第一章18 『消えない過去』
翌朝。
グランベル冒険者ギルド。
「……失礼いたします」
受付嬢が一枚の報告書を手に、ギルド奥に設けられた応接室へと入っていく。
普段なら冒険者が使うことのないその部屋には、一人の男が座っていた。
年齢は五十代半ば。
整えられた黒髪には白髪が混じっている。
落ち着いた表情をしているが、その瞳にはこの街を背負う者特有の鋭さが宿っている。
「昨夜から今朝にかけての報告です」
受付嬢が書類を机の上へ置く。
「西街道周辺で、再び魔獣が確認されました」
「数は?」
「昨日までより増えています」
「被害は?」
「今のところ、人的被害はありません」
「……今のところ、か」
男は報告書へ目を落とす。
紙面には目撃地点と数、そして討伐された魔獣の状態について簡潔に記されていた。
「魔獣の状態は?」
「以前確認された個体と同じです。体表には黒い筋のようなものが確認されています」
「……そうか」
男の指が、報告書の一箇所で止まった。
「西だけなのだな?」
「はい」
「東側には?」
「ほとんど報告がありません」
「ならば……やはり西の森から来ている可能性が高いか」
「ギルドでも、そのように見ています」
男はしばらく黙った後、椅子から立ち上がった。
「分かった」
「領主様?」
「私自身も状況を確認する」
「ですが――」
「街の近くまで魔獣が来ているのだろう?」
「……はい」
「なら、報告だけを聞いているわけにはいかない」
男は窓の外へ目を向けた。
朝のグランベルには、すでに多くの人々が行き交っている。
商人が店を開き、冒険者が依頼へ向かい、子供たちの声が通りに響く。
「この街を守るのが、私の役目だ」
男の名は、ジョージ・グランベル。
この街を治める領主だった。
――――――――――
「領主様が来てるって?」
冒険者ギルドの掲示板前。
噂を耳にしたルイスが目を輝かせた。
「昨日話していた人だよ」
隣にいたカイルが答える。
「ジョージ・グランベル」
「そう、その人!」
ルイスが大きく頷く。
「どんな人なんだろうな!」
「君は領主に会うのがそんなに楽しみなの?」
「だって、この街で一番偉い人なんだろ?」
「まあ……領主だからね」
「冒険者として挨拶くらいしてみたい!」
「君らしいな……」
カイルが苦笑する。
その時だった。
「ルイスさん、カイルさん」
受付嬢が二人へ声を掛けた。
「少しよろしいでしょうか」
「何?」
「昨日遭遇した魔獣について、もう一度詳しく話を聞きたいそうです」
「俺たちに?」
「はい。領主様から直接」
その言葉を聞いた瞬間、ルイスの顔がさらに明るくなる。
「任せて!」
「……そこまで嬉しそうにすることかな」
――――――――――
ギルドの奥。
応接室へ案内されたルイスとカイルは、ジョージ・グランベルと向かい合っていた。
「君たちが、昨日魔獣と遭遇した二人か」
「はい!」
「……そうです」
ルイスはいつも通り元気よく答え、カイルは少しだけ緊張した様子で頭を下げる。
ジョージは二人の姿を順番に見た。
「聞いていたより若いな」
「そうですか?」
「ああ。だが、あれだけの状況でよく冷静に対処した」
「ありがとうございます」
カイルが答える横で、ルイスが胸を張る。
「俺も結構頑張ったぞ!」
「……君はあまり冷静ではなさそうだな」
「え?」
カイルが思わず吹き出した。
「……確かに」
「なんでだよ!」
ジョージの口元にも、僅かな笑みが浮かぶ。
「悪い意味ではない。行動力があるということだ」
「なんだ、よかった!」
張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
だが、それも僅かな間だけだった。
「では、本題に入ろう」
ジョージの表情が真剣なものへ戻る。
「昨日の魔獣は、本当に街へ向かっていたのだな?」
「はい」
カイルが頷く。
「足跡も確認しました。森側から街の方角へ進んでいました」
「そして、街の近くまで来た後は?」
「俺たちを襲ってこなかった」
ルイスが答える。
「というより……なんか苦しそうだった」
「身体には黒い筋が浮かんでいました」
カイルが続ける。
「以前ギルドで確認した個体と、同じような状態です」
「……」
ジョージが黙り込む。
その表情を見て、ルイスは首を傾げた。
「何か知ってるんですか?」
「……まだ、はっきりしたことは言えない」
ジョージは静かに答えた。
「だが、この症状に似たものを、私は以前にも見たことがある」
「以前?」
カイルが顔を上げる。
「ああ」
ジョージの視線が、窓の向こうにある西の森へ向かう。
「二十年ほど前だ」
「その時も魔獣が?」
「……そうだ」
ルイスとカイルが顔を見合わせる。
「何があったんですか?」
ジョージはすぐには答えなかった。
その目には、何か遠い記憶を探るような色が浮かんでいる。
やがて――。
「一人の魔法使いが関わった事件があった」
「魔法使い?」
「ああ」
ジョージはゆっくりと言葉を選ぶ。
「魔獣や魔石を利用した研究をしていた人物だ」
ルイスが眉を寄せる。
「魔石を?」
「詳しい研究内容までは、私もすべてを知っているわけではない。当時の私はまだ、領主でもなかったからな」
「じゃあ、二十年前は……」
「この街を治めていたのは私の父だ」
ルイスは机の上に置かれた報告書を見る。
そこには、二十年前と似た異常を示す魔獣の記録がある。
「でも、また同じような魔獣が出てきた」
「ああ」
ジョージの目が鋭くなる。
「偶然なのか。それとも、あの研究と何か関係があるのか。今はまだ分からない」
「その魔法使いは?」
カイルが尋ねる。
「……死んだとされている」
「されている?」
ルイスが聞き返す。
ジョージは僅かに間を置いた。
「記録上ではな」
「名前は?」
その問いに、ジョージの表情が一瞬だけ固まった。
「……セージ」
「セージ?」
「セージ・ナイトシェード」
部屋の中が静まり返る。
それはルイスにとって、初めて耳にする名前だった。
「街では後に、彼女をこう呼ぶ者もいた」
ジョージが呟く。
「――魔女、と」
「魔女……」
カイルが小さく呟いた。
ルイスは何も言わず、窓の向こうに広がる西の森へ目を向ける。
二十年前に終わったはずの事件。
死んだとされる魔女。
そして今、再び現れ始めた異常な魔獣。
無関係だと言い切るには、重なるものが多すぎた。
「俺たちも調べていい?」
ルイスが手を挙げる。
「……君は本当に怖いもの知らずだな」
カイルが呆れたように言う。
「だって気になるだろ?」
「まあ……それはそうだけど」
カイルも少し考えた後、頷いた。
「僕も調べたいです」
ジョージは二人を見る。
「冒険者としてか?」
「はい!」
ルイスは即答した。
「まだ何が起きてるのか分からない。それなら確かめたい!」
ジョージはしばらく少年の顔を見つめ――小さく笑った。
「……そうか」
その表情はすぐに領主のものへ戻る。
「ならば、ギルドへ正式に調査依頼を出そう。条件を満たすなら、君たちにも参加してもらいたい」
「任せて!」
「ただし」
ジョージの声が低くなる。
「森の奥へは入るな」
「……」
ルイスの動きが止まった。
「分かった」
「本当だな、少年?」
「……分かった!」
明らかに一拍空いた返事に、カイルがため息をつく。
「僕が見張っておきます」
「頼んだぞ」
――――――――――
ギルドを出た二人は、西街道へ向かって歩き始めた。
「魔女か……」
ルイスが呟く。
「二十年前の事件なんだよな」
「そうみたいだね」
「セージ・ナイトシェード……どんな人だったんだろう?」
「記録を調べれば何か残ってるかもしれないけど、今の僕たちには分からないな」
カイルは考え込む。
「でも、今回の魔獣の異常が本当に二十年前の研究と関係しているなら……」
「なら?」
「誰かが、その研究を再現している可能性もある」
「……」
ルイスが西の森を見る。
「森のどこかに何かあるのかな」
「可能性はあると思う」
「じゃあ探しに――」
「待て!」
カイルが素早くルイスの肩を掴んだ。
「領主様に森の奥へ入るなって言われただろ!」
「……やっぱ駄目?」
「駄目に決まってる!」
「ちょっとくらいなら――」
「駄目!」
「分かったよ……」
「本当に頼むよ……」
二人はそんなやり取りをしながら歩いていく。
しかし。
その会話を――偶然、近くを通り掛かった一人の男が聞いていた。
「……魔女?」
男は足を止める。
そして二人が去っていった後、西の森へ目を向けた。
その表情には、好奇心と僅かな警戒が入り混じっていた。
――――――――――
その頃。
西の森。
木々の奥深くに建つ、古びた小屋。
薄暗い室内で、一人の女が机に広げられた古い資料を読んでいた。
そこに描かれているのは――かつてのグランベルの地図。
今とは道の形も、建物の配置も僅かに違っている。
女の白い指先が、地図の一点をゆっくりとなぞった。
その時。
小屋の外から足音が聞こえる。
「戻りました」
扉を開けて入ってきたのは、銀髪の少年――リュートだった。
「ご苦労様」
「今日も、言われた場所へ魔獣を動かしました。ただ……」
リュートが僅かに言葉を濁した。
「何か?」
「最近、森の外に冒険者が増えています」
女の指が止まった。
「……そう」
「街も警戒を強めているみたいです」
「思ったより早かったですね」
女はそう呟くと、静かに窓の外へ目を向けた。
木々の隙間、その遥か先。
そこには、グランベルの街がある。
「何を見ていたんですか?」
リュートが机の地図を見る。
「昔のことを少し」
「昔……?」
「懐かしい場所です」
女の紫がかった瞳が細められる。
「私が、すべてを奪われた場所」
「……」
リュートは黙った。
幼い頃から何度か聞いた言葉だった。
けれど、その過去のすべてを彼が知っているわけではない。
「……何かあったんですか?」
「ええ」
女は小さく笑った。
「どうやら、街も何かに気づき始めているようですね」
リュートの表情が僅かに強張る。
「あなたのことですか?」
女は答えない。
ただ、遠くのグランベルを見つめている。
やがて、その口元が僅かに歪んだ。
「忘れたままでいてくれれば……それでもよかったのかもしれません」
「……」
「でも、そうはいかないようですね」
その声には、穏やかな響きとは裏腹の冷たさがあった。
リュートはそんな女を見つめる。
紫がかった瞳が、遠くの街を映す。
そこに浮かんだ感情を、リュートは読み取れなかった。
そしてほんの一瞬だけ――胸元に下げた笛へ指を触れた。
――――――――――
夜。
グランベルの街。
ルイスは宿へ戻る道すがら、夜空を見上げていた。
「魔女……」
今日初めて聞いた、その言葉を思い出す。
「セージ・ナイトシェード」
死んだとされる、二十年前の人物。
そして今になって現れた、異常な魔獣たち。
「何があったんだろうな」
隣を歩くカイルが答える。
「少なくとも、いい事件じゃなかったことだけは確かだろうね」
「そうだな」
ルイスは頷く。
少しだけ歩いた後――再び西の森の方角を見た。
「でもさ」
「ん?」
「二十年前に終わったはずのことが、今また起きてるんだろ?」
「ああ」
「だったら、何かまだ誰も知らないことがあるってことだよな」
ルイスの橙色の瞳が、僅かに輝いた。
「それなら――ちゃんと確かめたい」
カイルはそんな少年を見て、小さく笑う。
「……君は本当に冒険者だな」
「だろ?」
二人は夜の街を歩いていく。
まだ知らない。
今日初めてその名を知った魔女が――
西の森から、静かにグランベルを見つめていることを。




