43●『NieA_7』貧乏な君たちはどう生きるか?:まゆ子の選択、急がないこと。
43●『NieA_7』貧乏な君たちはどう生きるか?:まゆ子の選択、急がないこと。
西暦2000年放映の『NieA_7』(ニア アンダーセブン)。
慢性的な貧乏に耐えて、けなげに生きる、主人公の少女まゆ子。
誰に恨み節を漏らすでもなく、黙々としてバイトと予備校に専心する彼女の周囲には、不思議と温かい人の輪ができていきます。エンディングの主題歌そのままに、ささやかな理想郷があるかのように。
銭湯のオーナーである女性、番台を務める老女、釜焚きを務める男性、新聞店の夫婦(夫の声はサンダーバードのバージルさんですね、貴重)、レストラン“かるちえ”のオーナーと、一人娘らしい、智絵ちゃん……
そして、新しい友達のUFOマニア嬢、ちあ紀。
彼氏候補となる青年、源蔵くん。
とはいえ、これら優しい人々は、まゆ子を囲む小さなバブルの中のパラダイス。
万年赤字の銭湯にかかわることで、まゆ子の経済的苦境に共感してくれる、いわばボンビーの同志たちですね。まゆ子の“仲間”ともいえるでしょう。
こうした、ボンビー仲間となってくれるキャラクターを配して、主人公の“けなげな生き方”を支えていく……という演出は、戦後の日本映画、とりわけ昭和三十年代の青春映画によくみられます。
代表例が『キューポラのある街』(1962)。
そのほか『素晴らしき日曜日』(1947)、『ガラスの中の少女』(1960)、『俺は銀座の騎兵隊』(1960)、『上を向いて歩こう』(1962)、『ひとりぼっちの二人だが』(1962)、『銀座の恋の物語』(1962)、『仲間たち』(1963)、『下町の太陽』(1963)、『いつでも夢を』(1963)、『俺の背中に陽が当る』(1963)、『泥だらけの純情』(1963)、『非行少女』(1963)、『風と樹と空と』(1964)、『東京は恋する』(1965)……
どれも好きです。悲劇に終わるストーリーもありますが、総じて、貧乏というものに対する血の通った理解というものが語られているように思います。
つまり、貧乏に負けないで! ということですね。
この国にはかつて、ボンビーを応援した時代があったのです。
*
ということで、『NieA_7』(2000)の、まゆ子を取り巻く人々の生活世界は、ものすごく昭和的です。舞台である荏の花地区はそのまま昭和の異世界、ダイヤル式の黒電話が当然のように現役で、未舗装の泥道もそこかしこに……
しかし、昭和レトロの魔法に守られたかのような荏の花地区を離れて、一本松予備校のある都会へ出ていくと、貧しさに起因する、まゆ子と他者の格差がくっきりと際立つことになります。
予備校の友達から合コンに誘われたけれど、着ていく服がない、美容院でおしゃれするお金がない……
この場面、結構リアルです。生活の貧しさは、ここに現れるのだと。
そして合コンの件で、ちあ紀へ電話したとき、まゆ子と、都会の少女たちとの相違点がはっきりと絵になります。
ダイヤル式黒電話をかける、まゆ子、その電話を携帯電話(放映が2000年なのでガラケー)で受ける、ちあ紀。
予備校に通う少女たちの中で、おそらく、まゆ子だけが携帯電話を持っていないのでしょう。物語の中で携帯電話が登場するのはこの場面くらいですが、しかしこの立場の格差は決定的です。
まゆ子とて、持てるならケータイを持ちたいでしょう。しかし携帯電話を所持して通信費を支払う余裕があるならば、食費に回さねばならないのが、彼女の現実なわけです。
とはいえ、この作品が放映された西暦2000年という時代を振り返れば、「携帯やPCを持たなくてもなんとかやっていけた、最後の時期」と考えることもできるでしょう。インターネットを頼らなくても、まだ直接の口頭や、手紙などでコミュニケーションが成立した時代。
それから23年が過ぎた今……
社会のデジタル化が進み、スマホかPCなくして、バイトも受験も就職もままならない時代となってしまいました。ある意味、恐ろしいことです。「無しで済ませる」選択肢はほぼ、奪われてしまいました。
社会的な情報の仕組みがアナログからデジタルへ大幅に移行したことは、「駅の伝言板の消滅」が物語っています。伝言板で仕事を受けていたシティハンターの皆さんは、さぞやお困りになったことでしょう。ウィキペディアによりますと……
「個人間の待ち合わせの連絡用などとして利用されていたが、1996年頃に撤去する駅が相次いだ。その要因として、携帯電話の普及による需要の減少や…(中略)…2010年の時点で、JR東日本東京支社管轄の78駅のうち、伝言板が残っていたのは阿佐ケ谷駅、北柏駅の2駅のみという調査がある。」
20世紀最後の年、西暦2000年は、駅の伝言板がいつのまにか消滅し、何かにつけてアナログが滅び、デジタルが勃興する時期に当たっていたようです。(2023年に至ってもマイナトラブルで失笑されるデジタル庁のアナログぶりは、アナログよりも、もはやアナクロと呼ぶべきでしょうが……)
主人公のまゆ子は、明らかに、時代に取り残されています。
その原因は、貧乏だから、ですね。
貧しいことにより、今どきの女の子たちの情報ネットワークから孤立してしまい、一緒に合コンに付き合うことすら困難になってしまう……
私は、どんなに努力しても、社会の落ちこぼれだ……
この事実は、まゆ子に絶望をもたらし、陰鬱の崖っぷちに追い詰めてゆきます。
作中では、米袋を担いできた幼馴染の源蔵くんに救われることになりますが。
しかし、さらなる脅威が、まゆ子にせまってきます。
銭湯が、なくなるかもしれない……
そうなったら、貧乏ながらも小さな幸せを得られる、今の生活はどうなるのか。
まゆ子の貧しい存在を、共感しつつ見守ってくれていた、荏の花地区の昭和の魔法が解けてしまいます。
シンデレラの馬車がカボチャに戻るような。
貧乏でも、今までなんとかやってきた、そんな自分の最後の支えと、その記憶のよすがすら跡形もなく、消え去ってしまう。
そんな現実に直面し、銭湯の二階の柱に、幼い頃の自分の存在証明を見つけた彼女は、思わず涙したのでしょう。
貧しい自分のちっぽけな足跡すら、儚く崩れ去ってゆく、その絶望感。
しかし最終回の第13話で、まゆ子は、そんな自分の貧乏ゆえの絶望に対して、一つの明快な結論をもってケリをつけます。
友達のちあ紀は、まゆ子の古い腕時計がしばしば遅れるので、新しい機種に買い替えることを勧めますが、それに対して、まゆ子が答えたセリフ……
「ちょっと遅れたって、私は急がないから」
*
これ、見事な一発回答ですね。
急がないこと。
ただし、世の中に遅れて落後してゆくことを肯定するものではないでしょう。
急がず、慌てずに歩むことで、先を急ぐ人々が見落としてしまう大切なことを、自分なりにきちんと拾い上げていこう……という生き方なのではないかと。
第13話で、まゆ子が、ごくありふれた落ち葉を“変わりゆくもの”のひとつとして拾い上げ、自分のノートに挟んでいます。それが「急がない」という彼女の選択を象徴しているように見えます。
これ、「スローライフ」ですね。
『NieA_7』の、時代に対する先見性です。ウィキペディアによりますと……
「日本で「スローライフ」という言葉が使われるようになったのは2001年頃からである。川島正英(地域活性化研究所)や筑紫哲也らが「スローライフ」について模索していたところ、……」とありますから、2000年に放映されたこの作品、当時の先端的な生活観を見据えていたことになりますね。
作品中の“荏の花地区”に描かれる、まさに昭和30年代な水準の生活こそが、2000年当時の“スローライフ”の実例として提示されているわけです。
なお、スローライフ・テーマの超大作といえる『ヨコハマ買い出し紀行』(芦奈野ひとし先生)の雑誌連載期間は1994年から2006年、この時期です。
先に触れました、昭和30年代の青春映画の数々、そこにはまさに、20世紀から21世紀の境目において、この国の人々が、じつは内心で憧れていた生活がそのままに活写されています。
『キューポラのある街』や『仲間たち』などを観るたびに思いますが、スマホやPCがなく、TVすら買えなくて不便ではあるけれど、消費税も低賃金の派遣労働もなく(ただしブラックはあり)、定年55歳で60歳から年金をもらえた当時の方が、同じ貧乏でも幸せを探しやすかったのではないか、そう思えてなりません。
*
しかし……
「ちょっと遅れたって、私は急がないから」と心を決めた、まゆ子の生き方は、今、もう一つの要素によって追い詰められ、崖っぷちの瀬戸際に追い込まれています。
その要素とは、「時間」です。
『NieA_7』の放映は2000年。
今は2023年です。
今この世界の現実に直面しているのは、2000年のまゆ子でなく、2023年のまゆ子であるはずです。
23年後の、まゆ子。
アニメの設定では19歳ですから、今は42歳。
「ちょっと遅れたって、私は急がないから」という生き方は、彼女を幸せにしたでしょうか? これ、じつは、とても不安ですね。
というのは、「遅れたって急がない人」に対する社会の偏見が、ますます厳しくなっているように感じられるからです。社会の流れに乗り遅れた人はどうなっても自己責任だよ……と。
東洋経済オンラインの、佐藤優氏の寄稿『自己責任という言葉に踊らされる現代人の哀れ 自分さえよければいいという人を作り出した』(2020.03)では「今から20年前の2000年を超えたあたりから、アメリカ流の新自由主義的な考え方が日本に流れ込んできました。そのとき、セットで取り上げられたのが「自己責任論」です。」と述べられています。
『NieA_7』の放映時には多くの人が知らなかった「自己責任」の概念が、その後、社会全体に急速に浸透し、あまりにも安易に主張されるようになったのでは?
「貧乏は自己責任」と一言で切り捨てて、なんら顧みない社会。
こればかりは、『NieA_7』の世界観にとって、想定外の未来なのです。
再び、考える時期が来ているのかもしれません。
このままでよいのか、と。
貧乏をテーマとしたラノベ、貧乏であってもいろいろと工夫して社会と戦うラノベって、あってもよさそうに思うのです。
【次章へ続きます】




