第一章21 『予感』
翌朝。
グランベル領主邸。
古い書庫の中。
ジョージ・グランベルは一冊の記録帳を開いていた。
机の上には、二十年前の事件に関する資料がいくつも並べられている。
逮捕記録。
研究施設の捜索記録。
押収された研究資料の一覧。
そして――処刑記録。
「……セージ・ナイトシェード」
紙に書かれた名前を、ジョージは静かに読み上げる。
忘れるはずのない名前だった。
二十年前。
まだ父がグランベルを治めていた頃。
この街で起きた事件の中心にいた女。
「……死んだはずだ」
小さく呟く。
だが。
その言葉には、自分自身へ言い聞かせるような響きがあった。
「領主様」
背後から声がした。
「何だ?」
「昨日ご命令いただいた件について、いくつか記録が見つかりました」
部下が数枚の書類を持って近づいてくる。
「見せてくれ」
「まず、昨日報告された石碑ですが」
古い地図が机に広げられる。
「二十年前の地図にも、それらしい場所が記されています」
「……やはりか」
ジョージが地図を見る。
西街道。
そこから僅かに森へ入った場所。
現在の地図にはない、一本の細い道が描かれている。
「この道の先には?」
「研究施設に付随する保管区画があった可能性があります」
「そうか……」
ジョージの表情が僅かに曇る。
昨日、自分が見つけた文書にもあった。
確認された施設。
その表現。
「すべてを見つけたわけではなかった……ということか」
「可能性はあります」
「他には?」
「処刑後の記録です」
部下が一枚の紙を差し出した。
「……処刑後?」
ジョージの手が止まる。
『刑執行後、遺体を西方森林へ搬送』
「……」
「ここから先の記録が見つかりません」
「埋葬については?」
「ありません」
「遺体を確認した記録は?」
「搬送後については、何も」
ジョージの目が細くなる。
「どういうことだ……」
処刑そのものは覚えている。
セージが捕らえられたことも。
刑が執行されたことも。
だが。
その後について、当時の自分は深く関わっていなかった。
父と、その側近たちが処理した事件だったからだ。
「当時の関係者は?」
「すでに亡くなっている者が多く、確認には時間が必要かと」
「……そうか」
ジョージは記録へ視線を戻す。
死んだはずの女。
二十年後に再び現れた、似た症状の魔獣。
西の森。
見つかっていなかった可能性のある研究施設。
そして――途切れた遺体の記録。
「……偶然なのか?」
部下は答えない。
答えられるはずもない。
ジョージ自身にも、まだ分からない。
「西の森の警戒を強めろ」
「はい」
「だが、大人数で森の奥へ入るな」
「よろしいのですか?」
「まだ何があるのか分からん」
ジョージは地図を畳む。
「刺激する必要はない」
「承知しました」
部下が一礼し、書庫を出ていく。
一人になったジョージは、再びセージの名前を見る。
「……お前は」
窓の向こう。
遠くに見える西の森。
「本当に死んだのか?」
――――――――――
同じ頃。
グランベル冒険者ギルド。
「昨日の人、やっぱり気になるな」
ルイスが掲示板の前で腕を組んでいた。
「石碑の近くにいた人?」
「ああ」
カイルが頷く。
「森の中まで入っていったみたいだったし」
「やっぱり何か知ってるんじゃないか?」
「その可能性はあると思う」
「会えたら聞いてみよう!」
「素直に答えてくれるかな……」
「聞くだけ聞けばいいだろ!」
「まあ、それはそうだけど」
その時。
「ルイスさん、カイルさん」
受付嬢が二人を呼んだ。
「昨日の調査について、追加情報があります」
「何か分かったの?」
「昔の地図が見つかったそうです」
「地図?」
「はい」
受付嬢が一枚の写しを机へ広げる。
「昨日お二人が見つけた石碑の付近。昔は、そこから森の中へ続く道があったようです」
「やっぱり!」
ルイスが身を乗り出す。
「この道の先に研究施設が?」
「その可能性があります。ただ――」
「森の中には入るな、だろ?」
ルイスが先回りして答えた。
「……よく分かりましたね」
「何回も言われてるからな!」
「自慢することじゃないよ」
カイルが呆れる。
「石碑の周辺までは調べて構わないそうです。ですが、それ以上は騎士団の判断を待ってください」
「分かった!」
「本当にお願いしますね?」
「大丈夫だって!」
「僕が見ておきます」
「またそれ言う!」
受付嬢が笑う。
「では、お願いします」
――――――――――
西街道。
ルイスとカイルは、昨日と同じ道を歩いていた。
「なあカイル」
「何?」
「もし昔の研究施設が本当に残ってたらさ」
「うん」
「中に何か残ってると思う?」
「二十年も前だよ?」
「だから面白いんだろ!」
「建物すら残ってるか怪しいと思うけど」
「宝箱とか!」
「研究施設だよ」
「秘密の研究道具!」
「危ないから触らないでよ?」
「まだ見つけてもないだろ!」
二人はそんな話をしながら歩いていく。
やがて。
古びた石碑が見えてきた。
「着いた!」
ルイスが駆け寄る。
「待って」
「ん?」
カイルが地面を見る。
昨日よりも、土が荒れていた。
「足跡が増えてる」
「人の?」
「それもあるけど――」
カイルがしゃがみ込む。
「こっちは魔獣だ」
ルイスも覗き込む。
人間とは明らかに違う、小さな足跡。
何匹分も重なっている。
「森から出てきてる」
カイルが跡を辿る。
「ここまで来て……」
石碑の周辺。
足跡が入り乱れている。
「それから、また森に戻ってる」
「なんで?」
「分からない」
「街へ行こうとしてたんじゃないのか?」
「そのはずなんだけど……」
二人は顔を見合わせる。
先日確認した魔獣も。
森から街の方角へ向かっていた。
なら、なぜここで引き返している?
「何かに呼ばれたとか?」
ルイスが何気なく言う。
「呼ばれた?」
「いや、なんとなく」
その時だった。
――ピィィィ……。
「……!」
二人が同時に顔を上げた。
「今の……」
森の奥。
細く、高い音。
「笛?」
カイルが呟く。
ルイスの表情が変わる。
「……この音」
「知ってるの?」
「……似てる」
「何に?」
「……!」
今度は、はっきりと聞こえた。
ルイスの脳裏に、一人の少年の姿が浮かぶ。
淡い銀髪。
灰色の外套。
そして――胸元に下げていた笛。
「まさか……」
「ルイス?」
ルイスが森へ一歩踏み出す。
「誰かいる!」
「待って!」
カイルが腕を掴んだ。
「音がしたんだぞ!」
「分かってる!」
「だったら――」
「森の中には入らない!」
「でも!」
「約束しただろ!」
「……」
ルイスが歯を食いしばる。
もう一度、笛の音。
森の向こう。
確かに誰かがいる。
「……分かった」
渋々足を止める。
「でも」
ルイスは森を睨む。
「俺、この音を知ってるかもしれない」
「誰の?」
「……まだ分からない」
確信まではなかった。
ただ。
あの少年の顔が、どうしても頭から消えなかった。
――――――――――
森の奥。
木々の間。
「……」
リュートはゆっくり笛を口元から下ろした。
少し離れたところに、数匹の魔獣がいる。
先ほどまで石碑の周辺にいた魔獣たちだった。
「戻って」
と小さく呟き、リュートは短い旋律を吹く。
音に反応し、魔獣たちが一斉に森の奥へ歩き始める。
その姿を見つめるリュートの表情は、決して明るくない。
「……」
遠くから聞こえた声。
聞き間違えるはずがなかった。
「ルイス……」
馬車の中で出会った少年。
街で再会した冒険者。
自分とは何の関係もないはずなのに。
あの少年の顔を見ると、胸の奥がざわつく。
「なんで……」
リュートは笛を握る。
「なんで、ここまで来るんだよ」
この森へ近づいてほしくない。
理由は、自分でも分からなかった。
見つかりたくないからか。
巻き込みたくないからか。
それとも――。
「リュート」
「……!」
背後から声がした。
セージが立っている。
「何をしているのです?」
「魔獣を戻していました」
「そうですか」
セージの視線が、石碑のある方向へ向く。
「笛を聞かれましたね」
「……はい」
「誰に?」
僅かな沈黙。
「……前に話した冒険者です」
「赤い髪の少年?」
リュートがセージを見る。
「覚えてたんですか?」
「あなたが珍しく気にしていましたから」
「……」
「その少年が、ここまで来たのですね」
「はい」
セージはしばらく森の外を見ていた。
「困りましたか?」
「……少し」
「なぜ?」
リュートは答えられない。
「分かりません」
「そう」
セージはそれ以上聞かなかった。
だが。
リュートは笛を握ったまま、ルイスのいる方角を見つめ続けていた。
――――――――――
夕方。
石碑の周辺を調べ続けていたルイスとカイル。
「結局、何も出なかったなぁ」
ルイスが大きく伸びをする。
「石碑と足跡と笛の音だけでも十分だと思うけど」
「姿を見たかった!」
「入らなかっただけ偉いよ」
「子供扱いするな!」
「十四歳でしょ?」
「冒険者だ!」
「はいはい」
ルイスのお腹から音が鳴る。
――ぐぅぅ。
「……」
「……」
「腹減った」
「僕も」
「おっ!」
ルイスの表情が一気に明るくなる。
「カイルもか!」
「朝から歩きっぱなしだからね」
「よし! 帰ろう!」
「切り替え早いなぁ」
「腹が減っては戦はできぬ、だ!」
「今日は戦ってないけどね」
「調査も一緒だろ!」
二人は笑いながらグランベルへの帰路についた。
だが。
ルイスは歩きながら、一度だけ振り返った。
西の森。
「……笛」
やはり気になる。
あの音。
やっぱり、リュートの笛に似ている気がする。
一人の銀髪の少年の姿が、頭から離れなかった。
――――――――――
その頃。
森のさらに奥。
古い道を、一人の男が歩いていた。
手には二十年前の地図。
「……この辺りのはずだ」
木々をかき分け、先へ進む。
やがて。
目の前が僅かに開けた。
「……」
崩れた石壁。
地面に埋もれた瓦礫。
朽ちた木材。
建物の形はほとんど残っていない。
だが。
確かに、かつてここには何かがあった。
「保管区画の跡か……」
男は足元へ目を向ける。
灰。
壊れた器具。
錆びた金属片。
その一つを拾い上げる。
「……これは」
表面に小さな刻印が残されていた。
文字の大半は錆びて読めない。
だが。
一部だけ。
『S.N』
「……セージ・ナイトシェード」
男の声が低くなる。
その時。
――ピィィィ……。
「……!」
遠くから笛の音が響いた。
男が振り返る。
誰もいない。
だが。
笛は確かに森の奥から聞こえている。
「笛……?」
腰の剣へ手を伸ばす。
昨日見た異常な魔獣。
今日見つけた研究施設に付随していた建物の跡。
そして、この音。
「……何が起きている」
男は森の奥を見据える。
その表情には、僅かな警戒と――確信に近い疑いが浮かび始めていた。
――――――――――
夜。
古びた小屋。
セージは一人、窓の外を見ていた。
「セージ」
リュートが近づく。
「何です?」
「今日、森にいた人」
「ええ」
「ルイスたちじゃない方です」
セージの目が僅かに細くなる。
「……あの人は、何者なんですか?」
「さあ」
「知らないんですか?」
「知っているかもしれません」
「……?」
曖昧な答え。
リュートは眉を寄せる。
「僕たちを襲ってきますか?」
「どうでしょうね」
「怖くないんですか?」
その問いに。
セージは少しだけ黙った。
「……怖くない、と言えば嘘になります」
リュートが驚いたように顔を上げる。
「怖いんですか?」
「私にも、恐れるものくらいありますよ」
セージは窓へ映る自分を見る。
長い黒髪。
白い肌。
二十年前から。
ほとんど変わっていない姿。
「ですが」
セージが窓枠へ手を置く。
「私はもう、失う恐怖を知っています」
「……」
「時間も」
指先が僅かに震える。
「身体も」
「……」
「積み重ねてきたものも」
リュートは黙って聞いていた。
「二十年前」
セージの瞳が遠くを見る。
「私は、そこで終わるはずでした」
「……処刑のことですか?」
「ええ」
「でも、セージは生きてる」
「そうですね」
微笑む。
けれど。
その笑顔には、どこか寂しさがあった。
「どうして……生きてるんですか?」
リュートが尋ねる。
セージは答えなかった。
「セージ?」
「その話は――」
窓の外を見る。
「もう少し後にしましょう」
「……」
「今はまだ、過去を掘り返すには早い」
紫がかった瞳に。
一瞬だけ、遠い記憶が映る。
刑が執行された日。
冷たい地面。
薄れていく意識。
そして……。
その先を思い出す前に、セージは目を閉じた。
「……もうすぐです」
「何がですか?」
「過去が、今に追いつく時が」
リュートは意味を理解できない。
ただ。
セージは森の奥を見つめていた。
そこには――。
二十年前の事件を追う、一人の男。
異変を追い始めたルイスたち。
そして。
まだ誰も知らない、あの日の真実。
終わったはずの過去が。
静かに、再び動き始めていた。




