第一章25 『交差する過去』
西の森。
保管区画跡。
男は一人、崩れた石壁の前に立っていた。
「……」
二十年前。
処刑場で見た女。
セージ・ナイトシェード。
あの日。
彼女は最後まで取り乱さなかった。
怒鳴ることも。
命乞いをすることも。
ただ。
何かを知っているような目で、空を見ていた。
『私が残したものを、本当にすべて見つけたのですか?』
「……あの時」
男が小さく呟く。
「お前は、何を残していた」
今なら。
あの言葉の意味が少し分かる。
森に残されていた保管区画。
処分されたはずの資料。
魔石から抽出した力。
人体実験の記録。
そして。
二十年前と似た異変を起こしている魔獣たち。
「全部……繋がっているのか」
その時。
――ピィィィ……。
「……!」
森の奥から笛の音が響いた。
男が顔を上げる。
「またか」
今まで何度も聞いた音。
そして。
音が鳴るたび。
魔獣たちはまるで何かに導かれるように動いていた。
男は腰の剣へ手を添える。
「……」
昨日までは。
無闇に追うことを避けていた。
だが。
もう十分だった。
「今度は、確かめる」
男は森の奥へ歩き始めた。
――――――――――
同じ頃。
グランベル冒険者ギルド。
「人体実験……」
カイルが机の上へ資料を並べていた。
隣ではルイスが、難しい顔をしながら紙を覗き込んでいる。
カイルの声が少し低くなる。
「人間を実験に使っていたこと自体は間違いない」
「……」
ルイスは紙を見つめる。
「……ひどいな」
小さな一言だった。
「前にさ」
「うん?」
「俺、魔女が本当に悪い奴だったのかなって考えてた」
カイルは黙って聞く。
「でも」
ルイスは研究記録へ目を落とす。
「人を勝手に実験に使ってたなら」
橙色の瞳が少し細くなる。
「それは駄目だ」
「……うん」
「ただ」
ルイスは顔を上げた。
「なんで、そんなことまでするようになったんだ?」
「え?」
「最初から人を使って研究するような奴だったのかな」
「……」
「領主様のところで働いてた魔法使いだったんだろ?」
「そう聞いてる」
「だったら」
ルイスは腕を組む。
「どこかで変わったってことだよな」
カイルが少し驚いたように見る。
「ルイス」
「何?」
「意外と考えてるね」
「どういう意味だよ!」
「いや、普段の君なら『気になる! 見に行こう!』で終わるから」
「俺だって考える!」
「そうだね」
カイルが笑う。
「でも、僕も気になる」
「だろ?」
「やったことが正しいとは思わない。でも、なぜそこまで行ったのかは別の話だ」
「うん!」
ルイスが頷く。
「知らないことなら、確かめればいい」
「また森に入ろうとしてないよね?」
「そういう意味じゃない!」
「本当に?」
「……ちょっとだけ思った」
「ほら!」
「でも行かないって!」
そんな二人のやり取りを。
受付嬢が苦笑しながら聞いていた。
――――――――――
西の森。
男は笛の音を追って歩き続けていた。
「……」
おかしい。
森の奥へ進んでいるというのに。
魔獣と遭遇しない。
一匹も。
「避けられている……?」
それとも。
どこかへ移動させられているのか。
――ピィィィ……。
また鳴る。
少し近い。
「……誘っているのか」
誰が。
何のために。
男は警戒を強める。
だが。
引き返さなかった。
木々を抜ける。
その先。
「……」
一軒の小屋が見えた。
古びている。
決して大きくはない。
だが。
煙突。
積まれた薪。
人が何度も歩いた跡。
「誰か暮らしている」
男は足を止める。
保管区画跡とは違う。
今も使われている場所。
その時。
――ギィ……。
小屋の扉が開いた。
「……!」
男の手が剣へ伸びる。
そして。
中から。
一人の女が姿を現した。
長い黒髪。
白い肌。
古びた黒いローブ。
紫がかった瞳。
「……」
男の手が止まった。
息をすることすら。
一瞬、忘れた。
「そんな……」
目の前にいる女。
外見は。
二十年前に見た姿と。
あまりにもよく似ていた。
「……セージ」
女が僅かに笑う。
「久しぶりですね」
「……」
男は答えられない。
声も。
顔も。
纏う雰囲気さえ。
すべて。
二十年前に知っていた女と一致する。
「本当に……」
やっと。
声が出た。
「生きていたのか」
「ええ」
セージは否定しなかった。
「この通り」
「……あり得ない」
「そうでしょうね」
「俺は……」
男の表情が険しくなる。
「あの日を見た」
「ええ」
「お前の刑が執行されたところを」
「知っています」
「なら、なぜ」
男が一歩踏み出す。
「なぜ生きている!」
セージはしばらく何も言わなかった。
そして。
ゆっくり。
自分の手へ視線を落とす。
「……私にも」
「何?」
「すべてが分かっているわけではありません」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいませんよ」
穏やかな声。
セージが腕へ触れる。
袖の隙間。
白い肌に。
薄い黒い筋が見えた。
男の目が細くなる。
「……研究か」
セージは答えない。
だが。
沈黙そのものが答えだった。
男は拳を握る。
「お前が生きているのは、あの研究と関係があるのか?」
「……」
「魔石から取り出した、あの力を」
「随分と調べたようですね」
「施設跡に残っていた」
「そうですか」
その反応。
焦りも。
驚きもない。
「人間の記録も見つけた」
男が続ける。
「二十七」
セージの瞳が僅かに細くなった。
「……」
「覚えているだろ」
「ええ」
あまりにもあっさりと答えた。
「っ……!」
男の手が剣の柄を強く握る。
「何人だ」
「……」
「何人犠牲にした!」
「今、それを聞いてどうするのです?」
「答えろ!」
男の声が森へ響く。
「あなたが知る必要はありません」
セージは。
その怒りを静かに受け止めていた。
「二十年前」
「……」
「私は」
一瞬。
セージの視線が遠くなる。
「自分がしていることを、必要なことだと思っていました」
「必要?」
「研究を進めるために」
「人の命がか!」
「……」
セージは答えなかった。
「狂っている」
男が吐き捨てる。
「そうかもしれませんね」
「……何?」
予想外の答えだった。
「自覚があるのか」
「今なら」
セージは静かに言う。
「少なくとも、当時の私がまともだったとは思いません」
男の表情が変わる。
「……だったら」
「ですが」
言葉を遮る。
紫がかった瞳に。
冷たい色が宿った。
「だからといって」
「……」
「グランベルを許したわけでもありません」
「何だと?」
セージの視線が。
木々の向こう。
街のある方向へ向く。
「……」
そこには。
長い年月を経ても消えなかった何かがあった。
「お前……」
その時。
小屋の横。
木陰で何かが動いた。
「……!」
男が振り返る。
銀色の髪。
灰色の外套。
細身の少年。
その手には――笛。
「お前が……」
男の目が笛へ向く。
「この音の」
「……」
リュートは答えない。
「魔獣を動かしているのは、お前か?」
リュートの手に力が入る。
「……」
否定しない。
「リュート」
セージが名前を呼ぶ。
「……はい」
「こちらへ」
リュートは迷いながら。
セージの近くまで歩いてくる。
「この子は何者だ」
「リュートです」
「それは聞いた」
「なら十分でしょう」
「ふざけるな!」
男が睨む。
「魔獣を街へ向かわせているのか?」
リュートの表情が強張る。
「僕は」
「リュート」
「……」
セージの一言で。
続きが止まった。
男はその様子を見逃さなかった。
「……なるほど」
リュートを見る。
「自分の意思だけでやっているわけではないようだな」
「違う!」
初めて。
リュートが強く声を出した。
「僕は、自分で――」
そこで。
言葉が止まる。
自分で。
何だ?
セージに言われたから。
育ててもらったから。
恩があるから。
だから。
魔獣を集めている。
本当に。
自分で決めているのか。
「……っ」
「リュート」
セージが静かに見る。
「外へ行っていなさい」
「でも」
「大丈夫です」
「……」
リュートは男を見る。
次に。
セージを見る。
「……分かりました」
小屋から離れていく。
だが。
胸元の笛を握る手は。
最後まで緩まなかった。
――――――――――
少し離れた森の中。
リュートは一人、木へ背を預けていた。
「……」
男の言葉が。
頭から離れない。
『自分の意思だけでやっているわけではないようだな』
「違う……」
小さく呟く。
「僕は……」
セージに育ててもらった。
森で。
赤子だった自分を拾い。
食べ物を与え。
言葉を教え。
笛の扱いも。
森で生きる術も。
多くのことを教えてくれた。
だから。
力になりたい。
それは。
嘘ではない。
「……なのに」
最近。
何度も迷う。
苦しむ魔獣を見るたび。
ルイスの顔を思い出すたび。
「なんで……」
胸の奥が。
苦しくなる。
リュートは笛を握った。
この笛は。
物心つく前から自分のそばにあった。
今では。
魔獣たちへ意思を伝えるために欠かせないものになっている。
「……」
遠く。
グランベルの街の灯りが。
木々の隙間から僅かに見えた。
「ルイス……」
なぜ。
あの少年の名前が浮かぶのか。
リュート自身にも分からなかった。
――――――――――
古びた小屋。
「……あの子をどこで拾った」
男が尋ねた。
「森です」
「森?」
「ええ」
「家族は?」
「知りません」
「……」
「赤子だった頃に見つけました」
セージが答える。
「それ以来、私が育てています」
男は黙る。
「だから従っているのか」
「……どうでしょうね」
「お前が命令してるんだろ」
「命令」
セージは少し考える。
「そう見えるのなら、そうなのかもしれません」
「……」
「ですが」
瞳が僅かに細くなる。
「あの子にも意思はあります」
「それを利用しているのはお前だ」
「……」
今度は。
セージが答えなかった。
「二十年前と変わらないな」
「何がです?」
「自分の研究のためなら、他人を使う」
「……」
「人間も」
「……」
「魔獣も」
男の視線が。
リュートが去った方向へ向く。
「今度は、あの子までか」
セージの目から。
一瞬。
感情が消えた。
「それ以上は」
「何?」
「あなたが口を出すことではありません」
「……」
初めてだった。
男にはそう見えた。
研究の話でも。
過去の罪を責められた時でも。
ほとんど表情を崩さなかった女が。
リュートのことを言われた瞬間だけ。
明確に不快感を示した。
「……そうか」
男が小さく呟く。
「少なくとも」
「?」
「あの子を、ただの道具だとは思っていないらしいな」
「……」
セージは答えない。
――――――――――
その頃。
グランベル領主邸。
「西の森へ?」
ジョージが報告を聞いていた。
「はい」
部下が答える。
「保管区画跡周辺の確認のため、調査隊を向かわせております」
「人数は?」
「冒険者五名です」
「……」
ジョージは少し考える。
「待て」
「はい?」
「騎士団にも連絡を」
「騎士団を?」
「ああ」
ジョージは机に置かれた資料を見る。
人体実験。
魔石。
異常な魔獣。
そして。
西の森。
「冒険者だけに任せる段階ではなくなってきた」
「分かりました」
部下が退出する。
一人になったジョージは。
椅子へ深く腰掛けた。
「……」
二十年前の処刑記録。
何度読んでも。
セージは死んだと書かれている。
自分自身も見た。
だが。
「もし……」
言いかけて。
止める。
まだ。
証拠がない。
「……いや」
ジョージは資料を閉じた。
「先に森だ」
――――――――――
古びた小屋。
「それで」
男がセージを見る。
「今度は何をするつもりだ」
「何とは?」
「とぼけるな」
剣の柄へ手を添える。
「魔獣を集め」
「……」
「二十年前の研究を再開している」
「……」
「街に何をするつもりだ」
セージはしばらく黙っていた。
そして。
「二十年前に終わらなかったことを、終わらせるだけです」
静かに答えた。
「そのために、また人を殺すのか」
「……」
「答えろ」
「今のところ」
セージの目が細くなる。
「そのつもりはありません」
「今のところ?」
「ですが」
男を見る。
「邪魔をする者まで守るつもりもありません」
「……」
空気が変わる。
男が僅かに腰を落とした。
「つまり」
「……」
「俺を生かして帰す気はない、と?」
セージは。
答えなかった。
それで十分だった。
――シャッ!
男が剣を抜く。
同時に。
セージが右手を上げた。
魔力が集まる。
「……!」
男が踏み込む。
その瞬間。
「動かない方がいいですよ」
冷たい声。
地面が僅かに震えた。
男が反射的に横へ飛ぶ。
直後。
――ドンッ!
先ほどまで立っていた地面が抉れた。
「……!」
「二十年前と同じだと思わないことです」
セージの周囲に魔力が揺らめく。
「私も」
「……」
「あなたも」
男は剣を構えたまま睨む。
「確かに……」
額から汗が流れる。
「昔より厄介になったな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
セージが一歩踏み出す。
男も構えを変える。
だが。
その時。
――ピィィィィィッ!
今までより鋭い笛の音が。
森へ響き渡った。
「……!」
セージが振り返る。
「リュート?」
次の瞬間。
遠くから。
複数の魔獣の咆哮が聞こえた。
だが。
音の方向は。
小屋ではない。
さらに西。
森の外れ。
「……何?」
初めて。
セージの表情が崩れた。
男はその隙を逃さなかった。
一気に後方へ跳ぶ。
「待ちなさい!」
魔力が放たれる。
男の肩を掠める。
「ぐっ!」
血が散る。
それでも。
倒れない。
木々の間へ飛び込む。
「逃げるのですか!」
「今日はな!」
男の声が遠ざかる。
「知りたいことは分かった!」
「……!」
「お前が生きていることも!」
セージの瞳が鋭くなる。
「お前の研究が今も続いていることもな!」
そして。
姿が消えた。
「……」
追おうとしたセージだったが。
再び。
――ピィィィィッ!
笛が鳴る。
「……リュート」
先ほどとは違う。
何かが起きている。
セージは男を追うことを諦め。
笛の方角へ走り出した。
――――――――――
森の中。
「はぁ……はぁ……!」
男は肩を押さえながら走っていた。
指の隙間から血が流れている。
「くそ……」
痛い。
だが。
致命傷ではない。
「生きていた……」
呼吸を整えながら。
呟く。
「セージ・ナイトシェードは」
今度は。
声だけではない。
自分の目で見た。
話した。
「間違いない」
そして。
もう一つ。
今のグランベルへ。
伝えなければならないことがある。
「魔獣を動かしている少年……」
銀髪。
笛。
セージと共に暮らしている少年。
「それに」
セージ自身と研究の関係。
人体実験。
今も続いている異変。
「……」
男は足を止めない。
二十年前。
自分は。
事件が終わったと思い。
何も確かめなかった。
「今度は……」
歯を食いしばる。
「同じことはしない」
そして。
グランベルへ向かって。
森を走り続けた。
その背後。
西の森の奥では。
何匹もの魔獣の咆哮が。
夜空へ響き始めていた。




