村の人気者
吉備の町に来て、ふみの暮らしは大きく変わった。
海の見える町で育ったふみにとって、田んぼや畑が広がる景色は新鮮だった。
けれど、見るのと実際にやるのとでは大違い。
朝は早い。まだ外が薄暗いうちから、姑は台所に立ち、舅は農作業の支度を始めている。
ふみも負けじと起き出した。
「お義母さん、おはようございます!」
「おはよう。今日は早いなあ」
「はい。今日こそ畑仕事で一人前になろうと思いまして」
「そりゃ頼もしいねえ」
姑は笑った。
ところが、その意気込みは長く続かなかった。
畑に出ると、舅が野菜の手入れをしていた。
「ふみ、そこの草を取ってくれるか」
「はい、任せてください!」
ふみは勢いよくしゃがみ込み、目についた草を次々と抜いていった。
しばらくして、舅が振り返った。
「ふみ、それは抜いたらいけんやつじゃ」
「えっ?」
見ると、畑の一角がすっかり寂しくなっている。
「これは何の草じゃったんですか?」
「草じゃない。植えたばかりの野菜じゃ」
「あらまあ!」
舅は頭を抱え、姑は大笑いした。
「ふみさん、元気がええのは分かったけど、もうちょっと見てから抜かんと」
「はい。次からは、野菜に名前札を付けてもらいます」
「畑全部にかね?」
姑の突っ込みに、ふみも笑った。
それでも、ふみはめげなかった。
分からないことは聞き、失敗したら覚える。翌日にはまた畑に出て、舅の後ろをついて回った。
そんなふみが、農作業と同じくらい夢中になったものがあった。
村の人たちとのおしゃべりである。
最初のきっかけは、近所の共同井戸だった。
洗濯や水汲みのために、近所の人たちが顔を合わせる場所だ。
ふみが初めて行った日、井戸端には三人がいた。
一人は、おさよさん。面倒見がよく、困った人を見るとすぐに声をかける。村のことなら何でも知っているような人だった。
もう一人は、きぬさん。おさよさんより少し年上で、物知り。口は少々厳しいが、誰よりも人のことをよく見ている。
そして、とみさん。話好きで、村の情報が入ってくるのも早い。話し始めると、なかなか終わらない。
「こんにちは。吉備から来た、ふみです。よろしくお願いします」
「ああ、あんたが新しく嫁いできたふみさんかね」
おさよさんが笑顔で迎えた。
「そうなんです。まだ何も分からんので、いろいろ教えてください」
「そりゃ、こちらこそよろしくね。分からんことがあったら、何でも聞きんさい」
きぬさんも、うなずいた。
「ただし、何でも一度に覚えようとしたらいけんよ。ここは覚えることが多いけんね」
「はい。ぼちぼち覚えます」
そう答えたものの、ふみの質問は止まらなかった。
誰がどこの家の人なのか。どこに何があるのか。近くに買い物ができる店はあるのか。
「ところで、あそこの家のおじいちゃんは、いつも畑に出とるんですか?」
「ああ、あの人は元気じゃからねえ」と、おさよさん。
「うちの舅も負けておられんですよ」
「そりゃええことじゃ。元気が一番じゃけん」
そんな調子で話は弾んだ。
そのうち、話題は村の人たちの近況に移っていった。
「そういえば、赤シャツさん、またこのあたりで見かけたよ」
とみさんが言った。
「あら、そうなん?」と、おさよさん。
「この前も、どこかの家の前で長いこと話し込んどったわ」
きぬさんが笑った。
「赤シャツさんは、よう目立つけんねえ。あの人は、じっとしとられんのじゃろ」
ふみは手を止めた。
「赤シャツさんって、あの赤いシャツを着とる人ですか?」
「そうそう。ふみさん、もう知っとるん?」
「いや、まだちゃんとは。名前より先に赤シャツで覚えてしもうて」
三人は声を上げて笑った。
「そのうち分かるよ。村じゃ、あの人のことを知らん人はおらんけん」
「へえ、そんなに有名なんですか」
ふみの目が輝いた。
「また今度、詳しく教えてくださいね」
「ふみさん、あんた、何でも知りたがるなあ」
おさよさんが笑う。
「だって、知らんことばっかりじゃもん」
そんなふみを見て、三人はまた笑った。
話はさらに続いた。
「あ、そうそう。門の家の話、聞いた?」
とみさんが声を少し落とした。
「門の家?」
ふみが聞き返す。
「そう。あそこの息子さん、ふみさんの旦那さんと同い年なんよ」
「へえ、そうなんですか」
「お見合いの話が進んどるらしいよ」
「まあ、そうなんですか。どんな人なんです?」
ふみは身を乗り出した。
「働き者で、ええ人らしいよ。ただねえ……」
とみさんは、少し間を置いた。
「舅さんと姑さんが、ちょっと気難しいんよ」
「そうなんですか?」
きぬさんが口を挟んだ。
「昔から、自分のやり方をなかなか変えん人たちでね。お嫁さんになる人は、少し気を遣うかもしれん」
「まあ、悪い人たちというわけじゃないんじゃけどね」と、おさよさん。
「そうそう。家のことには、いろいろ決まりがあるみたいじゃから」
とみさんが続けた。
「お嫁さんになる人も大変でしょうね」
ふみが言うと、きぬさんはうなずいた。
「そりゃそうよ。よその家に入るんじゃから、どこでも最初は大変じゃろうね」
ふみは、自分のことを思い出していた。
この土地に嫁いできたばかりの頃は、舅や姑との暮らしに戸惑うこともあった。家ごとに決まりがあり、やり方がある。外から来た者には分からないことも多い。
「うちも、まだまだ教えてもらうことばっかりです」
「ふみさんのところは、ええ舅さんと姑さんじゃないの」
おさよさんが言った。
「はい。よくしてもらっています。でも、最初は何をするにも緊張しましたよ」
「そうじゃろうねえ」
「門の家のお嫁さんも、うまくいくとええね」
ふみは、まだ会ったこともないその人のことを、少し気にかけるようになった。
気がつけば、洗濯はとっくに終わっていた。
「あら、ふみさん。もう帰らんでええんかね?」
おさよさんに言われて、ふみは慌てた。
「えっ、もうこんな時間ですか!」
急いで洗濯物をまとめる。
家に戻ると、姑が待っていた。
「ふみさん、洗濯は?」
「ちゃんと終わりました!」
「ずいぶん遅かったね」
「井戸端で、いろいろ教えてもろうて」
「何を教えてもろうたん?」
「赤シャツさんのことと、門の家の縁談のことと……」
姑は少し驚いた顔をした。
「もう、そんな話まで聞いてきたんかね」
「はい。村のことを覚えとかんといけませんから」
「覚えることはええけど、人の家の話ばかり聞いとったらいけんよ」
「分かっとります」
そう答えたものの、ふみの顔には、まだ話したいことが残っていた。
それからというもの、ふみは井戸端の常連になった。
朝、顔を合わせれば話が始まる。
「昨日、隣の家の犬が逃げたんよ」
「ええっ、どこへ?」
「裏の畑の方じゃないかって」
「それなら、うちの舅に聞いてみます。朝から畑に出とったけん」
また別の日には、誰かの息子が町の工場に勤め始めた話や、どこそこの家に親戚が帰ってくる話。
赤シャツさんの近況も、門の家の縁談の進み具合も、いつの間にかふみの耳に入ってくるようになった。
ふみは、話を聞くのが好きだった。
そして、聞いたことをすぐに覚えてしまう。
「ふみさん、あんた、よう知っとるなあ」
「そうですか? みんなが教えてくれるんです」
「この村のことなら、ふみさんに聞いたら分かるかもしれんな」
そんなことを言われるようになった。
ただ、ふみには少し困った癖もあった。
人の話を聞くと、放っておけなくなるのだ。
ある日、井戸端でおさよさんがこぼした。
「最近、うちの主人が腰を痛めてしもうてね。畑仕事が進まんのよ」
「それは大変じゃ。何か手伝えることはないですか?」
「いやいや、大丈夫よ」
そう言われても、ふみは気になって仕方がない。
家に帰るなり、舅に相談した。
「お義父さん、おさよさんのところ、ご主人が腰を痛めたそうなんです」
「そうか。それは気の毒じゃな」
「うちで何か手伝えることはないですかね?」
舅は少し考えた。
「できることがあれば、手伝いに行ってみるか」
その週末、舅とふみはおさよさんの家の畑へ出かけた。
おさよさんは驚いた。
「まあ、わざわざ来てくれたん?」
「うちの舅が手伝う言うてくれたんです。私はまだまだ役に立たんけど、応援はできます!」
「応援だけかね」
おさよさんが笑い、舅も笑った。
ふみはその後も、村の人たちの様子をよく気にかけるようになった。
誰かが風邪をひけば声をかけ、野菜がたくさん採れた家があれば、お裾分けをもらったり、こちらからも持っていったり。
時には、おせっかいが過ぎることもあった。
「ふみ、あんまり人の家のことまで首を突っ込まんでええぞ」
夫にそう言われると、ふみは少しむっとした。
「だって、困っとる人がおったら気になるじゃない」
「分かるけどな。話を聞くのと、全部引き受けるのは違うけん」
「それはそうじゃけど……」
夫の言うことも分かる。
ふみは少し反省した。
それでも、人と話すこと、人の暮らしを知ることは、やめられなかった。
ある日、井戸端でいつものように話をしていると、きぬさんがふみに声をかけた。
「ふみさん、あんたが来てから、ここも賑やかになったねえ」
「そうですか?」
「そうよ。あんたがおると、何でも話せる気がするんよ」
ふみは照れくさそうに笑った。
「私、しゃべりすぎじゃないですか?」
「それがええんよ。黙っておられるより、ずっとええ」
おさよさんも、とみさんもうなずいた。
その言葉が、ふみの胸に残った。
この土地に来たばかりの頃は、何も分からず、何をするにも遠慮していた。
母のいる海辺の町が恋しくて、夜になると寂しくなることもあった。
けれど、今は違う。
畑にはまだ失敗するし、舅や姑に教わることも多い。
それでも、井戸端には話を聞いてくれる人がいる。声をかけてくれる人がいる。困ったときには助け合える人たちがいる。
ある晩、夫がふみに聞いた。
「この村にも、だいぶ慣れたな」
「うん。最近は、どこの家に誰がおるか、だいたい分かるようになったよ」
「それはすごいな」
「でも、まだ知らんこともあるんよ」
「何じゃ?」
ふみは少し身を乗り出した。
「隣の集落に、すごくおいしい饅頭屋さんがあるらしいんよ」
夫は吹き出した。
「村の情報だけじゃなく、食べ物の情報まで集めとるんか」
「当たり前じゃない。大事な情報よ」
夫は笑いながら、ふみの話を聞いていた。
ふみの声が家の中に響く。
その声に、姑も舅も自然と笑顔になった。
海の見える町から来たふみは、いつの間にか、吉備の村にも自分の居場所を見つけ始めていた。
そして村の人たちも、ふみのことを少しずつ知るようになっていた。
「あのふみさんに聞けば、何か分かる」
いつしか、そんな声が聞こえるようになっていた。




