第一章29 『敵として』
――ピィィィ……。
笛の音が森の中へ響き渡る。
次の瞬間。
周囲の魔獣たちが一斉に反応した。
多くは左右へ散り。
ルイスたちの進路を塞ぐ。
だが。
黒い筋を濃く浮かべた数匹だけは。
リュートの意思を振り切るように地面を蹴った。
「来るぞ!」
カイルが叫ぶ。
「分かってる!」
ルイスは短剣を構えた。
一匹目が正面から飛びかかってくる。
「――ッ!」
身体を横へ滑らせる。
鋭い爪が。
頬のすぐ横を通り抜けた。
「危なっ!」
それでも。
足は止めない。
すれ違った魔獣の懐へ潜り込み。
短剣を振り抜く。
「はあっ!」
――ザシュッ!
「グルァッ!」
刃が脇腹を裂き。
黒い血が飛び散った。
だが。
「……!」
魔獣は倒れない。
傷口から血を流しながら。
すぐに身体を反転させる。
「やっぱり硬い……!」
「ルイス、右!」
「っ!」
二匹目が迫る。
「――ウインドカッター!」
カイルが手を振る。
風の刃が。
魔獣の身体を切り裂いた。
「グァッ!」
魔獣が横へ吹き飛ぶ。
「助かった!」
「一匹だけ見てるな! まだ来る!」
「分かってる!」
ルイスが振り返る。
森の奥。
黄色く濁った瞳が。
次々と木々の隙間から覗いている。
一匹。
二匹。
五匹。
さらに奥にも。
「……多すぎだろ」
ルイスが息を呑む。
「ああ。それに……」
カイルは。
魔獣たちを見据えた。
煤けた灰色の毛皮。
その下を走る黒い筋。
異様に盛り上がった筋肉。
中には。
赤く濁った瞳を持つ個体までいる。
「普通の魔獣じゃない」
「やっぱり?」
「ああ」
カイルが目を細める。
「身体の中の魔力が、無理やり膨らまされてるみたいに歪んでる」
「魔力が……?」
「こんな流れ、自然にはならない」
ルイスは。
魔獣の身体を走る黒い筋を見る。
森に残されていた研究。
魔石。
変わり果てた魔獣たち。
少しずつ。
頭の中で繋がっていく。
「まさか……これもセージの研究なのか?」
「可能性は高い」
カイルが答えた。
その時。
――ピィィィッ!
再び。
笛が鳴った。
「……!」
リュートが。
必死な表情で笛を吹いている。
止まれ。
退け。
そう伝えるための旋律。
だが。
黒い筋を浮かべた一匹が。
苦しそうに頭を振った。
「グルルルル……!」
「リュート!」
「止まって……!」
笛の音が続く。
魔獣の身体が。
一瞬だけ止まった。
だが。
ドクン。
黒い筋が脈打つ。
「……っ!」
「ガァァァッ!」
再び。
魔獣が飛び出した。
「来る!」
「――ウインドバースト!」
カイルを中心に。
風が爆発する。
押し寄せた魔獣たちが。
まとめて後方へ弾き飛ばされた。
「今だ!」
「おう!」
ルイスが駆ける。
一匹目。
短剣を振るう。
二匹目。
低く潜り。
爪をかわす。
三匹目が。
横から口を開いた。
「そこ!」
踏み込む。
その勢いのまま。
顎の下へ短剣を突き込んだ。
「ギャウッ!」
魔獣が地面へ倒れる。
「よし!」
「ルイス、後ろ!」
「――ッ!」
振り返る。
太い角を持つ魔獣が。
すぐ目の前まで迫っていた。
「くっ!」
短剣を横へ構える。
――ドンッ!
「ぐあっ!」
衝撃。
ルイスの身体が吹き飛び。
地面を転がった。
「ルイス!」
「……っ、大丈夫!」
すぐに起き上がる。
短剣を握った腕が。
じんじんと痺れている。
「なんて力だ……」
「――ウインドカッター!」
風の刃が走る。
だが。
「……!」
角の魔獣が身体を捻った。
風の刃が。
その横を通り過ぎ。
背後の木へ深く食い込む。
「避けた……?」
カイルの表情が険しくなる。
「こいつら……」
「何?」
「ただ暴れてるだけじゃない」
魔獣たちは。
ルイスたちを囲むように動いている。
一匹が正面から気を引き。
別の個体が左右から回り込む。
「こっちの動きを見てる。それに……連携してる」
「連携……」
ルイスの視線が。
森の奥へ向く。
その先。
銀色の髪をした少年が。
笛を握りしめて立っている。
「……リュート」
苦しそうな顔。
必死に。
魔獣たちを抑えようとしている。
それでも。
完全には止められない。
「リュート!」
ルイスが叫ぶ。
「もうやめろ!」
「……」
「こんなことする必要ないだろ!」
リュートは。
ゆっくりと首を振った。
「……できない」
「なんでだよ!」
「セージに……言われたから」
「だからって!」
ルイスが一歩踏み出す。
「お前が誰かを傷つける必要なんてない!」
「……」
リュートの手が震えた。
「分かってる」
「だったら!」
「分かってるんだ!」
強い声が。
森へ響いた。
ルイスの足が止まる。
「悪いことだって……分かってる」
リュートは俯く。
「騎士たちが傷ついてることも」
笛を握る手に。
力が入る。
「魔獣たちが苦しんでることも」
黒い筋を浮かべた魔獣を見る。
「全部……分かってる」
「じゃあ――」
「それでも!」
リュートが顔を上げた。
瞳が。
大きく揺れている。
「僕はセージを裏切れない」
「……」
「僕を拾ってくれた」
声が震える。
「僕を育ててくれた」
「リュート……」
「僕には……セージしかいなかったんだ」
森で拾われた。
まだ何も分からなかった頃。
食べ物を与えてもらった。
言葉を教えてもらった。
笛の吹き方も教えてもらった。
名前を呼んでもらった。
自分にとって。
世界のすべてが。
あの人だった。
「だから……」
リュートは目を閉じる。
「僕は、セージのためにやらなくちゃいけない」
「何をだよ」
「……」
「何をしろって言われたんだ?」
リュートの指先が止まる。
「……それは」
答えたくない。
言えば。
もう戻れなくなるような気がした。
けれど。
――グオオオオ……!
「……!」
遠くから。
低い咆哮が響いた。
森の外。
グランベルがある方角。
「今の……」
ルイスが振り返る。
カイルも。
表情を変えた。
「待て……」
「カイル?」
「魔獣の数」
「え?」
「さっきより減ってる」
ルイスが周囲を見る。
確かに。
最初に見えた数より少ない。
森の奥から聞こえていた足音も。
すべてがこちらへ近づいているわけではない。
別の方向へ。
遠ざかっている。
「まさか……」
カイルの顔から。
血の気が引いた。
「リュート」
「……」
「魔獣をどこへ向かわせた?」
リュートが目を逸らす。
「答えてくれ」
「……街」
ルイスの表情が凍った。
「……え?」
「一部を……グランベルの方へ向かわせた」
「なんでだよ!」
ルイスが叫ぶ。
「なんで街に!?」
「違う!」
リュートが。
慌てたように顔を上げた。
「街を襲わせるつもりじゃなかった!」
「じゃあ何なんだよ!」
「セージは……街の外まででいいって言ったんだ」
「外まで?」
「騎士や冒険者を……森から戻すためだって」
「……」
――少し前。
古びた小屋。
机の上には。
グランベルと西の森が描かれた地図が広げられていた。
『騎士団が森へ入ってくる可能性があります』
セージは。
静かに地図を見る。
『その時は、すべての魔獣を森へ残しておく必要はありません』
「……?」
リュートが。
地図を覗き込む。
『一部を騎士団へ』
セージの指が。
森の中で止まる。
『残りを森の外へ回してください』
「どこへ?」
指が動く。
そして。
グランベルの近くで止まった。
「……街?」
『街の外周です』
「襲わせるんですか?」
『いいえ』
セージは。
穏やかに答えた。
『近づけるだけで構いません』
「……」
『魔獣が街へ迫れば、騎士や冒険者の一部は戻らざるを得ないでしょう』
「それだけ……?」
『道中にいる群れも合流させてください。数が多い方が、街の警戒を引きつけられるでしょう』
「でも、近づけるだけなんだよね?」
『ええ』
リュートは。
少しだけ息を吐いた。
それなら。
人を襲わせなくてもいい。
街を壊さなくてもいい。
ただ。
魔獣を見せて。
森から追い返せばいい。
『それに』
セージが。
地図のグランベルを見つめた。
『いずれ、あの街には返してもらわなければならないものがあります』
「……返してもらう?」
『あなたが気にする必要はありません』
セージは。
微かに笑った。
『今は、私を手伝ってください』
「……」
『あなたには、あなたにしかできないことがあります』
優しい声。
何度も聞いてきた言葉。
『私を助けてくれますね?』
長い沈黙。
そして。
「……はい」
リュートは。
頷いた。
――――――――――
「だから……」
現在。
リュートは。
グランベルの方角を見る。
「街の外まで行かせるだけだった」
「……」
「そこで止めるつもりだったんだ」
カイルの表情が険しくなる。
「でも」
「……」
「今の異常個体は、君の笛でも止まりきらない」
リュートの顔が青ざめた。
「……!」
ようやく。
その意味に気づく。
「まさか……」
街へ向かわせた群れにも。
黒い筋を浮かべた魔獣がいる。
もし。
あの子たちまで。
自分の命令を振り切ったら。
「……違う」
リュートの唇が震える。
「僕は……そんなつもりじゃ……」
「そんなこと言ってる場合か!」
ルイスが叫ぶ。
「今から止めればいい!」
「……え?」
「まだ間に合うかもしれないだろ!」
「でも……」
「でもじゃない!」
ルイスが。
リュートへ駆け出す。
「ルイス!」
カイルが声を上げる。
リュートも目を見開いた。
「来ないで!」
――ピィィィ!
笛が鳴る。
一匹の魔獣が。
ルイスの前へ飛び出した。
「邪魔だ!」
短剣を振るう。
爪をかわし。
その横を抜ける。
さらに一匹。
「――ウインドバレット!」
圧縮された風の弾丸が。
地面へ叩き込まれた。
――ドンッ!
土煙が舞う。
「今!」
「おう!」
ルイスが。
一気に距離を詰める。
「リュート!」
「……!」
「もう笛を吹くな!」
「やめて!」
「お前を傷つけるつもりはない!」
「だったら来ないで!」
「嫌だ!」
「どうして!」
「お前を連れて帰る!」
「……!」
リュートの表情が。
苦しそうに歪む。
「それだけは……」
笛を握る。
「できない!」
その瞬間だった。
――ズズン……。
「……?」
地面が。
僅かに揺れた。
ルイスの足が止まる。
鳥の声すらない森で。
木々だけがざわめいた。
「何だ……?」
カイルが。
森のさらに奥を見る。
「……!」
表情が変わった。
「カイル?」
「何か来る」
「何か?」
「魔力が……」
杖を握る手に。
力が入る。
「今までの奴とは、桁が違う」
「……」
森の奥。
何かが動いている。
重い足音。
一本。
また一本。
太い木々が揺れる。
「セージ……?」
リュートも。
驚いたように森を見る。
「お前も知らないのか?」
「……知らない」
「え?」
「こんなの……聞いてない」
リュートの瞳が揺れる。
セージから頼まれたのは。
魔獣を集めること。
騎士団を森へ引きつけること。
一部を街の外周へ回すこと。
それだけ。
すべてを。
教えられていたわけではない。
「……セージ、何をしてるの?」
呟いた。
その一瞬。
「リュート!」
「――っ!」
ルイスが。
一気に踏み込む。
リュートが反射的に笛を構える。
だが。
ルイスは。
刃を向けなかった。
――ゴッ!
「っ!」
短剣の柄が。
笛を握る腕へ当たる。
指から力が抜けた。
笛が宙を舞う。
――カラン。
地面へ落ちる。
「……!」
リュートが。
笛を見る。
「返して」
「もうやめろ」
ルイスが。
その前へ立つ。
「返して……」
「嫌だ」
「ルイス……」
「俺は、お前を傷つけたくない」
ルイスは。
短剣を下げる。
そして。
片方の手を差し出した。
「だから」
橙色の瞳が。
真っ直ぐリュートを見る。
「今度こそ、一緒に戻ろう」
「……」
リュートは。
差し出された手を見る。
ほんの一瞬。
指が動いた。
手を伸ばしかける。
「……」
もし。
この手を取ったら。
街へ戻れる。
もう。
笛を吹かなくていい。
人が傷つく姿を。
見なくてもいい。
魔獣たちを。
戦わせなくてもいい。
ルイスと。
また普通に話せるのかもしれない。
けれど。
『リュート』
セージの声が。
頭の奥に浮かんだ。
「……ごめん」
伸ばしかけた手を。
引っ込める。
「僕は戻れない」
「なんでだよ……」
「セージを……一人にできない」
「……」
ルイスの手が。
ゆっくりと下がる。
リュートは。
地面へ落ちた笛へ手を伸ばした。
「待て!」
その時。
――ズズズズズ……!
「……っ!」
先ほどよりも。
遥かに大きく地面が揺れた。
――バキッ!
――メキメキッ!
森の奥。
太い幹が。
次々となぎ倒される。
「来る!」
カイルが叫んだ。
「何が!?」
「分からない! でも――」
次の瞬間。
木々の向こうから。
一つの巨大な影が飛び出した。
「……!」
ルイスが息を呑む。
四本の脚。
黒く。
硬い毛。
その隙間から覗く。
赤黒く変色した皮膚。
身体のいたるところを。
太い黒い筋が走っている。
今まで戦ってきた魔獣とは。
比べものにならない。
「あれ……魔獣なのか?」
「たぶんね……!」
カイルの額を。
汗が流れる。
「でも、魔力の量が異常だ!」
「グルルルルル……」
巨大魔獣が。
低く唸る。
それだけで。
空気が震えた。
リュートも。
呆然と見つめている。
「僕……知らない」
「リュート?」
「こんな子……セージから聞いてない」
「……!」
ルイスとカイルが。
一瞬だけ顔を見合わせた。
その直後。
「グオオオオオオオオッ!」
巨大魔獣が咆哮した。
「来るぞ!」
「おう!」
リュートは、反射的に地面の笛を拾い上げた。
「……死なないで」
誰に向けた言葉なのか。
ルイスたちなのか。
街の人々なのか。
自分が送り出した魔獣たちなのか。
リュート自身にも分からなかった。
ただ。
笛を握る手だけが――。
今までで一番強く震えていた。




