海の見える家
ふみの家からは、海が見えた。
家の裏手にある坂道を駆け上がると、目の前に海が広がる。
朝は漁船が港へ戻ってくる。昼になると、陽の光を受けた海がきらきらと光り、夕方には沖の向こうに太陽が沈んでいく。
ふみは、その海が大好きだった。
いや、好きというより、海がない暮らしなど考えられなかった。
「ふみ! また、そんなところにおるんか!」
母親の声が家の方から飛んでくる。
「お母ちゃん、船が帰ってきたで!」
「船は毎日帰ってくるがな。早う手伝いに来んさい!」
「今日は大きい船じゃもん!」
「船の大きさは、手伝いが終わってから見んさい!」
ふみは、聞こえないふりをした。
もう少しだけ見ていたかったのだ。
ふみは、じっとしているのが苦手な子だった。何かを見つけるとすぐに近づき、知らないことがあれば大人に尋ねる。納得できなければ、何度でも聞いた。
近所のおばさんたちからは、
「ふみちゃんは、口が達者じゃなあ」
と言われていた。
「口が達者って、どういう意味?」
そう聞き返すので、おばさんたちは困ってしまう。
「ほら、そういうところじゃが」
ふみは、意味が分からないまま笑っていた。
家は決して裕福ではなかった。
新しい服を買ってもらえることは少なく、食卓のおかずも、いつも同じようなものだった。けれど、ふみはそれを特別に不満だとは思っていなかった。
海があり、友達がいて、家に帰れば父と母がいる。
それだけで十分だった。
父親は、よく笑う人だった。
仕事から帰ってくると、まず縁側に腰を下ろす。疲れた顔をしていても、ふみが近づくと、決まって何かを言った。
「おう、ふみ。今日も町を騒がせてきたんか」
「騒がせてなんかおらんよ」
「そうか。近所のおばさんが、ふみちゃんに言い負かされた言うとったぞ」
「だって、おばさんが間違っとったんじゃもん」
「そりゃあ、ふみにはかなわんな」
父親は、そう言って大げさに肩を落とした。
ふみは、父親のこの反応が好きだった。
何を言っても、最後には自分の味方になってくれる。母親に叱られたときも、父親は少しだけ助け舟を出してくれた。
ただし、いつもではない。
「お父ちゃん、助けてえな」
「今日は無理じゃ。お母ちゃんの言うことを聞きなさい」
「なんでよ」
「お父ちゃんも、お母ちゃんには勝てんのじゃ」
その言葉を聞くと、母親が台所から顔を出す。
「よう分かっとるがな」
父親は、ふみと顔を見合わせて笑った。
母親は、家のことを一手に引き受けていた。
朝から食事の支度をし、洗濯をし、家の中を整える。父親が帰ってくる頃には、夕飯の準備もできていた。
時には父親に文句を言うこともあった。
「また、近所で長話してきたんじゃろ」
「ちょっと話をしとっただけじゃ」
「ちょっとが長いんよ」
「話には付き合いもあるんじゃ」
「付き合いで飯は炊けんよ」
父親は、何も言い返せずに笑った。
ふみは、そのやり取りを聞きながら、父親の肩を持つ。
「お父ちゃんも疲れとるんじゃから、ええがな」
すると母親は、ふみの方を向く。
「あんたは、どっちの味方なん?」
「お父ちゃん」
「そう。ほんなら、今日はお父ちゃんと一緒にお風呂掃除しんさい」
「えっ、それは嫌じゃ」
父親が笑い出す。
「ふみ、味方になってくれたんじゃろ」
「もう、お父ちゃんの味方はやめた!」
そんな声が、家の中に響いていた。
三人で囲む夕飯は、決して豪華ではなかった。
魚の煮付けに、野菜の煮物。時には魚が小さく、母親が自分の分をふみに分けてくれることもあった。
「お母ちゃんの分がなくなるが」
「お母ちゃんは、これでええんよ」
ふみは、そんなとき母親の皿をじっと見る。
「ほんまに?」
「ほんまよ」
父親が横から口を挟む。
「お母ちゃんは、ふみより大きい魚がええんじゃろ」
「余計なこと言わんでええ」
「ほら、やっぱり」
ふみは笑った。
父親は、時々ふみを連れて海辺を歩いた。
港に並ぶ船を見たり、浜辺で貝殻を拾ったりした。父親は魚の名前を教えてくれたが、ふみはすぐに別のことを聞き始める。
「お父ちゃん、海の向こうには何があるん?」
「向こうか。町があって、その先にも町があるんじゃろう」
「その先は?」
「また海じゃ」
「その先は?」
「ふみ、海の向こうまで行くつもりか」
「うん。行ってみたい」
父親は少し考えてから言った。
「ほんなら、いつか連れて行ってやろう」
「ほんま?」
「ほんまじゃ」
「約束じゃで」
「ああ、約束じゃ」
ふみは父親の手を握った。
その手は大きく、少し硬かった。
帰り道、ふみは拾った貝殻を大事そうに握りしめていた。
家に帰ると、母親が夕飯の支度をしていた。
「また、そんなもん拾ってきて」
「きれいじゃろ」
「貝殻ばっかり増えて、どうするん」
「宝物にするんよ」
父親が横から言った。
「ふみの宝物じゃ。大事にせんとな」
「お父ちゃんも、そう思う?」
「もちろんじゃ」
母親は、二人を見て笑った。
「ほんまに、二人ともよう似とるわ」
ふみは、父親の隣に座った。
この家には、特別なものは何もなかった。
大きな家でもない。お金がたくさんあるわけでもない。欲しいものを何でも買ってもらえる暮らしでもなかった。
それでも、三人で笑い合う時間があった。
ふみにとって、それが当たり前で、それが幸せだった。
夕暮れになると、海は少しずつ色を変えていく。
父親と母親が話す声を聞きながら、ふみは拾ってきた貝殻を並べていた。
海の向こうには、まだ知らない世界がある。
ふみは、いつかそこへ行ってみたいと思っていた。
けれど、その小さな家で過ごす三人の時間が、いつまでも続くわけではなかった。
海は今日も、変わらず波を寄せていた。




