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海を離れる日

中学校を卒業すると、ふみは母と一緒に港の市場で働くようになった。


朝は早い。魚の入った箱を運び、品物を並べ、忙しい日は昼を過ぎても仕事が続いた。


それでも、母と二人で働けることが、ふみには嬉しかった。


ふみが働き始めたことで、家計にも少し余裕ができた。母は夜の内職をやめることができ、夕食を二人でゆっくり食べられるようになった。


それまで、母が夜遅くまで針仕事をしている姿を見てきたふみには、それが何より嬉しかった。


給料日になると、ふみは帰り道に饅頭を買った。


「母ちゃん、今日は給料日じゃけん」


そう言って、二つの饅頭を食卓に並べる。


「また買うてきたんか。そんなことせんでもええのに」


母はそう言いながらも、いつも嬉しそうだった。


「ええんよ。二人で食べるんが楽しみなんじゃけん」


「そうか。ほんなら、ありがたくいただこうかね」


二人でお茶を飲みながら饅頭を食べる。


それが、いつの間にか二人の小さな楽しみになっていた。


そんなある日、ちづが母のところへやってきた。


「ちょっと、ええ話があるんじゃけど」


ちづは、いつもの調子で話し始めた。


吉備の町に住む男性で、市役所に勤めながら、実家の農業も手伝っている人がいるという。家は農地も広く、両親と一緒に暮らしているそうだ。


「一度、会うてみん?」


母はふみの顔を見た。


「どうする? ふみ」


「ええっ、私が?」


突然の話に、ふみは目を丸くした。


「ほかに誰がおるんよ」


ちづが笑う。


「いや、まだそんなこと考えたこともないし……」


そう言いながらも、ふみの胸は少しだけざわついていた。


母は急かさなかった。


「会うだけ会うてみたらええ。気が合わんかったら、それでええんじゃけん」


ちづも母も、無理に話を進めようとはしなかった。


結局、ふみは一度会ってみることにした。


お見合いの日。


母とちづに連れられ、町の料理屋へ向かった。


ふみは朝から落ち着かなかった。


何を着ていけばいいのか、どんな話をすればいいのか。考えれば考えるほど分からなくなる。


「ふみ、そんなに緊張せんでもええよ」


母が声をかける。


「母ちゃん、簡単に言うけど、こっちは初めてなんじゃけん」


「そりゃそうじゃな」


ちづが横から口を挟んだ。


「まあ、いつものふみでおったらええんよ。黙っとるふみなんか、見たことないけどね」


「ちづさん、余計なこと言わんでええんよ」


そんなやり取りをしながら店に入った。


相手の男性は、穏やかな雰囲気の人だった。


市役所に勤めているというだけあって、話し方も落ち着いている。ふみとは対照的だった。


最初は、ふみも何とかおしとやかに振る舞おうとしていた。


ところが、お茶を勧められたとき、緊張のあまり手元が狂い、湯飲みを少し傾けてしまった。


「あっ、すみません!」


慌ててふきんを探すふみ。


「大丈夫ですよ。ゆっくりで」


男性は笑いながら手を貸してくれた。


その後も、ふみは何か話そうとしては言葉に詰まり、母の方を見て助けを求める。


ちづはそんな様子を見て、笑いをこらえていた。


しばらくして、男性から仕事のことを聞かれた。


「市場で、お母さんと一緒に働いているんです」


ふみは少しずつ、いつもの調子を取り戻していった。


市場の忙しさや、魚を運ぶ仕事のこと。ちづが働く「たなか」のこと。母と二人で暮らしてきたこと。


話しているうちに、給料日の饅頭の話になった。


「給料日には、母ちゃんと饅頭を食べるんです。二つ買うて帰って、二人でお茶を飲みながら」


「それは、いいですね」


男性はそう言って、ふみの話を聞いていた。


「たいしたことじゃないんですけどね。でも、楽しみなんです」


そう話すふみの顔は、さっきまでの緊張が嘘のように明るかった。


男性は、そんなふみを見ていた。


後になって、彼はふみのことをこう話した。


「飾らない人だと思いました。よく笑うし、お母さんのことを本当に大切にしている。その話をしているときの顔が、とても印象に残ったんです」


ふみは、そんなことを知る由もなかった。


その後、二人は何度か会うようになった。


男性は、仕事のことや家のことを少しずつ話してくれた。


市役所の仕事を続けながら、休日には実家の農作業を手伝っていること。両親と一緒に暮らしていること。農地もそれなりにあり、これからも家の農業を続けていきたいと思っていること。


ふみは、話を聞きながら考えた。


市場で働くことには慣れている。重い荷物を運ぶことも、朝早く起きることも苦ではない。


けれど、農業は違う。


土に触れた経験はあっても、農家の暮らしがどんなものなのか、詳しくは知らなかった。


それに、結婚すれば吉備の町へ移り、相手の両親と一緒に暮らすことになる。


知らない土地で、知らない人たちと暮らしていく。


自分にできるだろうか。


そして何より、母を一人にしてしまうことが気がかりだった。


ある晩、ふみは母に話した。


「母ちゃん、私、結婚したらこの町を離れるんよね」


「そうじゃな」


「母ちゃん、一人になってしまうじゃろ」


母は少し黙ってから、ふみを見た。


「ふみ。母ちゃんは、あんたを自分のそばに置いておくために育てたんじゃないよ」


ふみは黙って聞いていた。


「お父ちゃんがおらんようになってから、二人でよう頑張ってきたな。母ちゃんは、あんたがおってくれたから、ここまでやってこられた」


母はそう言って、少し笑った。


「でもな、これからは、あんた自身の人生を歩いていかんといけん。母ちゃんのことは心配せんでええ。ちづもおるし、近所の人たちもおる。寂しくないと言えば嘘になるけど、あんたには幸せになってほしいんよ」


「母ちゃん……」


「それに、吉備に行っても、たまには帰ってきたらええ。帰ってきたら、また饅頭を買うてきてな」


母は、いつものように笑った。


ふみも笑った。


けれど、胸の奥には、言葉にできないものが残っていた。


父が亡くなってから、母と二人で暮らしてきた。


楽しいことばかりではなかった。お金がなくて悔しい思いをしたこともある。母の涙を見た夜もあった。


それでも、二人で食卓を囲み、笑い、働いてきた。


その暮らしから離れることが、少し怖かった。


結婚が決まり、やがて式の日を迎えた。


母は、ふみの身支度を手伝いながら、何度も着物の襟元を整えた。


「母ちゃん、もう大丈夫じゃって」


「分かっとる。でも、気になるんよ」


「そんなに何回も直さんでもええよ」


「ええじゃない。今日は大事な日なんじゃけん」


そう言いながら、母の手はなかなか止まらなかった。


式を終え、ふみは吉備へ向かうことになった。


家を出る前、母はふみの手を握った。


「体に気をつけるんよ。無理はせんようにな」


「うん。母ちゃんもな」


「分かっとるよ」


ふみは母を抱きしめた。


母の背中は、昔より少し小さくなったように感じた。


港へ続く道を進む途中、ふみは何度も振り返った。


海が見えた。


子どもの頃、父と歩いた港。貝殻を拾った浜辺。父が倒れたあの日の船着き場。


そして、いつか一緒に海の向こうへ連れていってやると言った父の声。


ふみは、海を見つめた。


「父ちゃん、行ってくるね」


小さくつぶやき、もう一度、海を見た。


この町を離れても、ここで過ごした日々がなくなるわけではない。


母と二人で頑張ってきた時間も、父と笑った思い出も、胸の中にある。


ふみは前を向いた。


これから始まる暮らしには、きっと大変なこともあるだろう。


けれど、自分なら大丈夫。


そう思えるだけの時間を、ふみはこの町で過ごしてきた。


海から吹く風が、ふみの頬をそっとなでた。

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