第一章19 『残された研究』
翌朝。
西の森。
木々の奥深くに建つ、古びた小屋。
「……これで、ひとまず揃いましたね」
セージ・ナイトシェードは、机の上に並べられた古い資料を眺めていた。
紙は黄ばみ、端が崩れかけているものもある。
二十年という時間を感じさせるほど傷んでいたが、そこに残された文字はまだ読み取ることができた。
セージが一枚の紙を手に取る。
『魔石より抽出した魔力の生体への作用――』
細かな文字と数字が、紙一面にびっしりと書き込まれている。
「……懐かしい」
指先が、その記録を静かになぞった。
『投与量の増加に伴い、身体能力及び生命活動に変化を確認――』
そこで文章は途切れている。
その下には別の筆跡で、いくつもの数値と観察結果が書き足されていた。
セージは目を細める。
「この頃は……まだ、分からないことばかりでした」
魔獣の体内に存在する魔石。
そこから取り出せる力が、どこまで生物へ影響を与えるのか。
今机に並んでいるのは、その答えを求めていた頃の記録だった。
その時。
「……また昔の資料ですか?」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
リュートだった。
「ええ」
「随分たくさんありますね」
リュートが机へ近づく。
何度か見たことのある古い紙。
最近になって、森の奥にある崩れかけた建物から運び出したものだ。
「これで全部なんですか?」
「いいえ」
「まだあるんですか?」
「恐らくは」
セージは紙を机の上へ戻した。
「二十年前、私は研究を一箇所だけで行っていたわけではありません」
「……グランベルの街にもあったんですよね」
「ええ」
セージが小さく頷く。
「表向きの研究を行う場所。そして――人目を避ける必要がある研究を行う場所」
リュートの視線が僅かに動く。
「それが、最近資料を運び出していた森の奥の建物?」
「そうです」
今二人が暮らしている小屋とは別の場所。
かつて研究施設の一部として使われていた建物。
今では壁の一部が崩れ、蔦と苔に覆われている。
森を知らない者なら、ただの廃墟だと思うだろう。
「グランベルに捕らえられた時、街にあった資料の多くは押収されました」
「昨日言ってたものですね」
「ええ。ですが――」
セージが机に並ぶ資料を見る。
「研究のすべてが、そこにあったわけではありません」
「……だから残ってた」
「そういうことです」
リュートは黙って資料を見つめる。
自分も回収を手伝った。
セージに頼まれ、森の奥の廃墟へ入り、崩れた棚や箱の中から何度も古い記録を運び出した。
その時は、ただ昔の研究資料だとしか思っていなかった。
だが今は違う。
街の近くで異変を起こしている魔獣。
自分が笛で集めている魔獣たち。
そして――セージが再び始めた研究。
すべてが、この机の上にある過去から続いている。
「……これを使って、何をするんですか?」
リュートが尋ねた。
セージの手が止まる。
「続きをするだけですよ」
「続きを……」
「二十年前、私の研究は途中で終わりました」
セージは淡々と言う。
「いいえ――終わらされた、と言った方が正しいでしょうか」
「……」
「だから今度こそ、確かめるのです」
セージが一枚の資料を持ち上げた。
そこには魔獣の簡単な図と、その身体を巡る魔力についての記録が残されている。
「魔石から取り出した力が、生物へどのような変化をもたらすのか」
「今の魔獣たちも、そのために……?」
セージは答えなかった。
けれど、それで十分だった。
リュートの指が、胸元の笛へ触れる。
「……」
「どうしました?」
「いえ……」
リュートは視線を逸らした。
以前なら、言われたことをそのまま受け入れていた。
セージには理由がある。
自分を育ててくれたこの人がすることなら、きっと意味がある。
そう思っていた。
今も、その気持ちがなくなったわけではない。
それでも――。
苦しむ魔獣の姿が、頭から離れなかった。
「リュート」
「……はい」
「後悔していますか?」
突然の問いだった。
リュートは笛を握ったまま、しばらく答えられなかった。
「……分かりません」
「そうですか」
セージはそれ以上追及しなかった。
再び資料へ視線を戻し、一枚ずつ順番に整理していく。
その横顔を、リュートは黙って見つめていた。
「まだ足りませんね」
「え?」
「ここにあるのは、途中までの記録です」
セージが数枚の紙を並べる。
「一部が抜けています」
「どこにあるんですか?」
「……それを確かめなければなりません」
セージは窓の外へ目を向けた。
木々の向こう。
遠くにグランベルの街がある。
「過去は、消したつもりでも残るものです」
静かな声だった。
「人の記憶にも――物にも」
「……」
「そして時には、その過去が今へ追いついてくる」
その瞳に、一瞬だけ暗い色が宿った。
リュートは何も答えない。
ただ胸元の笛を握ったまま、グランベルの方角を見つめた。
――――――――――
同じ頃。
グランベル冒険者ギルド。
「昨日の話、やっぱり気になるな」
ルイスが掲示板の前で腕を組んでいた。
「魔女のこと?」
隣にいたカイルが聞く。
「ああ。それと研究」
「僕も気になってるよ」
カイルは昨日のジョージの話を思い出す。
二十年前。
魔獣や魔石を使った研究。
捕らえられたセージ・ナイトシェード。
そして今になって再び現れた、黒い筋を持つ魔獣。
「偶然にしては、似すぎてる」
「だよな!」
「だからこそ、誰かが昔の研究に関わっている可能性はあると思う」
「じゃあ、やっぱり森に――」
「入らないよ」
「まだ何も言ってないだろ!」
「顔に書いてある」
「……」
「領主様に言われたこと、忘れてないよね?」
「分かってるって!」
「本当に?」
「本当だよ!」
カイルが疑わしそうな目を向ける。
その時。
「ルイスさん、カイルさん」
受付嬢が二人を呼んだ。
「ちょうどよかったです」
「何かあった?」
「領主様から追加の調査依頼が届いています」
「追加?」
ルイスがすぐに食いつく。
「はい。西街道周辺について、昨日より少し範囲を広げて調べてほしいとのことです」
受付嬢が一枚の依頼書を差し出す。
「街道沿いや森の入口付近で、二十年前の事件に関係しそうな痕跡が残っていないか確認してください」
「二十年前って――」
「昨日お話しした、セージ・ナイトシェードの事件です」
「おお!」
ルイスが勢いよく依頼書を受け取った。
「やっぱり領主様も気になってるんだな!」
「当然だろうね」
カイルが内容を確認する。
「ただし」
受付嬢が少し強い口調で付け加えた。
「森の奥へは入らないように、と念を押されています」
「……」
「ルイスさん?」
「分かってます!」
あまりにも素早い返事に、カイルがため息をつく。
「僕が見ておきます」
「カイル!」
「お願いします」
「受付のお姉さんまで!?」
受付嬢が小さく笑った。
「それで、何から調べようか」
ルイスが尋ねる。
「まずは西街道だね。昨日の魔獣がどこから来ているのか、改めて痕跡を探そう」
「昔の研究施設は?」
「場所が分かれば調べたいけど……」
カイルは少し考える。
「二十年前の建物なら、もう残ってない可能性もある」
「でも何か痕跡くらいあるかもしれないだろ?」
「そうだね」
カイルが頷く。
「街道から外れすぎない範囲で探してみよう」
「よし!」
二人はギルドを出た。
――――――――――
西街道。
グランベルの街を出たルイスとカイルは、森に沿うように歩いていた。
「二十年前かぁ……」
ルイスが森を眺める。
「そんな昔のもの、本当に残ってるかな」
「建物そのものは難しくても、道とか目印とか、何か残ってるかもしれないよ」
「目印?」
「例えば立入禁止の看板とか」
「二十年も残る?」
「木なら無理かもしれないけど、石なら――」
「あ」
ルイスが突然足を止めた。
「どうした?」
「あれ」
指差した先。
西街道から僅かに外れた、森の入口近く。
草に半分埋もれるように、一つの石碑が立っていた。
「……本当にあった」
「カイルすげえ!」
「いや、偶然だから」
二人が近づいていく。
長い年月のせいか、石碑の表面は苔に覆われている。
ルイスが手で軽く苔を払うと、その下から薄い文字が現れた。
「何て書いてある?」
「待って……」
カイルが目を凝らす。
『――この地より先、立入を禁ず』
二人の表情が変わった。
「立入禁止……」
「かなり古いね」
カイルが石碑の周囲を確認する。
すでに道らしい道はなく、その先には木々が密集している。
「ここから先に、何かあったってことか?」
「可能性はある」
「研究施設とか?」
「まだ分からないよ」
そう答えながらも、カイルの視線は森の奥へ向いていた。
二十年前。
魔女。
研究。
そして立入禁止の石碑。
無関係だと考えるには、出来すぎている。
「行ってみる?」
「行かない」
「即答!?」
「森の奥へ入るなって言われたばかりだろ」
「でも、すぐそこなら――」
「駄目」
「……分かったよ」
ルイスが渋々引き下がる。
その時。
――ガサッ。
「……!」
二人が同時に振り返った。
森の中。
木々の隙間で、一瞬だけ何かが動いた。
「誰かいる!」
ルイスが目を凝らす。
「待って!」
カイルが杖を構えた。
二人の間に緊張が走る。
「出てきてください!」
カイルの声が森へ響く。
返事はない。
風が木々を揺らす音だけが聞こえてくる。
「……」
ルイスはじっと森の奥を見つめる。
「さっき、人影みたいなのが見えた」
「僕も何か動いたのは見た」
「追う?」
「追わない」
「まだ何も――」
「絶対言うと思った」
カイルは杖を下ろさないまま周囲を確認した。
だが、それ以上何かが動く気配はなかった。
「魔獣かもしれない。ここに長居するのはやめよう」
「……分かった」
「石碑のことはギルドへ報告する。それから領主様に判断してもらおう」
「そうだな」
二人は石碑の位置を覚え、街へ戻ることにした。
何度か振り返ったが――結局、森の中から何かが姿を現すことはなかった。
やがて二人の姿が街道の向こうへ消えていく。
それからしばらくして。
石碑の近く。
太い木の陰から、一人の男が姿を現した。
「……」
腰には、長く使い込まれた剣。
肩には古びた外套。
男は去っていったルイスたちの背中を見つめた後、石碑へ目を向ける。
刻まれた文字を見て、その表情が僅かに険しくなった。
「……まだ残っていたか」
そして男は――森の奥へ視線を向けた。
まるで、その先に何があるのかを知っているかのように。
――――――――――
夜。
西の森。
古びた小屋。
セージは机の上に古い地図を広げていた。
「……ここですね」
細い指が、地図の一点を示す。
「どこですか?」
リュートが覗き込む。
「昔、森の研究施設で使っていた区画の一つです」
「今日まで資料を運んでいた場所とは違うんですか?」
「同じ森の中ですが、別の場所です」
セージは地図をなぞる。
「森の研究施設には、いくつかの区画や保管場所がありました。保存していた物も、それぞれ違います」
「そんなに……」
「危険な研究ほど、人目から遠ざける必要がありましたから」
穏やかな声だった。
けれど、その内容にリュートは何も返せなかった。
セージが別の紙を取り出す。
そこには魔石から取り出した力について、いくつもの記録が残されていた。
出力量。
持続時間。
生体への反応。
そしてその端には――。
『過剰投与時、魔力経路に異常を確認』
という記述がある。
リュートの目が止まった。
「これ……」
「どうしました?」
「今の魔獣に出てる黒い筋と、関係あるんですか?」
僅かな沈黙。
セージは資料へ視線を落とした。
「……可能性はあります」
「可能性?」
「二十年前と今では、やり方が違います。それでも、同じ力を利用している以上、似た反応が出ても不思議ではありません」
「じゃあ、あの魔獣たちは……」
リュートの声が僅かに沈む。
セージはその変化に気づいていた。
それでも表情を変えない。
「研究には、結果が必要です」
「……」
「成功も失敗も、すべて答えへ近づくための記録になる」
リュートの手が胸元の笛を握る。
自分が集めた魔獣たち。
その中には、以前まで普通に森で生きていたものもいる。
「完成したら……どうするんですか?」
リュートが尋ねた。
「研究を?」
「はい」
セージはしばらく答えなかった。
やがて立ち上がり、窓辺へ歩いていく。
木々の向こう。
夜のグランベルには、いくつもの灯りが見える。
「グランベルは、私からすべてを奪いました」
「……」
「研究も」
セージの手が窓枠へ触れる。
「名前も」
声は静かだった。
「そして――私が積み重ねてきた時間さえも」
リュートは何も言えない。
「ならば……」
セージの紫がかった瞳に、冷たい光が宿る。
「今度は、あの街が失う番です」
「……セージ」
「心配はいりません」
セージが振り返る。
その顔には、いつもの穏やかな微笑みがあった。
だからこそ。
リュートには、その笑顔が以前より少しだけ恐ろしく見えた。
――――――――――
その頃。
グランベル領主邸。
ジョージ・グランベルは一人、古い書庫にいた。
机の上には二十年前の事件記録が積まれている。
「……」
一枚ずつ紙をめくっていく。
セージ・ナイトシェード。
研究施設。
押収物。
事件後の処理。
「ここか……」
ジョージの手が止まった。
『押収された研究資料及び器具については、領主家管理下に置く』
さらに次の記録。
『確認された施設の捜索を完了』
「確認された施設……」
ジョージがその一文を小さく繰り返す。
――すべての施設。
そうは書かれていない。
さらに古い報告書を探し、ページをめくる。
そして、一枚の記録を見つけた。
『研究者本人より、他施設に関する供述なし』
「……」
ジョージの眉が寄る。
二十年前の自分は、事件のすべてを知る立場にはいなかった。
当時グランベルを治めていたのは父だ。
自分が知っているのは、後に残された記録と――自分自身が見たものだけ。
「もし……」
ジョージの視線が、西の森へ向かう。
「父たちが見つけたものが、すべてではなかったとしたら……」
机の上には、今日届いた新しい報告書も置かれている。
黒い筋を持つ魔獣。
二十年前と似た異変。
そして――西の森。
ジョージの脳裏に、忘れたはずの光景が一瞬だけ蘇った。
「……まさか」
立ち上がる。
「まだ、あの森に残っているのか?」
それが単なる古い研究の残骸なのか。
それとも――。
ジョージには、まだ分からない。
ただ一つ。
二十年前に終わったはずの事件が。
少しずつ、現在へ姿を現し始めていた。




