37●金字塔の方程式…「セカチュー」「半月」「キミスイ」等の「土台」となるサナトリウム文学『風立ちぬ』。そして『最後の一葉』
37●金字塔の方程式…「セカチュー」「半月」「キミスイ」等の「土台」となるサナトリウム文学『風立ちぬ』。そして『最後の一葉』
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蛇足ですが、『半分の月がのぼる空』(2003)にも、私には解せない部分がいくつかあります。
作品の前半で盛り上がる部分、アニメなら全6話のうち第3話。
ひとつは、病院の屋上(たぶん三階建てのビルの屋上) から落として「二階の庇」に載ってしまった本(銀河鉄道の夜)をレスキューするため、主人公の少年がビル壁面でビニールロープにぶら下がってロッククライミングな真似をすること。
これは危ない、暴挙そのもの。主人公の少年はそもそも入院中の、病気持ちの患者なのです。
落ちて死ぬぞ。
それ以前に、ケガするだけでも大変迷惑な愚行だぞ。誰も褒めてくれないぞ。
だいいち、「二階の庇」に載っている本なのだから、その真上の三階の窓を開ければ、そこから距離2メートル以内のはず。(アニメでは五階ほどの高さの建物になっていましたが、本の落ちた庇の上には窓がちゃんとあります)捕虫網のようなもので掬うか、それとも棒でつついて落とし、地上で待ち構えた友人がグローブか座布団とかでキャッチするとか。
他人に見られては困る御禁制のエロ本ならともかく、事情を話して真上の三階の部屋に入らせてもらえばいいだけ。
しかも、原作では、とある医師によって、その本があらかじめ別の本に取り換えられていた……とあるので、それならば、容易に手の届く場所だったことになります。
そしてもうひとつ。
その医師が少女の病状を診断して、その結果が重大なあまり情緒不安定になり、病院内で飲酒して酩酊し、主人公の少年に殴る蹴るの暴行傷害を加えた事案。
いくら、ざっくばらんなズボラ病院とはいえ、これは非道い。
少年はいちおう入院中の患者なのだぞ。
翌日、医師はゴメンと謝るが、謝って誤魔化す以前に医師失格ではないのか?
作風の流れとしては、五巻でなくこの第二巻で太宰治の『人間失格』が出てきてもよさそうな……
少年、顔が傷だらけになっており、少女に心配されます。
少年は適当にゴマカシますが、元ヤンの看護師さんが見れば、なにしろ元ヤンですから、暴行を受けたとわかるはず。もちろん服脱いで精密検査をされる羽目になるはずで、そうなると身体のあざなどが判明して、大問題になったでしょう。入院中の病人がそんなことになると、病院として診断し、治療しないわけにはいかず、何者かの虐待が疑われます。事実、やったことは虐待に等しかったのですが。
(これまでの他の作品も含めて、些細なことにネチネチと言いがかりをつけるようで、誠に申し訳ありません。しかしこれらは私の経験上、30年ほど昔の1990年代ならば、編集担当者が作者に必ず指摘していたようなことです。論理的につじつまの合わない点は、校正以前の段階で一つ一つの用語のレベルまで修正を求められました。今はどうなのか知りませんが……)
『半分の月がのぼる空』が名作であることは歴史が証明していますし、私もそうだと思います。しかしながら、医師・看護師・親といった大人の存在と役割が、やはり霞か雲のように曖昧化しているように感じられてなりません。
『半分の月がのぼる空』の大人たち、とくに医師と看護師は、その職業にしては「熱血バカ」なところが際立ちます。余命わずかな少女のことを、猛烈に心配してあげます。にしても、少女の身内ではない少年に、医師が少女の容態の危険性を、あんなにやすやすと教えてあげていいのか? 個人情報もいいところだけど。
本来は、医師と看護師にとって、少女は数ある患者の一人であり、「数ある死」のひとつ。ほかに瀕死の患者が何人もいて、いずれ看取らねばならないのです。
エロ本コレクターの老人が亡くなったように、日々が過ぎるとともに、病院では着々と誰かがいなくなっていきます。
これも冷酷な事実です。その冷酷さを、大人たちは許容し、いずれ少女もいなくなることを、大人同士で暗黙のうちに認めているはず。
そして少女も少年も入院患者なのですから、大人たちは慎重に、優しく接するはずです。未成年だからなおさら。ぞんざいに扱うと、法律問題になりかねません。
しかしその心中には、大人ならではのエゴや打算、しょせん他人事としての、ある種の冷たさ、突き放すような冷静さが潜むことがままあります。
だから少女は、外見上は優しく親切な人々に囲まれながら、その裏側に冷たい偽善を見ているはず。そこに果てしない孤独があるのでしょう。
しかし現実世界の医療関係者は、冷静に対応するしかありません。一人の患者の死を前に、それがどんなにショックでも、いちいち取り乱して泣いたり叫んだり、殴ったり蹴ったりは、絶対に許されないはず。離島のコトー先生だってそうでしょう。
そして死の瞬間をじっと、穏やかに看取る。
そういった静粛さや厳粛さが、かえって少女を追い詰めていく、そんな展開の方が、リアリティを感じたと思うのですが……
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『世界の中心で、愛をさけぶ』『半分の月がのぼる空』『君の膵臓がたべたい』など、私が勝手に「難病or死別もの」と分類した諸作品は、その「作品力」の「土台」が、歴史的に「サナトリウム文学」と呼ばれるものに通じると思います。
サナトリウム文学。
サナトリウムとは、主に結核の患者を対象とした長期療養施設で、結核という病気が猛威を振るい、事実上の「不治の病」とされていた戦前から、自然が豊かで空気の澄んだ高原などに建設されていました。
そこを舞台とした作品、あるいは結核など難病との闘病生活を描いた作品のことを指します。
典型的な作品はトーマス・マンの『魔の山』(1924)、そして国内では堀辰雄(1904-53)著の『風立ちぬ』(1936-37)ですね。
特に『風立ちぬ』は結核を患った婚約者の女性のサナトリウム入院、一年ばかりの看病と彼女が逝去するまでの実体験を元にして書かれただけに、美しい文体の影に壮絶な生と死が謳いあげられた名作。
たぶん「セカチュー」「半月」「キミスイ」の作者様は『風立ちぬ』を、ご自分の作品の「土台」の一部として熟読されたうえで、さらに新たなアイデアの「新機軸」を上載せされたのだろうと思いますが……
にしても、いくつもの名作文学が登場する「半月」には、やはり『風立ちぬ』が出てきて欲しかったですね。
『風立ちぬ』は、美しい。
どのように美しいかというと、「乱すもののない美しさ」。
作品に描かれる時代は、戦前の1935年。
ラジオはありますが、TVもビデオもネットも、パソコンも携帯もなく、あるのは一冊の本だけ、という生活です。電話も滅多に鳴りません。
必然的に彼女と本、そして周りの自然を通じて、自分自身を見つめることになる。
現代からみれば、ラノベの中世タイプの異世界に等しい、スローライフな世界。
療養する彼女との対話、そして多彩な自然との対話があるばかりです。
彼女の美しさと自然の美しさが、ただひそやかに物語られてゆきます。
耽美、とは少し違う、静謐な美しさ。
初夏の明け方、朝ぼらけが映えるとともに、肌に触れる早朝の清涼な空気、そして風にのせて伝わる、鳥たちのさえずり。
そんな感じの、透明感漂う美しさです。
比較的短いお話ですが、その随所に「風」の描写が配されて、最終章は、彼女が風になって空をわたるかのようです。
「千の風になって」の歌は、このあたりにも通じるのでしょうか。
ラノベも結構ですが、『風立ちぬ』は格別、まさに別次元の美しさですね。
ジブリアニメでゼロ戦と一緒くたにされてしまい、作品のオリジナリティがぐちゃぐちゃになってしまったのは、やはり残念でした。どうして小澤さとる先生の『黄色い零戦』(1988)を原作にされなかったのか……
さて作者(堀辰雄)の実体験を元にした『風立ちぬ』とは別に、純然たる小説の分野で「難病or死別もの」の原点とも言える古典名作がありますね。
オー・ヘンリー(1862-1910)著の『最後の一葉』。
だれもが知る名作、文庫で10ページ余りの小品ながら、「作品力」の凄いこと。
百回読んで百回泣ける物語の一つです。20代に読んだときと、50代に読んだときで、味わいががらりと変わる、絶品料理の完成度。
この短篇、本当に曲者です。
いかなる「難病or死別もの」も、この作品の完璧さには、まるっきし、かなわないからです。
交錯する希望と絶望。
死ぬ話から、生きる話への変貌と安堵。
しかしその陰に、ひっそりと秘められた孤独な死。
その死と引き換えに残された、「傑作の絵画」。
ほんとうの傑作、とはなんだろう? 認識を新たにさせられます。
萩尾望都先生の漫画『アメリカン・パイ』と並んで、「人の魂を救うとは、どういうことか」をじっくりと考えさせてくれるのです。
ある意味、『アメリカン・パイ』は『最後の一葉』の進化系です。
“最後の一枚の蔦の葉”は、少女リューにとって、“歌”なのですね。
彼女は歌に魂を救われて生きる。
そこに、最後にすがるものを見つけて、生きる。
そして彼女の歌が、彼女だけでなく周囲の人々……グラン・パをはじめ、父も母も医師も、そして聴衆たち、商売敵のジャクソンの魂までも救ってゆく……
彼女の歌もまた、この世に遺された“最後の一葉”と同じ傑作なのですね。
『アメリカン・パイ』『風立ちぬ』『最後の一葉』を読んでから、ラノベの「難病or死別もの」を読むと、うーん……
この落差は何なんだ……
【次章へ続きます】




