新しい筆箱
父ちゃんがいなくなってから、ずいぶん時間が過ぎた。
ふみは、父親のいない生活にも少しずつ慣れていた。
朝、目を覚ましても父ちゃんの声は聞こえない。港から帰ってくる足音もない。夕飯のとき、父ちゃんの席が空いていることにも、以前ほど驚かなくなった。
それでも、貧乏な暮らしは変わらなかった。
母ちゃんは相変わらず、朝は港の市場、昼からはたなか、夜は家で手仕事をしていた。ふみのために働く毎日だった。
ただ、母ちゃんには笑顔が戻っていた。
たなかでちづと話しているとき、市場の人たちと冗談を言い合っているとき。家でも、ふみが学校であったことを話すと、以前のように笑ってくれることが増えた。
ふみは、それが嬉しかった。
母ちゃんが笑っていると、家の中まで明るくなるような気がした。
けれど、学校では、どうしても気になることがあった。
クラスで父親がいないのは、ふみだけだった。
友達は、父親と釣りに行った話をする。日曜日に家族で出かけた話をする。運動会には父親が来てくれるという子もいる。
ふみは、そんな話を聞くたびに、羨ましくなった。
自分にも父ちゃんがいてくれたら。
新しい服を買ってもらったり、家族で出かけたりできたら。
そんなことを考えることがあった。
でも、母ちゃんが一生懸命働いていることは知っていた。
だから、欲しいものがあっても、なかなか言い出せなかった。
ある日のことだった。
クラスの女の子が、新しい筆箱を持ってきた。
きれいな水色で、ふたを開けると鉛筆や消しゴムがきちんと並べられるようになっている。ふみが使っているのは、ずいぶん前から使っている古い筆箱だった。端の布はほつれ、ファスナーも少し開けにくくなっていた。
「これ、お父さんが買ってくれたんよ」
女の子は嬉しそうに、みんなに見せていた。
「ええなあ。かわいいなあ」
友達が集まって、筆箱をのぞき込む。
ふみも、本当は近くで見たかった。
けれど、羨ましい気持ちが胸の中で膨らんでいく。
「そんな筆箱、別にええことないわ」
ふみは、つい意地悪なことを言ってしまった。
「えっ、なんで?」
「すぐ飽きるじゃろ」
女の子が困った顔をした。
その様子を見て、ふみはますます腹が立った。休み時間、誰も見ていないと思い、その筆箱を教室の隅に隠してしまった。
やがて筆箱がなくなったことに気づいた女の子は、泣き出した。
先生がクラスのみんなに尋ね、ふみが隠したことが分かった。
放課後、ふみは先生に呼ばれた。
そして、母ちゃんにも学校に来てもらうことになった。
母ちゃんは、仕事を抜けて学校に来た。
先生から話を聞いている間、ふみはずっと下を向いていた。
母ちゃんは、先生に頭を下げ、ふみと一緒に女の子にも謝った。
帰り道、母ちゃんはしばらく何も言わなかった。
ふみも、何も言えなかった。
家に着いてから、母ちゃんはふみの前に座った。
「ふみ。どうして、あんなことをしたん?」
「……あの子の筆箱が、羨ましかったんよ」
「そうか」
母ちゃんは、ふみの顔を見た。
「新しい筆箱が欲しかったんじゃな」
ふみは、小さくうなずいた。
「うちにはお金がないけん、買ってもらえん。みんなは、お父さんもお母さんもおって、好きなものを買ってもらえる。ふみだけ、何にもない」
言いながら、ふみの目に涙が浮かんだ。
ずっと我慢していた気持ちが、口から出てしまった。
「父ちゃんがおらんけん、うちは貧乏なんよ」
その言葉を聞いて、母ちゃんの表情が少し変わった。
「ふみ。父ちゃんがおらんことは、母ちゃんも寂しいよ。お金に困ることもある。欲しいものを買ってやれんのも、申し訳ないと思っとる」
母ちゃんは、ふみの手を握った。
「でもな、人の暮らしを羨ましがって、貧乏を恨んでばかりおったら、父ちゃんが悲しむと思わんか?」
ふみは顔を上げた。
「父ちゃんは、ふみのことが大好きじゃった。いつも笑わせてくれたじゃろ。ふみを連れて海に行って、船に乗せてやるって約束もしてくれた」
母ちゃんは、少しだけ笑った。
「父ちゃんがいなくなったことは、誰のせいでもない。父ちゃんは、ふみと母ちゃんを残して、いなくなりたくていなくなったんじゃないんよ」
「……うん」
「それなのに、父ちゃんがおらんから貧乏なんじゃって恨んだら、父ちゃんの悪口を言うてるのと同じじゃないかな」
ふみは、何も言えなかった。
父ちゃんのことを思い出した。
港で冗談を言って笑っていた顔。海辺で貝殻を拾ってくれた手。いつか船に乗せてやると言った声。
父ちゃんは、ふみを喜ばせようとしてくれていた。
それなのに、自分は父ちゃんがいないことを恨んでいた。
「……ごめんね、母ちゃん」
「母ちゃんに謝らんでもええよ。明日から、どうするかじゃ」
母ちゃんは、ふみの頭をそっとなでた。
「お金持ちの家と同じ暮らしはできんかもしれん。でも、うちにはうちの楽しいことがあるじゃろ。海もあるし、友達もおる。ちづさんも、近所のおばちゃんたちも、みんなふみのことを気にかけてくれとる」
「うん」
「ないものばかり数えるんじゃなくて、今あるものを大事にしよう。母ちゃんも頑張るけん、ふみも毎日を楽しく、一生懸命に生きような」
ふみは、涙をぬぐってうなずいた。
「約束する」
母ちゃんは、ふみを抱きしめた。
「よし。じゃあ、明日からまた頑張ろう」
その夜、ふみは布団の中で考えていた。
新しい筆箱は、やっぱり羨ましい。
父ちゃんがいてくれたらいいのに、という気持ちも消えない。
それでも、母ちゃんを困らせたくない。父ちゃんとの思い出を、悲しい気持ちだけでいっぱいにしたくない。
翌日、ふみは学校で女の子にもう一度謝った。
「昨日はごめんね」
女の子は少し驚いた顔をしたあと、「もうええよ」と笑ってくれた。
ふみは、ほっとした。
それからのふみは、少しずつ変わっていった。
友達が新しい服を着ていても、羨ましいと思うことはある。でも、その気持ちを誰かにぶつけることはなくなった。
困っている子がいれば声をかける。荷物を持っているおばあさんがいれば手伝う。たなかでは、ちづに頼まれる前に品物を運ぶようになった。
相変わらず、町の人たちはふみのことを気にかけてくれた。
「ふみちゃん、これ持っていきんさい」
「また大きゅうなったなあ」
「母ちゃんを手伝うんじゃで。えらいなあ」
そんな声をかけられるたび、ふみは嬉しかった。
ある日、母ちゃんがたなかから帰ってきたふみに言った。
「最近、ふみはよう気がつくようになったなあ」
「そう?」
「うん。母ちゃん、助かっとるよ」
ふみは照れくさそうに笑った。
「母ちゃんが頑張っとるけんよ」
その言葉に、母ちゃんは少し驚き、それから優しく笑った。
ふみは、まだ子供だった。
羨ましいと思うこともあるし、我慢できずに泣きたくなる日もある。母ちゃんに腹を立てることだってある。
それでも、少しずつ分かってきた。
自分の暮らしには、ないものもたくさんある。
けれど、そばにいてくれる人もいる。気にかけてくれる人もいる。そして、母ちゃんがいる。
父ちゃんとの思い出も、なくなったわけではない。
その日、ふみは母ちゃんの隣に座り、夜の手仕事を手伝った。
窓の外から、潮の香りが流れてくる。
母ちゃんの横顔には、穏やかな笑顔が戻っていた。
ふみは、その笑顔を守りたいと思った。
貧しさがなくなったわけではない。
暮らしが急に楽になったわけでもない。
けれど、ふみは少し強くなった。
そして、人の痛みや優しさに気づける子になろうとしていた。
母ちゃんにとって、それが何より嬉しいことだった。




