第一章20 『過去に生きる者』
夜。
西の森。
月明かりの下。
昼間、ルイスとカイルが見つけた古い石碑の前に、一人の男が立っていた。
「……ここか」
男は石碑へ手を触れる。
苔に覆われた表面。
そこに刻まれた文字を、指先でゆっくりとなぞった。
『――この地より先、立入を禁ず』
「……変わっていないな」
小さな呟きが森へ消える。
腰には、長年使い込まれた剣。
肩には古びた外套。
そして手には、一枚の古い地図が握られていた。
男が地図を開く。
そこに描かれているのは、今とは少し違うグランベルと西の森。
街道の位置。
かつて存在した道。
そして――現在の地図には記されていない印。
「この先だったはずだ」
男が森の奥を見る。
石碑の先には、草木に覆われた痕跡があった。
よく見なければ分からない。
だが確かに――昔、そこには道があった。
「二十年……」
男の表情が険しくなる。
「本当に終わった事件なら――」
地図を握る手に力が入る。
「なぜ今になって、同じような異変が起きている」
答えはない。
男は石碑の先へ足を踏み入れた。
消えかけた古い道を確認する。
静かな森に、風が吹き抜ける。
その時。
――グルル……。
「……!」
遠くから獣の唸り声が聞こえた。
男の手が腰の剣へ伸びる。
だが――抜かない。
じっと森の奥を見つめる。
「魔獣か……」
もう一度、低い鳴き声。
男の目が細くなった。
「……今日はここまでだ」
男は石碑の方へ戻る。
だがその表情から警戒が消えることはなかった。
「まずは確かめなければならない」
男は最後にもう一度振り返る。
「二十年前の何が――まだ、この森に残っているのか」
――――――――――
翌朝。
グランベル冒険者ギルド。
「昨日見つけた石碑?」
「そう!」
受付嬢の問いに、ルイスが勢いよく頷いた。
「西街道の近くにあったんだ!」
隣にいるカイルも続ける。
「かなり古いものでした。『この地より先、立入を禁ず』と刻まれていました」
「立入禁止……」
受付嬢が眉を寄せる。
「それから、森の中で誰かが僕たちを見ていた可能性があります」
「人が?」
「はい。ただ、姿までは確認できませんでした」
受付嬢は少し考えた後、報告書へ書き込んでいく。
「分かりました。領主様にも報告しておきます」
「石碑、昔の研究施設と関係あると思う?」
ルイスが尋ねる。
「私からは何とも……」
受付嬢が首を振る。
「ですが、領主様から追加の連絡が来ています」
「追加?」
「西街道周辺の調査範囲を、少し広げるそうです」
「じゃあ俺たちも――」
「ただし」
受付嬢がルイスをじっと見る。
「森の中へは入らないように、とのことです」
「……」
「ルイスさん?」
「分かってるって!」
カイルがすぐ横から口を挟む。
「僕が見張っておきます」
「カイル!」
「昨日も入ろうとしてたじゃないか」
「入ってない!」
「止めたからだろ!」
「結果的には入ってないだろ!」
「そういう問題じゃない!」
受付嬢が思わず笑う。
「とにかくお願いしますね」
「はーい……」
「返事が軽いなぁ」
「大丈夫だって!」
ルイスはそう言いながら、すでに西の森の方角を見ていた。
――――――――――
しばらくして。
ルイスとカイルは再び西街道を歩いていた。
「なあ、カイル」
「何?」
「昨日の人影」
「ああ」
「やっぱり気になる」
ルイスが森を見る。
「俺たちのこと、見てたよな?」
「たぶんね」
「誰なんだろう?」
「この辺りを調査している冒険者かもしれないし、領主様の部下かもしれない」
「それなら隠れる必要ある?」
「……それは僕も思った」
「だろ?」
ルイスが嬉しそうに振り返る。
「じゃあ怪しい人だ!」
「どうしてそうなるんだよ」
「だって隠れてたんだろ?」
「怪しいのは否定しないけど……」
カイルがため息をつく。
「見つけても、いきなり追いかけたりするなよ?」
「分かってるって!」
「その返事、信用できないんだよな……」
二人はそんな話をしながら、昨日の石碑へ向かっていく。
やがて。
「見えた!」
木々の手前。
昨日と変わらず、古びた石碑が立っていた。
「……ん?」
近づいたルイスが足を止める。
「どうした?」
「ここ」
ルイスが地面を指差した。
「昨日、こんなのあった?」
「……」
カイルがしゃがみ込む。
湿った土。
そこには、はっきりと足跡が残されていた。
「人の足跡だ」
「昨日の人?」
「分からない。でも――」
カイルが痕跡を辿る。
足跡は石碑の前まで来ている。
そして。
「森の中へ続いてる」
「……!」
ルイスの目が輝いた。
「やっぱり、この先に何かあるんだ!」
「待て待て」
「分かってるよ」
「本当に?」
「入らないって!」
ルイスは石碑の前から森を覗き込む。
草木に覆われているが、よく見ると不自然に木が少ない場所が続いている。
「これ……道だったのかな」
「可能性はあるね」
カイルも目を凝らした。
「二十年も使われてなければ、ほとんど森に戻っててもおかしくない」
「じゃあこの先に……」
「昔の何かがあるかもしれない」
ルイスが一歩踏み出しかける。
「入らない」
「まだ何もしてない!」
「足が動いてた!」
「ちょっと見ようとしただけだって!」
その時。
――ガサッ。
「……!」
二人が同時に森へ振り向いた。
木々の奥。
何かが動いた。
「まただ!」
ルイスが身構える。
カイルも杖を構えた。
「誰かいるんですか!」
声を飛ばす。
返事はない。
「昨日の人かな」
「分からない」
二人はしばらく森を見つめる。
だが――。
何も出てこなかった。
「……行ったみたいだね」
「俺たちを避けてるのかな」
「その可能性はある」
ルイスは少し不満そうに森を見る。
「一回くらい話せばいいのに」
「向こうには向こうの事情があるんだろ」
「何してる人なんだろうなぁ」
「少なくとも」
カイルは残された足跡を見る。
「この場所に何かあることを知っている可能性は高い」
「だよな!」
「石碑と足跡のことも報告しよう」
「了解!」
二人は再び街へ向かって歩き出した。
その後ろで。
森が静かに揺れていた。
――――――――――
グランベル領主邸。
「石碑……?」
ジョージ・グランベルは、届いた報告書を見つめていた。
『西街道付近に古い石碑を確認』
『刻印――この地より先、立入を禁ず』
「……」
ジョージの指が止まる。
その言葉。
どこかで見た覚えがあった。
「二十年前の記録を」
「はい?」
傍らにいた部下が聞き返す。
「研究施設の捜索記録だ。西の森に関するものを持ってきてくれ」
「承知しました」
部下が部屋を出ていく。
ジョージはもう一度報告書を見る。
「それと……人影か」
石碑の付近。
森の中にいた、正体不明の人物。
「……」
ジョージの脳裏に、僅かに古い記憶が浮かぶ。
だが。
確信を持つには、まだ情報が足りない。
「まさかな……」
小さく呟き、窓の外へ目を向けた。
西の森。
二十年前の事件以来、必要以上に人を近づけないようにしてきた場所。
「また、あの森か……」
――――――――――
同じ頃。
西の森。
古びた小屋では、セージが資料を読み進めていた。
「……」
一枚。
また一枚。
古い紙を机へ並べていく。
「それは?」
リュートが後ろから覗き込んだ。
「実験記録です」
紙面には、細かな数字が並んでいる。
『魔石抽出エネルギー――生体投与』
『投与後、生命活動の一時的上昇を確認』
『継続投与により魔力経路に異常』
リュートの目が止まる。
「これ……昨日の資料と同じですね」
「ええ」
セージが頷く。
「ただ、こちらの方が後の記録です」
「……黒い筋のことも?」
「あります」
紙を一枚めくる。
『過剰な魔力流入に伴い、体表に変色を確認』
「……」
リュートの表情が曇る。
「今の魔獣と同じ……」
「似ていますね」
「じゃあやっぱり――」
「ですが」
セージが言葉を遮る。
「まだ結論を出すには早い」
「……?」
「魔石から取り出した力は、投与する量、対象の身体、魔力との相性で結果が変わります」
セージの指が記録をなぞる。
「二十年前も、同じ反応を示す個体ばかりではなかった」
「相性……」
「ええ」
セージの瞳が細くなる。
「だからこそ、確かめる価値がある」
リュートは何も言えなかった。
彼女にとっては、研究の結果なのだろう。
成功したか。
失敗したか。
どんな変化が起きたか。
それを一つずつ確かめる。
だが。
リュートの頭に浮かぶのは、苦しそうに身体を震わせる魔獣だった。
「……セージ」
「何です?」
「やっぱり、あの魔獣たちは苦しんでるんじゃないですか?」
セージの手が止まった。
「……そうかもしれません」
「だったら――」
「リュート」
穏やかな声。
怒っているわけではない。
だからこそ、続きを言いにくかった。
「研究に犠牲はつきものだ、などと言うつもりはありません」
「……」
「ですが、何もせずに答えが得られることもない」
セージは再び資料へ目を落とす。
「私はもう一度、すべてを最初から失うつもりはありません」
リュートの指が、笛へ触れた。
「……」
「それより」
セージが数枚の紙を見比べる。
「やはり、足りませんね」
「何がですか?」
「後半の記録です」
「まだ見つかってない?」
「ええ」
セージが目を閉じ、記憶を辿る。
「捕らえられる直前まで使っていた記録。その一部がありません」
「どこに?」
「それが分かれば苦労はしません」
少しだけ笑う。
「ただ――消えたとは思っていません」
「誰かが持ってる?」
「その可能性もあります」
リュートが不安そうにセージを見る。
「最近、森をうろついている人……関係あるんですか?」
ほんの一瞬。
セージの表情が止まった。
「……さあ」
「知ってるんですか?」
「まだ確かめていません」
それだけ答え、セージは再び資料へ視線を戻した。
だが。
その目はもう、紙を見ていなかった。
――――――――――
夜。
森の奥。
石碑から続く、消えかけた古い道。
そこを、昼間の男が一人で歩いていた。
手には二十年前の地図。
「……この辺りか」
草木を避けながら進む。
何度も地図と周囲を見比べる。
やがて。
――グルル……。
「……!」
男が足を止めた。
暗闇。
木々の間から、一匹の魔獣が姿を現す。
煤けた灰色の毛。
黄色く濁った瞳。
大型犬より一回り大きな身体。
だが。
「……これは」
男の表情が変わった。
魔獣の身体には――黒い筋が走っていた。
まるで皮膚の下を何かが這っているように、脈打っている。
「二十年前と……」
魔獣が唸る。
男の手が剣へ伸びた。
しかし。
魔獣は襲ってこない。
「……?」
前脚が震えている。
呼吸が荒い。
口元から涎を垂らしながら、必死に身体を支えていた。
男はゆっくり剣から手を離す。
「お前……」
魔獣が苦しそうに息を吐く。
「苦しんでいるのか」
男が一歩近づこうとする。
すると魔獣は身体を震わせ、後ずさった。
「待て」
だが。
次の瞬間。
――ピィィィ……。
「……!」
森のどこかから、細い音が響いた。
笛。
魔獣の耳が僅かに動く。
そして。
「おい!」
男の声を無視して、魔獣は森の奥へ走り去った。
「……笛?」
男は暗闇の向こうを見る。
もう一度。
――ピィィィ……。
遠くから、微かな音。
「……」
男の目が鋭くなる。
魔獣。
黒い筋。
そして――笛の音。
「やはり……偶然ではない」
古い地図を握りしめる。
二十年前の記憶。
終わったはずの事件。
目の前に現れた、かつてと似た異常。
「誰かが、まだ続けている」
男は森の奥へ視線を向けた。
「それとも――」
そこで言葉を止める。
まだ。
口にするには早い。
だが、胸の奥に浮かんだ一つの可能性を。
男はもう無視することができなかった。
――――――――――
さらに森の奥。
古びた小屋。
セージが窓の外を見つめていた。
「……来ましたね」
「え?」
リュートが顔を上げる。
「何がですか?」
「いいえ」
セージは小さく笑う。
「何でもありません」
その視線の先には――暗い森。
古道に仕掛けた感知の術式が、僅かな反応を伝えている。
その先。
古道の奥には、一人の男がいた。
セージの紫がかった瞳に。
ほんの僅かに――懐かしむような色が浮かんだ。




