母の涙
父ちゃんがいなくなってから、母ちゃんの朝は早くなった。
まだ外が薄暗いうちに起きて、家のことを済ませると、港の市場へ出かけていく。
それまで家のことを中心にしていた母ちゃんにとって、市場の仕事は慣れないことばかりだった。
魚の名前も、荷物の置き場所も、仕事の段取りも、分からないことだらけ。
「これ、どこへ持っていけばええん?」
「それは向こう! さっきも言うたじゃろ」
「ああ、ごめんごめん」
「まあ、最初は誰でもそんなもんじゃ。ほら、次はこっちを頼むよ」
市場のおばさんたちは、口は少々きついが、母ちゃんのことを気にかけてくれた。
母ちゃんも、教えてもらったことを何度も聞き直しながら、必死に仕事を覚えていった。
市場の仕事が終わると、今度は町に一軒だけある商店「たなか」へ向かう。
「たなか」は、町の人たちの暮らしを支える店だった。野菜や魚、肉、調味料、日用品まで、ひと通りのものがそろう。店先では近所の人たちが立ち話をし、買い物ついでに世間話をしていく。
その店に嫁いできたのが、ちづだった。
ちづは母ちゃんと同い年だった。
ちづがこの町に嫁いできてから、二人は顔を合わせるようになった。最初から特別に親しかったわけではない。けれど、話をするうちに気が合うことが分かり、いつの間にか何でも言い合える仲になっていた。
母ちゃんが仕事の相談をしたときも、ちづは気軽に声をかけてくれた。
「うちで働かん?」
「ええん?」
「人手も足りんし、ちょうどええわ」
「でも、私、店の仕事なんかできるかなあ」
「できるようになればええんよ。最初から何でもできる人なんかおらんじゃろ」
「そうじゃな。あんたも最初は何もできんかったもんな」
「ちょっと、余計なこと言わんでよ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
ちづは、母ちゃんが慣れない仕事で困っていると、さりげなく手を貸した。母ちゃんも、できることを一生懸命覚えた。
朝から夕方まで働いても、それだけでは生活は楽にならなかった。
夜になると、母ちゃんは家で内職を始めた。
小さな明かりの下で、黙々と手を動かす。
ふみが布団に入っても、母ちゃんの仕事は終わらない。
ある夜、ふみは布団の中から母ちゃんに声をかけた。
「母ちゃん、まだ寝んの?」
「これが終わったらな」
「昨日もそう言うとったよ」
「昨日は昨日。今日は今日じゃ」
「いつ終わるん?」
「知らんわ。内職屋さんに聞いてくれ」
母ちゃんは笑って答えたが、その声には疲れが混じっていた。
ふみは、母ちゃんが自分のために働いていることを知っていた。
だから、欲しいものがあっても、なるべく言わないようにしていた。
けれど、子どもだから、欲しいものは欲しい。
学校で友達が新しい靴を履いていると、いいなあと思う。友達が家族で出かけた話をすれば、自分も行ってみたいと思う。
ある日、友達が持っていたかわいい筆箱を見て、ふみは家に帰ってから母ちゃんに言った。
「母ちゃん、私もあんな筆箱が欲しい」
母ちゃんは、夕飯の支度をしながら振り返った。
「今のは、まだ使えるじゃろ」
「でも、みんな新しいのを持っとるんよ」
「そうか」
母ちゃんはそれ以上何も言わなかった。
しばらくして、母ちゃんがぽつりと言った。
「ごめんな。今は、ちょっと買えんわ」
その言葉を聞いて、ふみは慌てて首を振った。
「ええよ。もういらん」
本当は欲しかった。
でも、母ちゃんに謝ってほしくはなかった。
その晩、ふみは少しだけ泣いた。
泣いたことは、母ちゃんには知られたくなかった。
母ちゃんだって、好きで我慢させているわけではない。
そんなことは分かっていた。
それでも、父ちゃんがいた頃の暮らしを思い出すと、寂しくなった。
次の日、母ちゃんは市場へ出かける前に、ふみの頭をなでた。
「ふみ、昨日はごめんな」
「もうええって」
「いつか買おうな」
「うん」
母ちゃんは笑った。
その笑顔を見て、ふみも笑った。
母ちゃんは、時々、疲れて帰ってくると機嫌が悪かった。
ある日、ふみが学校から帰って、遊びに出かけようとすると、母ちゃんに呼び止められた。
「ふみ、洗濯物を取り込んどいてくれたらよかったのに」
「だって、友達と約束しとるんよ」
「母ちゃんは朝から働いてきたんよ。少しは手伝ってくれてもええじゃろ」
「私だって学校に行っとるんよ!」
思わず言い返してしまった。
母ちゃんは、何も言わなかった。
ふみはそのまま外へ出た。
友達と遊んでいても、どこか落ち着かなかった。
母ちゃんの顔が頭から離れない。
帰ると、母ちゃんは夕飯の支度をしていた。
「……洗濯物、取り込んどけばよかったな」
ふみが小さな声で言うと、母ちゃんは振り返った。
「そうじゃな。明日は頼むよ」
それだけだった。
ふみは、少し拍子抜けした。
怒られると思っていたのに。
「母ちゃん、ごめん」
「もうええよ。母ちゃんも言い方が悪かったな」
母ちゃんはそう言って、ふみの頭をぽんとたたいた。
二人とも、まだ父ちゃんがいない暮らしに慣れていなかった。
そんな二人を、周りの人たちも支えてくれた。
市場のおばさんは、母ちゃんが重い荷物を持とうとすると、横から取り上げた。
「そんな細い腕で持てるかい。腰を痛めたらどうするん」
「大丈夫ですよ」
「大丈夫な人は、そんな顔せんわ」
そう言って、さっさと荷物を運んでしまう。
「たなか」のちづも、母ちゃんのことをよく気にかけていた。
「顔色が悪いよ。ちゃんと食べとる?」
「食べとるよ」
「嘘ばっかり。あんた、自分のことは後回しじゃけえ」
「ちづに言われたくないわ」
「私はええんよ」
「何がええんよ。あんたもちゃんと休みんさい」
そんなことを言い合いながら、二人は店の仕事を続けた。
ちづは、ふみのことも気にかけてくれた。
母ちゃんが仕事で遅くなる日には、店の奥で待たせてくれた。
「ふみちゃん、お腹すいたじゃろ。これ食べんさい」
「またもらってええん?」
「また、とは何じゃ。今日は今日じゃ」
「ちづおばちゃん、商売にならんよ」
「子どもが余計な心配せんでよろしい」
ふみは、店の奥でコロッケを頬張った。
ちづは、そんなふみを見て笑った。
「お母ちゃんに似て、口だけは達者じゃな」
「母ちゃんよりは素直よ」
「それはどうかなあ」
そんなやり取りを、ふみはよく覚えている。
近所のおじさんは、父ちゃんが使っていた道具を片付けるのを手伝ってくれた。
「困ったことがあったら言いなよ」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。昔からの付き合いじゃ」
母ちゃんは、そのたびに頭を下げていた。
ふみは、少し不思議だった。
どうしてみんな、こんなに親切にしてくれるんだろう。
ある日、母ちゃんに聞いてみた。
「母ちゃん、みんな、なんでこんなに助けてくれるん?」
「昔からお世話になっとるからよ」
「それだけ?」
「それだけじゃないよ。人は一人じゃ生きていけんからな。困ったときは助けてもらうし、誰かが困っとったら助けてあげる。そういうもんじゃ」
「ふうん」
「ふみも、いつか誰かを助けてあげたらええ」
ふみは、うなずいた。
その頃から、ふみは家のことを少しずつするようになった。
洗濯物を取り込む。
米を研ぐ。
食器を洗う。
母ちゃんが帰ってくる前に、できることを済ませておく。
もちろん、毎日きちんとできたわけではない。
友達と遊びたい日もあるし、面倒くさくて後回しにすることもある。
そんな時は母ちゃんに叱られた。
「ふみ! いつまで遊んどるん!」
「今やろう思うとったんよ!」
「その今は、いつ来るんじゃ!」
「もう、うるさいなあ!」
そんな言い合いをしながらも、二人の暮らしは続いていった。
ある夜、ふみは喉が渇いて目を覚ました。
隣に母ちゃんはいなかった。
台所の方から、かすかに音が聞こえる。
まだ内職をしているのかな。
そう思って起き上がると、台所の明かりが障子越しに漏れていた。
ふみは、そっと近づいた。
母ちゃんがいた。
いつものように内職の道具を広げている。けれど、手は止まっていた。
母ちゃんは、机に肘をつき、片手で顔を覆っていた。
肩が、小さく揺れている。
泣いていた。
ふみは、思わず足を止めた。
昼間の母ちゃんは、いつも忙しそうに動いていた。市場でも、たなかでも、家でも、弱音を吐くことはなかった。
ふみの前では笑っていた。
「大丈夫よ」
「心配せんでええよ」
そう言っていた母ちゃんが、今、一人で泣いている。
ふみは声をかけようとした。
けれど、声が出なかった。
父ちゃんがいなくなって、母ちゃんも寂しいんだ。
母ちゃんだって、泣きたいんだ。
当たり前のことなのに、その時まで、ふみはちゃんと分かっていなかった。
しばらくして、母ちゃんは手の甲で涙をぬぐった。
そして、何事もなかったように内職を再開した。
ふみは、気づかれないように布団へ戻った。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
母ちゃんの泣いている顔が、頭から離れなかった。
明日からは、もう少し母ちゃんの手伝いをしよう。
わがままも、少し我慢しよう。
母ちゃんが笑っていられるように、自分も頑張ろう。
まだ幼いふみには、それがどれほど大変なことなのか分からなかった。
ただ、母ちゃんを一人にしてはいけない。
そう思った。
翌朝、母ちゃんはいつもどおり早く起きていた。
「ふみ、起きんさい。遅れるよ」
「うん。もう起きとる」
ふみは布団から出ると、母ちゃんの顔を見た。
昨日の夜のことは、何も言わなかった。
母ちゃんも、何も言わなかった。
「母ちゃん、今日も市場?」
「そうよ」
「帰ってきたら、私が洗濯物を取り込んどくけえ」
母ちゃんは少し驚いた顔をして、それから笑った。
「そりゃ助かるわ。頼んだよ」
ふみは、うなずいた。
母ちゃんの涙を見たことは、誰にも話さなかった。
それは、ふみだけが胸の中にしまっておくことにした。
その日の夕方、母ちゃんが「たなか」から帰ってくると、ふみは洗濯物をきれいに畳んでいた。
「おお、今日は頑張ったなあ」
「まあね」
「ちづが、ふみはしっかりしとるって褒めとったよ」
「ちづおばちゃん、私のこと好きじゃけえ」
「自分で言うかね」
母ちゃんは笑った。
ふみは、その笑顔を見て、少し安心した。
母ちゃんには、ちづがいる。
市場にも、近所にも、気にかけてくれる人がいる。
そして、自分も母ちゃんのそばにいる。
それだけで、少し心強かった。
母ちゃんの背中は、いつも忙しかった。
時には疲れて丸くなり、時には怒って大きく見えた。
それでも、ふみには頼もしかった。
父ちゃんがいなくなっても、母ちゃんは毎日を生きていた。
ふみも、母ちゃんの隣で生きていこうと思った。
その小さな決意が、やがて、困っている人を放っておけないふみの性格をつくっていく。
ただ、この頃のふみは、そんな先のことなど考えていなかった。
明日も学校がある。
母ちゃんは朝早くから市場へ行く。
だから、明日は自分が少し早く起きて、母ちゃんの朝ご飯を用意してみよう。
そんなことを考えながら、ふみは布団に入った。




