第一章24 『森に残されたもの』
朝。
西の森。
保管区画跡。
「……」
男は、崩れた石壁の前に立っていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
耳の奥に残っている。
『もう、忘れてしまいましたか?』
二十年前に聞いた声。
「……セージ」
本人なのか。
誰かが自分を惑わせているだけなのか。
まだ断定はできない。
だが。
この森で起きている異変が、二十年前の事件と無関係ではないことだけは、もう疑えなかった。
男は足元へ目を落とす。
崩れた石。
錆びた金属。
土に埋もれた器具の残骸。
そして。
『S.N』
昨日見つけた金属片。
「ここで……何をしていた」
男は瓦礫の中へしゃがみ込む。
昨日の資料には、魔石から取り出した力を生物へ与えた記録が残されていた。
そして今。
森には、その研究を思わせる異常な魔獣がいる。
「まだ何か残っているはずだ」
瓦礫を退かしていく。
石。
朽ちた木片。
錆びた金属。
長い年月の間に土へ沈み込んだものを、一つずつ掘り起こしていく。
しばらくして。
「……?」
指先が硬いものへ触れた。
慎重に周囲の土を払う。
現れたのは、小さな金属製の箱だった。
「また箱か……」
昨日見つけたものとは違う。
蓋は錆びついていたが、隙間へ短剣を差し込み、少しずつこじ開ける。
――ギィ……。
「……」
中に入っていたのは、一枚の布。
そして。
小さな金属製の札。
男は札を拾い上げた。
『研究対象管理番号 二十七』
「研究対象……」
裏返す。
そこには。
『人間・男性』
続けて。
『投与後、生命活動に一時的上昇を確認』
『その後、急激に衰弱』
「……!」
男の表情が険しくなる。
「人間……」
魔獣だけではない。
二十年前。
研究施設の捜索へ参加した自分も、人を使った実験の痕跡があったことは知っている。
だが。
当時。
すべての資料を詳しく読む立場にはなかった。
「二十七……」
少なくとも。
これは一人目ではない。
番号が意味するものに気づき、男の手に力が入る。
「何人に……」
答えはない。
箱の中にあった布を見る。
黒ずんだ染み。
すでに何の跡か判別することもできない。
ただ。
そこに実験の残骸が眠っていた。
「……セージ」
昨夜聞いた声が、本当に本人だったとしたら。
二十年前の罪も。
今起きている異変も。
「何をするつもりだ……」
その時。
――ガサッ。
「……!」
男が立ち上がる。
森の奥。
一匹の魔獣が姿を現した。
煤けた灰色の毛。
濁った黄色い瞳。
そして身体には。
黒い筋。
「また……」
男の手が剣へ伸びる。
だが。
魔獣は襲ってこなかった。
荒い息を吐き。
前脚を震わせている。
「……苦しいのか」
魔獣の身体に走る黒い筋が、僅かに脈打った。
まるで。
体内に流れる何かが、身体そのものを内側から傷つけているようだった。
「二十年前の研究と……同じなのか?」
男は一歩近づく。
魔獣が警戒して後ずさった。
「待て」
その時。
――ピィィィ……。
「……!」
笛の音。
魔獣の耳が動く。
そして。
男に背を向け、森の奥へ走り出した。
「おい!」
男も数歩追いかける。
だが。
すぐに足を止めた。
魔獣は迷うことなく、一つの方向へ走っている。
「……呼ばれている?」
昨日から何度も聞いている笛。
そして。
音に反応する魔獣。
「偶然じゃないな」
男は剣から手を離す。
森の奥を見つめる。
「誰かが、魔獣を動かしている」
その先に。
何が待っているのか。
まだ分からない。
――――――――――
グランベル冒険者ギルド。
「また出たの?」
カイルが地図を覗き込む。
「はい」
受付嬢が頷いた。
「今朝、西街道付近で三体確認されています」
「三体……」
「いずれも森の近くです」
ルイスが身を乗り出す。
「黒い筋は?」
「確認した冒険者によれば、三体ともあったそうです」
「やっぱり……」
ルイスの表情が変わった。
以前なら。
新しい謎に目を輝かせていたかもしれない。
だが今は。
あの苦しんでいた魔獣の姿を知っている。
「増えてるんだな」
「そうなります」
受付嬢の表情も険しい。
「領主様も警戒を強めています」
「それと」
カイルが尋ねる。
「保管区画跡の方は?」
「誰かが調べた形跡が残っていたそうです」
「例の男?」
「可能性はあります。ただ、正体はまだ分かっていません」
「また会えたら聞いてみよう!」
ルイスが言う。
「だから勝手に追いかけるのは駄目だからね」
「分かってるって」
「昨日も同じこと言ってた」
「昨日も入ってない!」
「僕が止めたからね」
「結果は同じだ!」
「違うよ」
受付嬢が苦笑する。
「もう一つあります」
「何?」
「昨日、お二人が持ち帰った紙片についてです」
受付嬢が別の紙を取り出す。
「領主様側でも二十年前の記録を調べたところ、似た内容の記録が見つかりました」
「似た内容?」
カイルが読む。
『魔石抽出エネルギー』
『生体投与』
「……」
その下。
『人体への使用記録あり』
ルイスの表情から、笑みが消えた。
「人間にも……?」
「可能性が高いそうです」
「可能性って」
ルイスが受付嬢を見る。
「実際にやったか分からないってこと?」
「いいえ」
受付嬢は少し言いにくそうに目を伏せた。
「人が使われたこと自体は、当時の事件記録にも残っています」
「……」
「ただ、どんな研究が行われていたのか。詳しい内容がほとんど残っていないんです」
カイルが静かに息を吐く。
「だから魔女って呼ばれたのか……」
「はい」
ルイスは紙を見つめる。
魔獣。
黒い筋。
苦しむ姿。
そして。
今度は人間。
「……なんでそんなことしたんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
受付嬢にも。
カイルにも。
答えられなかった。
「ルイス」
「うん?」
「行くなら、今日も石碑の周辺までだよ」
「分かってる」
「……今日は本当に分かってそうだね」
「気になるけどさ」
ルイスは依頼書を見る。
「勝手に入って、何かあったら調査どころじゃなくなるだろ」
「成長したね」
「その言い方やめろ!」
少しだけ。
いつものルイスの顔が戻った。
――――――――――
西街道。
ルイスとカイルは、再び西の森へ向かっていた。
「人体実験か……」
ルイスが歩きながら呟く。
「まだ詳しいことは分からないけどね」
「でも、人が使われたこと自体は本当なんだろ?」
「記録が残ってるならね」
「……」
ルイスは前を見る。
「俺、魔女って聞いてもさ」
「うん」
「最初は昔の怖い話みたいな感じだった」
「……」
「でも」
あの魔獣たちを思い出す。
「本当に誰かが苦しんでたんだな」
カイルはしばらく答えなかった。
「そうだね」
「だったら」
ルイスの橙色の瞳が真っ直ぐ前を見る。
「ちゃんと何があったのか知りたい」
「うん」
「今起きてることも」
「僕も同じだよ」
二人は歩き続ける。
やがて。
古びた石碑が見えてきた。
「……待って」
カイルが足を止める。
「何?」
「昨日と違う」
石碑の周囲。
地面が大きく荒れている。
「足跡……」
人間のもの。
魔獣のもの。
いくつも重なっていた。
「増えてる」
「かなりね」
カイルがしゃがみ込む。
そして。
「……これは?」
地面の一部。
草の上に、黒ずんだ跡が残っている。
「何だ?」
ルイスも近づく。
「触らないで」
「まだ触ってない!」
「君はすぐ触るから」
「信用ないなぁ……」
カイルは落ちていた細い枝を拾い、その先で黒い跡を僅かに掬う。
「……粘ついてる」
「血?」
「色が違う」
「魔獣の身体にあった黒い筋と関係ある?」
「分からない。でも」
カイルが顔をしかめる。
「普通のものではなさそうだ」
「持って帰れる?」
「容器があればね。直接触るのはやめた方がいい」
「受付のお姉さんに言っとこう」
「そうしよう」
その時。
――ピィィィ……。
「……!」
二人が同時に顔を上げた。
「また笛……」
昨日より近い。
森の奥から、細い音が響いている。
「……」
ルイスは黙って森を見つめた。
頭に。
一人の少年が浮かぶ。
銀色の髪。
灰色の外套。
穏やかな声。
そして。
胸元に下げていた笛。
「……リュート」
無意識に。
名前がこぼれた。
「え?」
カイルがルイスを見る。
「今、リュートって言った?」
「……」
「街で会った銀髪の子だよね?」
「ああ」
「どうして今?」
ルイスは少し迷った。
「……あいつ、笛持ってたんだ」
「笛?」
「馬車で会った時から」
「……」
「街で会った時も、胸に下げてた」
カイルの表情が変わる。
「同じ音なの?」
「分からない」
ルイスはすぐに首を振った。
「ちゃんと聞かせてもらったことなんてないし」
「じゃあ」
「でもさ」
森を見る。
「この音を聞くと、あいつの笛が頭に浮かぶ」
――ピィィィ……。
もう一度。
「……」
ルイスは眉を寄せる。
「もしリュートだったら」
そこで。
言葉が止まった。
街で会った時の姿。
普通に話した。
別れた。
それだけだった。
「なんで森にいるんだ?」
「まだリュートだと決まったわけじゃない」
「分かってる」
「なら、決めつけるのはやめよう」
「……うん」
ルイスは頷いた。
だが。
今までよりも。
疑いは強くなっていた。
そして。
笛の音が止まる。
ほぼ同時に。
周囲に感じていた魔獣の気配も遠ざかっていった。
「……カイル」
「うん」
二人は顔を見合わせる。
「今の、偶然かな」
「……僕にはそう思えない」
笛が鳴る。
魔獣が動く。
少なくとも。
何かしらの関係がある。
「報告しよう」
「ああ」
「それから」
カイルがルイスを見る。
「リュートのこともね」
「……」
少しだけ迷い。
「分かった」
ルイスは頷いた。
――――――――――
その夜。
西の森。
古びた小屋。
「……」
リュートは笛を机の上へ置いた。
「戻りましたか?」
資料を読んでいたセージが尋ねる。
「はい」
「何体?」
「三体」
「そうですか」
セージは記録用の紙へ数字を書き込む。
その何気ない仕草を。
リュートは黙って見ていた。
「……セージ」
「何です?」
「今日もルイスがいました」
ペンが止まる。
「そうですか」
「笛を聞かれました」
「昨日も聞かれていますね」
「はい」
「では」
セージがリュートを見る。
「そろそろ気づくかもしれませんね」
「……」
リュートの指が僅かに動く。
「困りますか?」
「……分かりません」
「またそれですか」
責める声ではない。
セージは小さく笑っただけだった。
「でも」
リュートが続ける。
「彼に知られるのは……嫌です」
「なぜ?」
「……」
答えられない。
悪いことをしていると思われたくないからか。
敵だと思われたくないからか。
自分でも分からない。
「リュート」
「はい」
「あなたは、あなたが必要だと思うことをすればいいのですよ」
「……」
その言葉は。
一見、優しかった。
だが。
リュートには。
なぜか以前ほど素直に受け取れなかった。
「セージは」
「?」
「今の魔獣を見て、何とも思わないんですか?」
セージの目が僅かに細くなる。
「何とは?」
「苦しんでる」
「……」
「前より酷くなってる子もいる」
しばらく。
沈黙。
「分かっています」
「だったら」
「だからこそ記録しています」
「……!」
リュートの表情が強張る。
セージは静かに続けた。
「どの程度の量で」
「……」
「どれほど身体へ負担が出るのか」
「セージ」
「何が失敗で、何が成功なのか」
リュートは笛を握った。
「それを知るための研究です」
「……」
以前なら。
理解しようとした。
だが今は。
「……そうですか」
それだけしか言えなかった。
セージは、その表情を見ていた。
何も言わず。
再び資料へ目を落とす。
――――――――――
同じ夜。
保管区画跡。
男は、昼間見つけた金属札を眺めていた。
『研究対象管理番号 二十七』
『人間・男性』
「……二十七」
それより前にも。
人間がいた。
そう考えるべきだろう。
「これが……お前のやったことか」
二十年前。
施設を捜索した時にも、人を使った形跡はあった。
だが。
こうして個人の記録を見ると。
重さが違う。
「セージ……」
昨夜の声を思い出す。
昔。
優秀な魔法使いだった女。
それが。
なぜ、ここまで変わったのか。
「何を求めていた……?」
男は、もう一枚の紙を見る。
昨日見つけた研究記録。
『魔石抽出エネルギー――生体投与』
『生命活動の一時的上昇』
そこで。
男の手が止まった。
「……まさか」
黒い筋。
苦しむ魔獣。
人体実験。
そして。
二十年前に処刑されたはずなのに。
今も聞こえる、あの声。
「……この研究は、何を目指していた?」
まだ。
答えには届かない。
――ピィィィ……。
森の奥。
また笛の音が鳴る。
男は立ち上がった。
「……」
だが。
今度は追わない。
「焦るな」
自分へ言い聞かせる。
「まだ、足りない」
知るべきことがある。
見つけるべきものがある。
そして。
もし本当に。
セージ・ナイトシェードが生きているのなら。
「……会う前に」
男は研究資料を握る。
「何が起きたのかを、知っておく必要がある」
――――――――――
古びた小屋。
セージは一人になった部屋で、古い資料を開いていた。
リュートはすでに別室へ移っている。
「……」
セージは古い研究記録を開いていた。
そこには。
二十年前の自分が残した文字が並んでいる。
『投与後――変化を確認』
『継続観察――』
その先を。
セージの指が静かになぞる。
「……まだ、答えは出ていません」
自分の腕を見る。
袖の下。
薄い黒い筋。
「どこまで……私を変えたのでしょうね」
それを確かめる術はない。
だが。
セージは研究記録を閉じなかった。
むしろ。
次のページをめくった。
「だからこそ」
紫がかった瞳が、紙面を見つめる。
「答えを出さなければ」
そこには。
後悔だけではない。
今もなお。
真実を求め続ける研究者の執着が残っていた。
そして。
窓の外。
グランベルの灯りが。
遠く、小さく揺れている。
「……もう少しです」
セージは静かに呟いた。
二十年前に残した研究。
今、森で起きている異変。
ルイスたち。
そして。
過去を追う男。
すべてが。
少しずつ、一つの場所へ集まり始めていた。




