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母になる日

吉備の村に来て、何年かが過ぎた。


ふみは、すっかり村の暮らしにも馴染んでいた。


畑仕事も、最初のころに比べればずいぶん上手になった。もっとも、今でも義父の源吉からは、「ふみ、そこは草じゃのうて野菜じゃ」と笑われることがある。


「もう、分かっとるよ。ちょっと間違えただけじゃが」


そう言い返すふみに、義母のふさも笑う。


最初は「ふみさん」と呼んでいた二人も、いつの間にか「ふみ」と呼ぶようになっていた。ふみも、いつしか義母を「お義母さん」ではなく「ふささん」と呼ぶことが増えていた。


家族として過ごした年月が、少しずつ距離を縮めていた。


井戸端では、おさよさん、きぬさん、とみさんたちと相変わらず賑やかに話をしていた。村のことなら、ふみに聞けば何か分かる。いつの間にか、そんなふうに言われるようにもなっていた。


そんなある日のことだった。


朝から、どうにも気分が悪い。


畑に出ても、土の匂いを嗅ぐだけで胸がむかむかする。朝ごはんも、いつもの半分も食べられなかった。


「ふみさん、顔色が悪いよ。大丈夫かね」


井戸端で、おさよさんが声をかけた。


「なんじゃろうね。最近、どうも気持ちが悪うて」


「もしかして……」


おさよさんが、きぬさんと目を合わせる。


「何よ。二人して」


「赤ちゃんじゃないかねえ」


その言葉に、ふみは思わず黙った。


そういえば、月のものも来ていない。


その日のうちに医者に診てもらうと、やはり妊娠していた。


家に帰ると、ふみは夫に知らせた。


「お父ちゃんになるんよ」


「本当か!」


夫は目を丸くしたあと、何度もふみの顔を見た。


源吉もふさも大喜びだった。


「まあ、よかったねえ。体を大事にせんといけんよ」


ふさはそう言って、ふみの手を握った。


ところが、喜んでばかりもいられなかった。


つわりが始まると、ふみは食べられるものがほとんどなくなった。ご飯の匂いもだめ。煮物もだめ。畑から帰ってきても、横になっていることが多くなった。


「ふみ、何か食べられるものはないか」


夫が心配して尋ねる。


「ううん……何もいらん」


そう言いながら、ふみはしばらく考えた。


「……あ、まんじゅうなら食べられるかもしれん」


夫はすぐに買いに出た。


持ち帰ったまんじゅうを一つ食べると、ふみの顔がぱっと明るくなった。


「おいしい!」


そして、もう一つ。


「これなら食べられる。もう一つない?」


夫は苦笑いした。


「さっきまで何も食べられん言うとったのに」


「まんじゅうは別じゃもん」


それからというもの、ふみの食欲はまんじゅうに限って戻った。


ふさも、まんじゅうを見つけると買ってきてくれるようになった。


「ふみ、今日はこれがあるよ」


「まあ、うれしい。ふささん、ありがとう!」


つわりで寝込んでいたはずのふみが、まんじゅうを前にすると元気になる。その様子に、家族は何度も笑わされた。


ふみは、母にも手紙を書いた。


赤ちゃんができたこと。つわりがつらいこと。そして、まんじゅうだけは食べられること。


母からの返事には、短くこう書かれていた。


「おめでとう。体を大事にしなさい。お母さんになるのは初めてなんじゃから、心配せんでもええよ。赤ちゃんが生まれたら会いに行くからね」


その手紙を、ふみは何度も読み返した。


やがて、お腹も大きくなり、出産の日が近づいてきた。


そして、ある夜。


とうとう陣痛が始まった。


「痛い、痛い! お腹が痛い!」


ふみの声に、夫もふさも飛び起きた。


夫は慌てて着替え、ふさは産婆を呼びに走った。源吉まで起き出して、家の中は一気に大騒ぎになった。


「ふみ、大丈夫か。しっかりせえよ」


「大丈夫なわけないじゃろ! 痛いんよ!」


夫が手を握ろうとすると、ふみはその手を振り払った。


「もう、あっち行って!」


「お、おう……」


しばらくすると、またふみの声が響いた。


「痛い! もういやじゃ!」


「息をゆっくりして」


ふさが声をかける。


「そんなこと言われても、できんもん!」


夫は何をしていいか分からず、部屋の隅を行ったり来たりするばかりだった。


そのうち、ふみが突然叫んだ。


「まんじゅうが食べたい!」


その場にいた全員が、一瞬、言葉を失った。


「ふみ、今はまんじゅうどころじゃないじゃろ」


夫が言うと、ふみは涙目で睨みつけた。


「まんじゅうが食べたいんよ! 食べさせて!」


「今、持ってくるから」


ふさが思わずそう言うと、夫が慌てて止めた。


「母さん、今はそれどころじゃないよ!」


「分かっとるよ。でも、ふみが言うんじゃから」


そんなやり取りをしているうちにも、陣痛は続いた。


ふみは泣き、怒り、夫の手を握りしめ、時にはその手を思いきりつねった。


「痛い!」


夫が叫ぶ。


「こっちのほうが痛いんよ!」


その言葉に、ふさは思わず笑いそうになりながらも、ふみの背中をさすり続けた。


長い時間が過ぎた。


そして、ようやく赤ちゃんの産声が部屋に響いた。


「生まれましたよ」


産婆の声に、ふみは力が抜けたように目を閉じた。


やがて、赤ちゃんがふみの胸に抱かされた。


小さな手。小さな顔。頼りないほど軽い体。


さっきまであれほど大きな声を出していたふみが、今度は何も言えなくなった。


「この子が……うちの子なんじゃね」


涙が頬を伝った。


夫も、ふさも、源吉も、みんな笑顔だった。


数日後、母が吉備にやって来た。


久しぶりに会う母は、少し年を取ったように見えた。それでも、赤ちゃんを抱く顔は、ふみが子どものころに見ていた母の顔そのものだった。


「かわいいねえ。よう頑張ったね、ふみ」


母は赤ちゃんの顔を覗き込み、何度も頷いた。


ふみは、母の手を見た。


働き続けてきた手だった。


市場で働き、たなかで働き、夜には家で手仕事をしていた手。父が亡くなってから、ふみを育てるために、ずっと動き続けていた手だった。


子どものころ、母が夜中に泣いていた姿も思い出した。


あのとき、母はどれほど心細かったのだろう。


どれほど不安で、どれほど疲れていたのだろう。


自分が母になって、初めて分かることがあった。


「母ちゃん」


「ん?」


「うちね、母ちゃんのような母親になりたい」


母は少し驚いたように、ふみを見た。


「何を言うとるん。ふみはふみでええんよ」


「でもね、母ちゃんは一人でうちを育ててくれたじゃろ。うち、あのころは何も分かっとらんかった」


「そりゃあ、いろいろあったよ。でも、ふみがおったから頑張れたんよ」


母はそう言って、ふみの頬に手を添えた。


「これからは、この子と一緒に大きくなっていけばええ。最初から上手な母親なんておらんのじゃから」


ふみは頷いた。


「うん。うちも、この子を大切にして、どんなときも味方でおってやりたい。母ちゃんが、うちにそうしてくれたように」


母は笑った。


その笑顔を見て、ふみも笑った。


腕の中で、赤ちゃんが小さく身じろぎした。


その夜、赤ちゃんが泣き出すと、ふみは慌てて抱き上げた。


「どうしたん。お腹がすいたん? おむつかね?」


何をしても泣き止まない。


「母ちゃん、どうしたらええんじゃろう」


母が隣で笑った。


「そんなもん、すぐには分からんよ。あんたも、よう泣いたんじゃから」


「うちも?」


「そりゃあ、もう。なかなか手のかかる子じゃったよ」


「そんなことないじゃろ」


ふみは口を尖らせた。


母と二人で笑っているうちに、赤ちゃんはようやく泣き止んだ。


ふみは、小さな体をそっと抱きしめた。


これから、楽しいことばかりではないだろう。眠れない夜も、心配する日も、きっとある。


それでも、この子と一緒に歩いていこう。


母が自分にしてくれたように、たくさん笑って、時には叱って、抱きしめて。


ふみは、赤ちゃんの顔を覗き込んだ。


「お母ちゃんも、まだまだ新米じゃけどね。一緒に頑張ろうな」


窓の外では、吉備の夜が静かに更けていった。


ふみは、母になった。

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