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花火  作者: あさひ
第一章 しかけは爆弾です
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しかけは爆弾です④



 宮ノ下を過ぎてから、もう二時間近く歩き通している。

 舗装された道に、陽光が針葉樹の影を形作り、その分だけ涼しくさせた。

 強羅を過ぎたあたりから、そこかしこに工事中の現場がある。

 どこか懐かしくおもえ、大涌谷に向かうルートをこっちから取ったことに、玉置は期待して振り返る。


「ほらな」


 中腹から見える早雲山。山に記された大文字焼き。玉置は、写真では見ない、王道から外れた景色が好きだった。


 色眼鏡を取り、アイレベルでカメラを構える。

 薄ぼんやりと乱れた視力が、ファインダーを通すとくっきりとした大文字を浮かび上がらせた──。


 十代できっかけを得たカメラは、網膜のレーザー治療で焼き付いた気分の重みを、シャッターを切れば切るほど軽くしてくれた。


 アマチュアで神童と持て囃され、たまたま商業で赴いた、恵比寿のギャラリーでスカウトされ、またたく間にプロの世界に足を踏み入れた。


 あらゆる段階を踏んで、海外勢が席巻する賞レースで賞を勝ち取っていった頃には、実力と名声が過不足なく充ちていく日々を感じていた。

 街中で声をかけられる事が増え、自分の写真が恵比寿のギャラリーを占領した時には、深い賞賛に溺れかけていた。


 みるみる内に、高みを増していく階段を駆け登る努力は人一倍した。篩にかけられ、振り落とされていく者達の分まで、必死に食らいついた。


 ただ、浮かれがあった。階段を見上げるのをやめ、過去の轍をなぞり、担がれた神輿に陶酔するようになった矢先に、網膜剥離と診断され愕然とした。


 俗に言う飛蚊症というやつで、とりたてて進行が重いというわけでもなかった病状は、レーザーで完治した。


 あっけなく転落し、あっけなく治った。


 それでも、『これが生か。よしもう一度』と言ったニーチェの肯定は、共振する昔の自分を眩しくさせ、錆びついた心を乱した。


 玉置秋人(たまきあきひと)

 自分の名前が印字された、写真やポスターが視界に入る度に自棄になり、予後は首尾、水火の苦しみだった。


 好きなカメラのように、レンズを変えたり、ストロボを焚けば良い、簡単な事だと開き直る反面、暗転としたコントラストばかりに捕らわれ、部屋の壁に何度も拳を打ちつけた。


 だが、それこそが気分を軽くしてくれたのも事実で、もともと散財するほうではない自分を祝うように、賞金やギャラを、当面の生活費に当て、来る日来る日もシャッターを切り続けた。


 被写体は、往々にして山ばかりになった。


 家にばかり居ては気が滅入る、身体を動かそうと海岸の防風林沿いを走っていると、南西に見えるアルプスにいつも見とれた。


 雨が降り、沢となって川にぶつかり、それがいつか、太平洋の絨毯に凪をつくる。

 水平線のしわに母を感じ、山嶺の健やかさに父を感じた。


 その投影は、決して裕福とは言えない、幼少の暮らしが生じさせたものであることもよく理解していた。


 莫大な借金を抱え、糊口をしのぐどころか、義務教育の半ばで一家が離散した時、まだ小学校に入学したばかりだった。


 幼くして家を失ったものの、苦しみより解放感に満ちていたのは、およそ幸せとは言い難いその暮らしには、常に飢えと暴力とがあったからで、一挙手一投足を瀬踏みし、ようやく道に出た先で、踏切台をどかされるような日常からの、自然な帰結だった。


 仕事から帰って来た時の、頬にふれた母の手が冷たく、それが好きだった。

 はじめての肩車は母で、たった一度のその光景を、日々疎くなるたびに過去に訪問しては、古傷をたしかめるようにしていた。

 

 投影がかすれ、目が離せなくなり、その山を登った。

 今となっては恐ろしい、装備も事前の準備もない行き当たりばったりの単独行だったが、沿岸から覗いたほど急峻でなく、体力のかぎりにすいすいと登っていった。


 しだいに息が上がり、喉の乾きを感じ、引き返そうと山の森林限界に立った時、胸がつまった。

 どこかに聞こえた小鳥のさえずりも、山の肌を伝う沢の音も、いつの間にか無くなっていた。


 ここには誰も居ない。胸いっぱいに息を吸い込む事を、誰も邪魔しない。あらゆる煩いが、ただ大地に溶け込んでいく。ゆらゆらと風に吹かれ、影を嗜む時間が、自分にもあると言う事を教えてくれる。


「ああ、良いなあ」

 

 それ以上の言葉は、出なかった。

 脚が急に重くなり、うずくまる。ランニングシューズの紐が、ほどけるように滲んでいる。気づけば、涙が出ていた。

 心の月面に立てた誓いの旗は、とっくにぽきりと折れ、目に溜まっていく水の中で、叫ぶように泣いた。


──「また泣いてんのか、アキ」

 その声に気付いて、見上げた。


「イチ兄」

「なんで泣いてんだ」とイチ兄は両腕についた砂を払っている。「またハル達か」


「ううん、ハル兄じゃなくて」

「シュウか」

「うん」目を擦りながら「旗を抜かれたんだよ」と砂場の方を指差した。


「まったくあいつらは、こりないな」イチ兄は砂場から旗を持って来てくれると「アキ、イメージごっこしよう」砂場の方へ行こうと言った。


 頭の中なら何処にでも行けるさ、と手を引っ張ってくれるイチ兄のその遊びは、アキのお気に入りで、なにか落ち込む度に見たこともない場所へ連れ出してくれた。


「アキは今宇宙飛行士だ」

「地球を飛び立って、この旗を立てる星を探しているところだ」

 すでに泣くのを忘れ、話にわくわくしている。


「どこにでも行けるの?」

「もちろん、アキが行きたい所なら、どこにでも行ける」

「それなら、月がいい」

「アポロか、アキは本当あれが好きだな」


 それは、近所のおじさんがくれたVHSで、ずいぶん昔のテレビらしいけれど、月の上でぷかぷかと浮かぶ人が面白くて、何度も繰り返し観ていた。


「うん、月に旗を立てる」

「おっけー」とイチ兄は旗を高々と揚げる。

「さあ、誓いの言葉は書いたか。他の誰の旗も無い。一番乗りだ。アームストロング船長、指示してくれ!」


「偉大なひやくだー!」と何度も聞いたセリフを、めいっぱい叫ぶ。

「ねがいましてはー!!」イチ兄は勢いよく砂場に旗をさす。誓いじゃなかったっけと思う。


 屹然と立つ旗を眺めると、達成感で身体が熱くなってくる。


「はい!願いは叶いました」とイチ兄は勢いよく言い、また勢いよく旗を抜いた。

「フレー!フレー!アーキー」と今度はその旗を力いっぱい振り出したりして、二人でけらけらと笑った。


「なになに。なにしてんの」

「おれもおれも」とハル兄とシュウ兄が旗を持ってやって来た。


「おれも振る」と二人が言うと、イチ兄は「まずアキにごめんしろ。そしたら仲間に入れてやる。な、アキ」と急に真剣な顔を向けて来た。


「アキ、ごめん」とハル兄が謝る。

「ごめん」とシュウ兄も続く。


「う、うん。いいよ」と気恥ずかしくなってうつむき「みんなで仲良しでやろう」とつぶやいた。


 顔を上げると、三人が目を輝かせて「やろう」と言い、それぞれが力いっぱい旗を振り回し、みんなでけたけたと笑った──。


 人の笑う声がして、顔を上げた。

 目を擦りながら、辺りを見回すと、右手の少し向こうに、ぱたぱたと風に靡くものがおぼろげに見える。


 旗だ。はっきりと全体の文字は見えないが、『学園』と書かれた三角形の旗が立っている。


 なぜ、こんな所に旗があるんだ、と意表をつかれ呆気に取られる。よくよく目を向けると、その旗が、徐々に山頂の方へ移動していくことに気付いた。


「こちらでーす。もうすぐパン屋に着きますので、そこでひとまず休憩をとりまーす」と間延びした声と、小太りの中年の男が、山の向こうからあらわれた。その後方で、学生服姿をした若者達が続いている。


 ああ、ツアーガイド。なんだよ。

「イチ兄かと思ったじゃねえか」とさっきまで流していた涙を忘れ、大の字に寝転び笑った。


──それが五年前、二八歳の時。玉置が山を好きになったきっかけだった。

 

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