウインドカッター!」
鋭い風の刃が巨大魔獣へ飛んだ。
――ザシュッ!
「グオオッ!」
黒い毛が裂け、その下の赤黒い皮膚に傷が走る。
「効いた!」
「いや!」
カイルが叫んだ。
「浅い!」
「え?」
傷口を見る。
血は流れている。
だが。
巨大魔獣は怯まない。
それどころか。
「……嘘だろ」
傷口の周囲に、黒い筋が集まり始める。
赤黒い魔力が蠢き。
裂けた皮膚が、少しずつ塞がっていく。
「傷が……」
「治ってる……?」
カイルの顔が強張る。
「普通じゃない。強化された個体でも、あんな治り方はしない」
「じゃあ、どうなってんだよ!」
「僕に聞くな!」
「グオオオオオオッ!」
巨大魔獣が咆哮する。
カイルが杖を構え直した。
「とにかく、動きを止める!」
「分かった!」
ルイスが地面を蹴る。
巨大魔獣も反応した。
前脚が横薙ぎに振るわれる。
「――っ!」
屈む。
頭上を爪が通過した。
そのまま懐へ。
「そこ!」
短剣を脚へ突き立てる。
――ガキンッ!
「なっ!?」
硬い。
刃先が皮膚へ僅かに食い込んだだけで止まった。
「硬すぎるだろ!」
「離れて!」
カイルの声。
ルイスは短剣を抜き、後方へ飛んだ。
「――ウインドバースト!」
直後。
巨大な風が魔獣の横腹へ叩きつけられる。
――ドォン!
「グォッ!」
巨体が僅かに傾いた。
「今だ!」
「おう!」
ルイスが駆ける。
倒す必要はない。
まずは動きを止める。
足。
関節。
首。
短剣でも傷をつけられる場所を探す。
だが。
「……?」
走りながら、ルイスは違和感を覚えた。
先ほどから。
胸の赤黒い光が強くなるたびに、身体中の黒い筋も同じように脈打っている。
――ドクン。
胸が光る。
黒い筋が蠢く。
そして、傷が塞がる。
「……まさか」
「ルイス?」
「あの胸……」
「胸?」
「あそこだけ変なんだ」
カイルも巨大魔獣の胸元を見る。
黒い硬毛の隙間。
赤黒い皮膚のさらに奥。
何かが埋め込まれているように、淡い光が脈打っていた。
「魔力が……集まってる?」
「やっぱり?」
「ああ。でも何だ、あれ……」
カイルが目を細める。
「魔石……?」
「魔石?」
なら。
普通ではない何かがある。
その考えだけが、ルイスの頭へ残った。
「だったら――」
「待て」
カイルが止めた。
「今は無理に狙うな」
「なんで?」
「あれだけ魔力が集中してるんだ。何が起こるか分からない」
「……」
「それに、まず生き残ることを考えろ」
「分かった」
ルイスは頷く。
まだ分からない。
あの胸の光が何なのか。
弱点なのか。
それとも。
もっと危険な何かなのか。
「グルルルル……」
巨大魔獣が再び身を低くする。
「また来る!」
「今度は脚を狙う!」
カイルが杖を向ける。
「――ウインドバレット!」
圧縮された風の弾丸が、巨大魔獣の前脚へ連続して撃ち込まれる。
――ドンッ! ドンッ!
「グォッ!」
一瞬。
魔獣の体勢が崩れた。
「今!」
「おう!」
ルイスが走った。
右。
左。
振り下ろされる爪を避けながら、その懐へ潜り込む。
「はあっ!」
短剣を関節部分へ振り抜いた。
――ザシュッ!
「グオオオッ!」
「入った!」
今度は深い。
魔獣の前脚が僅かに沈む。
「もう一発!」
ルイスが踏み込もうとした、その時。
「――危ない!」
「え?」
横から何かに突き飛ばされた。
ルイスの身体が地面を転がる。
直後。
――ズドォォン!
巨大魔獣の爪が振り下ろされた。
「……っ!」
土煙の向こう。
そこにいたのは。
「リュート!?」
銀髪の少年だった。
「何してるんだ!」
「……」
リュート自身も驚いたように、自分の手を見ている。
考えて動いたわけではなかった。
気づいた時には。
ルイスを押していた。
「お前……」
「……知らない」
「え?」
「僕は……知らないんだ」
リュートが巨大魔獣を見る。
顔には明らかな恐怖が浮かんでいる。
「こんなの、知らない……!」
笛を握りしめる。
「セージは僕に何も言ってなかった!」
「やっぱり、お前が操ってるんじゃないのか?」
「違う!」
リュートは強く首を振った。
「僕が動かしてるんじゃない!」
「……!」
「さっきから何度も命令しようとしてる。でも、全然聞かない!」
リュートが笛を口元へ運ぶ。
――ピィィィィ……!
高い音が森へ響く。
周囲に残っていた魔獣たちが反応し、耳を動かした。
だが。
「グルルルル……」
巨大魔獣だけは。
リュートを見ようともしない。
「ほら……」
リュートの声が震える。
「僕の命令を聞いてない」
「だったら、こいつは……」
ルイスが巨大魔獣を見る。
セージが用意したのかもしれない。
リュートすら知らない何か。
「セージ……」
リュートが呟いた。
「何をしたの……?」
その瞬間。
――ドクンッ!
巨大魔獣の胸が。
これまで以上に強く光った。
「……!」
赤黒い光が、身体中へ広がる。
黒い筋が浮かび上がる。
そして。
「グオオオオオオオオオッ!」
巨大魔獣が天へ向けて咆哮した。
――ズンッ。
一歩。
――ズンッ。
もう一歩。
「……?」
ルイスが眉をひそめる。
巨大魔獣は。
こちらへ来ない。
「何してる……?」
身体の向きを変えている。
ルイスでも。
カイルでも。
リュートでもない。
森の外へ。
「まさか……」
カイルが顔を青ざめさせる。
その先にあるものは。
一つしかない。
「街……?」
リュートが呟いた。
グランベル。
「待て!」
ルイスが巨大魔獣の前へ走る。
「行かせるか!」
「ルイス!」
巨大魔獣が地面を蹴った。
「――ッ!」
止めようと短剣を構える。
だが。
巨大な肩がルイスへぶつかった。
「ぐあっ!」
身体が弾き飛ばされる。
「ルイス!」
カイルが風を起こし、落下するルイスの身体を受け止めた。
「痛っ……!」
「無茶するなって言っただろ!」
「でも、このまま行かせたら!」
「分かってる!」
カイルが巨大魔獣を見る。
しかし。
先ほどまでとは明らかに様子が違う。
こちらと戦おうとしていない。
ただ。
真っ直ぐに。
グランベルを目指している。
「なんで……」
リュートが震える。
「なんで街へ……」
その言葉を聞き。
ルイスが振り返った。
「お前、本当に知らないのか?」
「知らない!」
リュートは首を振る。
「僕が街の方へ向かわせたのは、別の群れだけだ!」
あの時。
セージから命じられた。
騎士団を森へ引きつけ。
その間に別の群れを迂回させ。
グランベルの外周まで向かわせろ、と。
だが。
この巨大魔獣については。
何一つ聞かされていない。
「じゃあ……」
カイルの表情が険しくなる。
「最初からリュートには知らせずに、セージが別で用意してたってことか」
「……」
「何のためかは分からない。でも、こんなものを街へ向かわせる理由なんて、ろくなものじゃない」
ルイスの拳が握られる。
街へ魔獣が向かったこと。
そこに住む人間も。
騎士も。
冒険者も。
何も知らないまま。
「ふざけるな……!」
ルイスが立ち上がる。
「待って!」
リュートが声を上げた。
「え?」
「街へ向かった魔獣は……もういる」
「……!」
「僕が送った群れが先に行ってる」
ルイスの顔から血の気が引く。
巨大魔獣だけではない。
すでに。
別の群れが。
グランベルへ向かっている。
「どれくらいだ?」
カイルが聞く。
「……分からない」
「分からない?」
「途中でいくつかの群れを合流させるように言われてたから……」
リュートが俯く。
「最初に送った数より……増えてるかもしれない」
「おいおい……」
ルイスは森の外を見る。
遠い。
ここからでは街は見えない。
だが。
その方角から。
微かに。
――ゴォォォン。
「……鐘?」
カイルの顔色が変わった。
もう一度。
――ゴォォォン!
遠く。
グランベルの方角から。
警鐘が鳴っていた。
「気づかれた……!」
「もう魔獣が森を抜けたんだ!」
ルイスが走り出そうとする。
だが。
――ズズズズズ……!
巨大魔獣が木々をなぎ倒しながら、森の外へ進んでいく。
「くそっ!」
追いつけない。
このままでは。
「カイル!」
「ああ!」
カイルも走り出す。
「街へ戻る!」
「待って!」
背後から。
リュートの声。
ルイスが振り返る。
「リュート!」
「……」
一瞬。
視線が重なる。
「お前も来い!」
「……!」
「一緒に止めるぞ!」
リュートの瞳が揺れる。
街の方へ向かわせたのは自分だ。
笛を吹いた。
命令した。
魔獣たちは。
自分の音に従って走っていった。
「僕は……」
「今ならまだ間に合う!」
「……」
ルイスが手を伸ばす。
さっきと同じように。
「来い、リュート!」
その手を。
リュートは見つめた。
だが。
森の奥。
セージのいる場所へ視線を向ける。
『私を助けてくれますね?』
あの声が蘇る。
「……ごめん」
「リュート!」
「僕は……」
笛を握る。
「セージのところへ戻る」
「なんでだよ!」
「聞かなきゃいけない」
リュートが顔を上げた。
今までとは少し違う瞳だった。
「どうして、こんなことをしたのか」
「……」
「どうして僕に何も言わなかったのか」
そして。
あの巨大魔獣は何なのか。
「僕は……知りたい」
ルイスは何かを言おうとする。
だが。
警鐘がまた響いた。
――ゴォォォン!
「……っ」
時間がない。
街には。
すでに魔獣が迫っている。
「ルイス!」
カイルが叫ぶ。
「行くぞ!」
「……分かった!」
ルイスはリュートを見る。
「絶対死ぬなよ!」
「……え?」
「次会ったら!」
一瞬だけ。
ルイスが笑った。
「今度こそ連れて帰るからな!」
「……」
リュートの瞳が見開かれる。
「行くぞ、カイル!」
「ああ!」
二人は森の外へ向かって走り出した。
遠ざかっていく背中。
リュートは。
何も言えないまま、その姿を見つめていた。
「……なんで」
胸が苦しい。
敵なのに。
自分は。
あの街へ向かわせた側なのに。
「なんで……そんなこと言えるんだよ」
返事はない。
ルイスたちは、もう森の向こうへ消えていく。
リュートは拳を握った。
そして。
反対方向。
森の奥へ向き直る。
「セージ……」
今までなら。
何も疑わなかった。
言われたことをやった。
セージが望むなら。
それが正しいのだと思っていた。
けれど。
今日は違う。
傷ついた騎士。
苦しむ魔獣。
街へ向かった群れ。
そして。
自分にすら知らされていなかった、巨大な魔獣。
「……教えて」
リュートは小さく呟く。
「何をしようとしてるの……?」
答えを求めるように。
銀髪の少年は。
森の奥へ走り出した。
――――――――――
――少し前。
グランベル。
西側の城壁。
「……何だ?」
一人の兵士が目を細めた。
森の方角。
土煙が上がっている。
「おい」
「どうした?」
「あれ……」
兵士が指を差す。
「何か、こっちに来てないか?」
「……?」
隣の兵士が目を凝らす。
そして。
その顔から。
ゆっくりと血の気が引いていった。
「魔獣……」
「え?」
「魔獣だ!」
森から。
一匹。
また一匹。
次々と。
灰色の獣が飛び出してくる。
「なっ……!」
十。
二十。
それだけではない。
さらに後ろから。
別の群れが合流する。
「数を確認しろ!」
「無理です! まだ増えてます!」
「なんだと!?」
兵士が城壁から身を乗り出す。
魔獣たちは。
散らばっていない。
同じ方向へ。
まるで最初から目的地を知っているかのように。
一直線に。
グランベルへ向かっている。
「警鐘を鳴らせ!」
「はっ!」
兵士が鐘へ飛びつく。
――ゴォォォン!
大きな音が。
街中へ響いた。
――ゴォォォン!
もう一度。
「西門を閉めろ!」
「住民を下がらせろ!」
「騎士団へ伝令を!」
城壁の上が、一気に慌ただしくなる。
そして。
一人の兵士が。
遠くを見た。
「……待て」
「どうした?」
「森の奥……」
木々が。
倒れている。
一つ。
また一つ。
まるで。
巨大な何かが。
こちらへ向かって。
森そのものを踏み潰しながら進んでくるように。
「……何だよ」
兵士の声が震えた。
「あれ……」
まだ。
その姿は見えない。
だが。
確実に。
何かが近づいている。
魔獣の群れの。
さらに後ろから。
グランベルへ向かって。
――ズン。
――ズン。
地面が。
僅かに揺れ始めていた。




