第一章22 『処刑の記録』
翌朝。
西の森。
かつて研究施設に付随する保管区画があった場所。
崩れた石壁の前に、一人の男が立っていた。
「……」
男の手には、昨夜拾った小さな金属片がある。
表面の大半は錆びついていた。
それでも、刻まれた二文字だけは読むことができる。
『S.N』
「セージ・ナイトシェード……」
男が低く呟いた。
周囲には、崩れた石壁。
朽ちた木材。
地面に半分埋もれた古い瓦礫。
二十年という年月が、かつてここに何があったのかをほとんど覆い隠している。
だが。
この金属片だけでも十分だった。
ここがセージの研究に使われていた場所だった。
それだけは間違いない。
「……妙だ」
男がしゃがみ込む。
瓦礫を一つずつ退かしていく。
「事件の後に調べられた場所なら……」
普通なら、研究に関係するものはほとんど残っていないはずだ。
だが。
昨日見つけた金属片。
そして。
周囲を注意深く見れば、まだ何かが埋まっているようにも見える。
「捜索が不十分だったのか……」
土を払っていく。
やがて。
「……?」
指先が硬いものへ触れた。
男は周囲の土を慎重に取り除く。
現れたのは、小さな金属製の箱だった。
「これは……」
酷く錆びている。
箱の端は変形し、鍵もすでに壊れていた。
男は慎重に蓋を開く。
中にあったのは――。
一枚の古い紙。
そして。
黒く変色した、小さな瓶だった。
「……」
先に紙を取り出す。
湿気で傷み、ところどころ文字が消えている。
それでも、一部は読み取れた。
『魔石より抽出したエネルギーを――』
男の表情が変わる。
『被験体への投与後、生命活動に変化を確認――』
「被験体……」
さらにその下。
『投与量増加に伴い、魔力経路に異常――』
そこから先は破れていた。
「……やはり」
昨日見た魔獣。
身体に浮かんでいた黒い筋。
苦しそうな呼吸。
ただの病気ではなかった。
この研究と関係している可能性がある。
男は続きを読む。
しかし。
最後に残されていた数行だけは、内容が違っていた。
『ここに全記録を残すことはしない』
「……?」
『一部は別所へ移す』
『万一、この区画が発見された場合――』
そこで紙が大きく破れている。
「別所……」
男が目を細めた。
少なくとも。
ここに残されていた資料の一部は、別の場所へ移されている。
「……他にもあるのか」
その瞬間。
――ガサッ。
「……!」
男が素早く振り返り、剣を抜く。
「誰だ!」
木々の間。
何かが動いた。
しかし。
返事はない。
「……出てこい」
静寂。
風が枝葉を揺らす音だけが響く。
そして。
――ピィィィ……。
「……!」
遠くから笛の音が聞こえた。
昨日と同じ音。
「またか……」
男は剣を下ろさない。
昨日。
この音の後、異常な魔獣が森の奥へ戻っていった。
「魔獣と、この笛……」
関係がある。
そう考えるのが自然だった。
だが。
「誰が……」
男は森の奥を睨む。
セージ。
研究施設。
異常な魔獣。
謎の笛。
まだ、何一つ確定してはいない。
それでも。
二十年前に終わったはずの事件が動き出している。
その感覚だけは、もう疑えなかった。
――――――――――
同じ頃。
グランベル冒険者ギルド。
「研究施設らしい場所が分かった?」
ルイスが受付へ身を乗り出した。
「正確には、二十年前の記録から場所が絞れた、という段階です」
「研究施設そのものか、付随する区画かまでは分かっていません」
受付嬢が答える。
「どこ?」
「昨日お二人が見つけた石碑。その先にあった古い道を進んだ辺りだそうです」
「じゃあ行こう!」
「待ってください」
「……」
ルイスの動きが止まる。
「そこは森の中です」
「……ちょっとだけなら?」
「駄目です」
「まだ入口くらい――」
「駄目です」
「……はい」
カイルが横で笑う。
「今日は素直だね」
「だって絶対駄目って言うだろ」
「分かってるじゃないか」
「でも気になる!」
「それは僕も同じだけどね」
受付嬢が地図を広げた。
「ただ、昔の道そのものは森の入口付近まで確認できます」
「そこなら?」
「街道から大きく離れない範囲なら、調べても構わないとのことです」
「よし!」
ルイスが拳を握る。
「それなら行こう!」
「ただし」
「森には入らない!」
「……お願いしますね」
「任せて!」
受付嬢の疑わしそうな表情を見て、カイルが苦笑した。
――――――――――
西街道。
ルイスとカイルは、昨日見つけた石碑の近くまでやって来ていた。
「これが昔の道か」
ルイスが足元を見る。
草に覆われている。
普通なら、ただの森の一部にしか見えない。
だが。
よく観察すると、木の生え方が僅かに違っていた。
「人が通ってたから、ここだけ木が少ないんだろうね」
「二十年経っても分かるもんなんだな」
「完全に消えるには、もっと時間がかかるんじゃないかな」
二人は街道から離れすぎないようにしながら、古い道の跡を調べていく。
やがて。
「……あれ?」
ルイスが足を止めた。
「どうした?」
「あそこ」
道の先。
崩れた石壁の一部は、森の縁ぎりぎりまで続いていた。
「昨日は気づかなかったな」
「角度のせいかも」
二人は近づける範囲まで進む。
「これ……建物?」
ルイスが目を輝かせた。
「可能性は高いね」
「研究施設?」
「多分、それに関係してるのは間違いないね」
「行こう!」
「森の中」
「……分かってる!」
ルイスはその場にしゃがみ込む。
「ここから見えるものだけでも探そう!」
「それならいいよ」
二人は周囲を調べ始める。
割れた石。
朽ちた木。
錆びた金属。
長い年月でほとんどが土に埋もれている。
「何もないなぁ」
「二十年前だよ」
「でもさっきの壁は残ってるぞ?」
「石だからね」
「紙とかは?」
「普通なら残らないと思うけど――」
「あ」
ルイスが何かを拾った。
「カイル」
「何?」
「これ」
街道側へ転がり落ちた石の下。
小さな紙片。
泥に汚れ、端は崩れている。
「紙?」
「奇跡的に石の下に挟まってたみたいだね」
カイルが慎重に受け取る。
「文字がある」
「読める?」
「少しだけ」
目を細める。
『……石……抽出……』
「石?」
「たぶん、魔石だ」
「魔石……」
さらに読み取れる部分を探す。
『……生体……投与……』
「投与?」
ルイスの表情が変わる。
「これって――」
「研究記録の一部かもしれない」
「じゃあ本当に、ここで研究してたんだ」
「そうみたいだね」
カイルは紙を丁寧にしまう。
「これはギルドへ持ち帰ろう」
「うん」
その時。
――ガサッ。
「……!」
二人が振り返る。
森の奥。
木々の間に――一瞬だけ、人影が見えた。
「誰だ!」
ルイスが声を上げる。
影は動かない。
「……」
カイルが杖を構える。
「誰かいる」
ルイスが一歩踏み出す。
「待って」
「でも!」
「森の中だ」
「……」
ルイスが足を止める。
「そこにいるんだろ!」
返事はない。
だが。
確かに誰かがいた。
次の瞬間。
人影が木の裏へ消える。
「……まただ」
ルイスが悔しそうに呟く。
「昨日の人かな?」
「可能性はある」
「なんで俺たちから隠れるんだ?」
「分からない」
カイルは森を見つめる。
「でも、同じ場所を調べているのは間違いなさそうだ」
「敵かな?」
「まだ決めつけない方がいい」
「じゃあ味方?」
「それも分からないって」
「難しいな」
「だから調査してるんだよ」
「なるほど!」
「納得するの早いな……」
二人は研究記録らしき紙片を持ち、ギルドへ戻ることにした。
――――――――――
その頃。
グランベル領主邸。
ジョージ・グランベルは、古い処刑記録を机の上に広げていた。
『セージ・ナイトシェード――刑執行』
『執行確認――済』
『遺体――西方森林へ搬送』
「……」
何度読んでも、内容は変わらない。
二十年前。
自分自身も処刑を見ている。
だからこそ。
ずっと疑ったことなどなかった。
だが。
「……執行確認」
ジョージの指が文字の上で止まる。
問題は処刑そのものではない。
その後だ。
「遺体を誰が確認した……?」
記録をめくる。
搬送担当。
最終確認。
埋葬。
どれを探しても、詳細が残っていない。
「なぜ、ここまで記録が途切れている……」
当時から十分な記録が残されていなかったのか。
それとも、二十年の間に失われたのか。
今となっては分からない。
「失礼します」
部下が書庫へ入ってきた。
「何か分かったか?」
「当時の記録をもう少し調べました」
「聞こう」
「セージ・ナイトシェードの処刑前後ですが、一部の報告書が抜けています」
「抜けている?」
「はい」
「紛失か?」
「恐らくは」
ジョージはしばらく報告書を見つめた。
ジョージの脳裏に、先日報告された森の人影が浮かぶ。
二十年前の事件を探っているらしい、正体不明の人物。
「……いや」
今はまだ推測にすぎない。
「引き続き調べてくれ」
「承知しました」
「それと」
ジョージの声が少し低くなる。
「この件について、まだ街へ広めるな」
「……なぜです?」
「分からないことが多すぎる」
不用意に「死んだはずの魔女が生きているかもしれない」などという噂を流せば、街が混乱する。
「確証を得てからだ」
「はい」
部下が退出する。
ジョージは一人、椅子へ深く腰掛けた。
そして。
処刑記録に書かれた名を見つめる。
「セージ……」
死んだ。
確かに。
そう思っていた。
だが今。
初めて。
その前提そのものに、小さな亀裂が入り始めていた。
――――――――――
夕方。
西の森。
古びた小屋。
机の上には、いくつもの研究資料と魔石が並んでいた。
「順調ですね」
セージが一つの魔石を指先で持ち上げる。
淡い光が内部で揺れていた。
「……」
リュートは黙っている。
「どうしました?」
「今日……ルイスたちが保管区画の近くまで来ていました」
セージの手が止まる。
「そうですか」
「古い紙を見つけてました」
「紙?」
「研究資料の一部だと思います」
「……」
セージが魔石を机へ戻す。
「何が書かれていたか分かりますか?」
「遠かったので、そこまでは」
「そうですか」
静かな声。
だが。
リュートには、彼女の空気が少し変わったように感じられた。
「まずかったですか?」
「いいえ」
セージが小さく微笑む。
「いずれ見つかるとは思っていました」
「じゃあ……」
「ただ、思ったより早い」
「……」
セージは古い地図を広げる。
「保管区画跡へ行きます」
「え?」
リュートが顔を上げる。
「今ですか?」
「夜になってから」
「でも、あそこには」
「あの男もいるかもしれませんね」
「危険です」
「ええ」
「だったら――」
「だからこそ、です」
セージは静かに答える。
「私の過去が、少しずつ掘り返されている」
古い資料へ目を落とす。
「ならば、何が残っているのか。誰が何を見つけたのか」
そして。
窓の外を見る。
「私自身が確かめる必要があります」
リュートは不安そうにセージを見る。
「……僕も行きます」
「構いませんよ」
リュートの手が、胸元の笛へ触れた。
なぜか。
嫌な予感がした。
――――――――――
夜。
かつて研究施設に付随する保管区画があった場所。
セージは崩れた保管区画の前にしゃがみ込んでいた。
「……掘り返されていますね」
土の跡。
開かれた金属箱。
消えている紙。
「誰かが見つけたんですか?」
「ええ。思ったより深く探られています」
「……」
セージが僅かに顔を上げた。
古道に仕掛けた感知の術式が反応した。
「リュート、一度森の奥へ戻りますよ」
「どうしたんですか?」
「……来ましたね」
セージは僅かに口元を緩めると、リュートを連れて森の奥へと向かった。
――――――――――
セージとリュートが森の奥へ姿を消してから、しばらくして。
崩れた保管区画へ、一人の男が現れた。
「……」
昼間よりも深い闇が、崩れた石壁を覆っている。
謎の男は、一人そこに立っていた。
手には。
朝見つけた研究記録。
そして『S.N』と刻まれた金属片。
「……」
何度考えても。
辿り着く場所は同じだった。
魔石を使った研究。
二十年前と似た異常を示す魔獣。
そして。
何度も聞こえる、謎の笛。
「もし……」
男が小さく呟く。
「もし、あの女の研究が今も続いているのなら……」
誰かが引き継いだ。
その可能性もある。
残された資料を見つけた誰かが。
研究を再現している。
そう考えれば説明はできる。
だが。
なぜだろう。
胸の奥では、別の答えを否定できない。
「二十年前……」
男の脳裏に古い光景が浮かぶ。
処刑場。
連れていかれる、一人の女。
セージ・ナイトシェード。
そして。
処刑が終わったという報告。
「……」
自分は。
最後まで見ていたのか。
遺体まで確かめたのか。
「俺は……」
その時。
――ピィィィ……。
「……!」
笛の音。
今までより近い。
男が剣を抜く。
「出てこい!」
返事はない。
暗い森。
木々の向こう。
微かな灯りが揺れた。
「……!」
赤みを帯びた小さな光。
炎ではない。
ランタンか。
誰かがいる。
「誰だ!」
光が止まる。
男は剣を構えたまま目を凝らす。
だが。
姿までは見えない。
「……」
そして。
聞こえた。
「随分と熱心ですね」
「……!」
女の声。
男の身体が固まった。
聞き覚えがある。
ずっと。
忘れたつもりだった声。
「……まさか」
木々の奥。
女の姿は見えない。
「誰だ」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
返事の代わりに。
小さな笑い声が聞こえた。
「……」
「名を名乗れ!」
男の叫びが森へ響く。
すると。
少しだけ間を置いて。
「もう、忘れてしまいましたか?」
姿を見せる必要はない。
声を聞かせれば、それだけで十分だった。
「……!」
男の目が見開かれる。
「その声……」
あり得ない。
二十年前。
終わったはずだ。
「セージ……?」
森の奥。
沈黙。
そして。
――ピィィィ……。
笛の音が鳴った。
その音を合図に、森の奥でいくつかの気配が遠ざかっていく。
それ以上。
女の声が返ってくることはなかった。
「……」
男は剣を握ったまま、暗い森を見つめる。
聞き間違いなのか。
誰かが自分を惑わせているのか。
それとも――。
「生きて……」
そこまで口にして。
男は言葉を止めた。
まだ。
信じることができない。
だが。
あの声を。
忘れることもできなかった。




