父ちゃんのいない朝
その日も、ふみは海を眺めていた。
港から少し離れた、小高い場所。そこからは、漁船が並ぶ港も、沖を行き交う船もよく見えた。
ふみは、しゃがみ込んで小石を拾っていた。
「今日は、どの船が一番早く帰ってくるかな」
そんなことを考えながら、海を見ていた。
父親は朝から港に出ていた。船の整備をすると言っていた。
「お父ちゃん、今日も船のところ?」
朝、出かける父親に尋ねると、
「そうじゃ。船も人間と一緒で、たまには手入れをせんとな」
「船も疲れるん?」
「そりゃあ疲れる。ふみと一緒じゃ」
「うちは疲れとらんよ」
「そうか。そりゃあ、たいしたもんじゃ」
父親は笑って出かけていった。
その笑顔を、ふみは覚えている。
しばらくして、港の方が急に騒がしくなった。
何人かの男たちが、一隻の船の周りに集まっている。大きな声で誰かを呼ぶ声も聞こえた。
ふみは立ち上がった。
「何があったんじゃろ」
いつもなら、近所の人の話を聞きに行くところだ。ふみは好奇心のまま、港へ向かって走り出した。
船のそばには人だかりができていた。
「誰か、医者を呼んでこい!」
「早うせんか!」
大人たちの声が飛び交っている。
ふみは、人の隙間から中をのぞいた。
そして、足が止まった。
倒れていたのは、父親だった。
船の整備をしていた父親が、突然倒れたのだという。脳卒中だった。
「お父ちゃん!」
ふみは人の間をすり抜けようとした。
「ふみちゃん、来たらいけん!」
近所の男の人が、ふみを止めた。
「お父ちゃんがおるんよ! どいて!」
ふみは、その手を振りほどこうとした。
いつもなら、港で誰かと話をしている父親がいるはずだった。ふみを見つければ、きっといつものように声をかけてくれる。
「おう、ふみ。何しに来たんじゃ」
そう言って笑ってくれるはずだった。
けれど、父親は動かなかった。
顔色が悪く、目を閉じたまま、周りの人たちに囲まれていた。
「お父ちゃん、起きてよ!」
ふみの声は、港のざわめきにかき消された。
やがて父親は病院へ運ばれた。
ふみは、近所のおばさんに連れられて家に帰った。
「大丈夫じゃけえ。お父ちゃんは病院におるからな」
おばさんはそう言った。
「お父ちゃん、帰ってくる?」
「先生に診てもらっとる。今は待とうな」
ふみは何度もうなずいた。
きっと帰ってくる。
帰ってきたら、今日のことを聞いてみよう。船の整備は終わったのか。どうして倒れたのか。明日は一緒に海を見に行けるのか。
聞きたいことが、いくつもあった。
けれど、その日、父親は帰ってこなかった。
母親は病院へ向かい、ふみは家で待つことになった。
夕方になっても、夜になっても、母親は戻ってこない。
ふみは縁側に座り、何度も道の方を見た。
やがて、母親が帰ってきた。
その顔を見たとき、ふみは何かを感じた。
母親は、いつものように「ただいま」とは言わなかった。玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。
「お母ちゃん。お父ちゃんは?」
母親は、ふみのそばまで来た。
そして、ふみを抱きしめた。
「お父ちゃんはな……」
母親の声が震えていた。
「お父ちゃんは、もう帰ってこんのよ」
「なんで?」
「病気でな。亡くなったんよ」
ふみには、その言葉の意味がすぐには分からなかった。
「病院におるんじゃろ?」
「うん」
「ほんなら、明日帰ってくるんじゃないん?」
母親は答えなかった。
ふみは母親の顔を見上げた。
「お母ちゃん、何で泣いとるん?」
母親は、ふみを強く抱きしめた。
その夜、家には近所の人たちが集まった。
誰もが心配そうな顔をしていた。母親に声をかける人、台所を手伝う人、ふみに優しく話しかける人。
ふみは、父親が座っていた縁側を何度も見た。
いつもなら、そこに腰を下ろして、仕事の話をしたり、ふみの話を聞いたりしていた。
「今日も町を騒がせてきたんか」
そんな声が聞こえてくる気がした。
父親がいない。
そのことだけは、少しずつ分かってきた。
それからの暮らしは、変わっていった。
父親がいた頃、母親は家のことをしながら、父親と相談して暮らしていた。お金のことも、仕事のことも、これからのことも、二人で考えていたのだろう。
けれど、これからは母親が一人で決め、一人で働き、一人でふみを育てていかなければならない。
母親は朝早く起きるようになった。
ふみが目を覚ます頃には、もう台所で食事の支度をしている。家のことを済ませると仕事に出かけ、夕方に帰ってくると、また夕飯の支度をした。
疲れているはずなのに、母親はふみに笑顔を見せた。
「学校はどうじゃった?」
「今日はな、友達と海で貝殻を拾ったんよ」
「そう。ええのがあった?」
「うん。今度見せる」
「楽しみにしとるよ」
母親は、そう言って笑った。
けれど、ふみは気づいていた。
母親が、以前よりも笑わなくなったことを。
ある日の夕方、ふみが学校から帰ると、母親は台所で夕飯の支度をしていた。
「お母ちゃん、今日のおかずは何?」
「魚よ」
「やった!」
ふみは、いつものように声を上げた。
母親は鍋の中をのぞきながら言った。
「今日はちょっと小さいけどな」
「ええよ。魚は魚じゃもん」
母親は、ふみの言葉に少し笑った。
食卓には、魚と野菜の煮物が並んだ。
ふみは魚を食べながら、父親のことを思い出した。
「お父ちゃん、魚が好きじゃったな」
母親の手が、一瞬止まった。
「そうじゃな。好きじゃったな」
「お父ちゃんの分は?」
母親は、ふみの顔を見た。
「今日は、ふみが食べてええよ」
「でも、お父ちゃんの分がないが」
母親は何も言わず、ふみの頭をなでた。
その夜、ふみはなかなか眠れなかった。
父親と一緒に歩いた海辺の道。港で船を眺めたこと。拾った貝殻を見せて、父親に褒めてもらったこと。
そして、船のそばで倒れていた父親の姿。
何度も思い出しては、布団の中で目を閉じた。
「いつか、海の向こうへ連れて行ってやろう」
父親は、そう約束してくれた。
もう、その約束はかなわない。
ふみは布団をかぶった。
泣き声が母親に聞こえないように、声を押し殺した。
翌朝、ふみが目を覚ますと、母親はもう起きていた。
台所から、いつものように包丁の音が聞こえる。
「ふみ、起きたん?」
「うん」
「顔を洗っておいで。ご飯にするよ」
ふみは、母親の背中を見た。
その背中は、前よりも小さく見えた。
ふみは、そっと母親のそばへ行った。
「お母ちゃん、うちも手伝うよ」
母親は少し驚いたように振り返った。
「どうしたん、急に」
「お母ちゃん、一人じゃ大変じゃろ」
母親は、ふみの顔を見つめた。
「ふみは、まだ子どもなんじゃから、心配せんでええよ」
「でも、うちにもできることがあるもん」
母親は、ふみを抱き寄せた。
「ありがとうな」
「ほんなら、お箸を並べるよ」
「そうしてくれる?」
「任せといて」
ふみは、食器棚から箸を取り出した。
父親のいない朝が始まっていた。
港では、いつものように船が行き来していた。
ふみは、窓の向こうに海を見た。
昨日と同じ海だった。
けれど、もう父親と一緒に眺めることはできない。
ふみは、母親の背中を見ながら、箸を並べた。
小さな手で、家の中の何かを支えようとしていた。




