八月六日⑪
鏡哲也は、運転席横のガイド席で、膝を鷲掴みにしたまま動けないでいる。湯河原発、三崎マグロ食べ放題のツアーで、三浦半島まで向かっている道中だった。
京急が展開している三崎まぐろきっぷに端を発してヒントを得た真壁は、赤字覚悟の低価格で客入りを見越したものの、マグロ丸々一本の解体ショーというアピールポイントはまずまずの人気を博し、日帰りの中でも上位に食い込む売上の良い過去何度か行ったツアーだった。
そこには盆休み前の閑散期を緩和する意図があったが、二本出るバスの、そのうちマイクロバスを担当する従業員が当日になって欠勤してしまったことで、早朝から事務作業を詰めていた鏡にお鉢がまわってきたのだった。
最悪だ。絶対にカタギじゃない。
何で代打なんか引き受けてしまったのだろう。
「鏡さん。鏡さん」バス運転手の渡辺が、ささやき声で呼んで来る。
「これ、ルート通り行きます?」
本来なら城ヶ島に寄り、馬の背洞門という、天の川に一番近いとも言われる、太平洋に突き出したアーチ状の海蝕洞穴を嗜んだ後に、三崎港のマグロに舌鼓を打ってもらおう、というのが今回のツアー目玉だった。赤身やトロはもちろんの事だが、新鮮な血合いが特に美味しく、それをお勧めするのが楽しみでもあった。
鏡は頭の中でルートを確認し、既に二時間も遅れている道程を照らし合わせて唸る。
「そうですねえ。時間、厳しいですよね」聞くまでもなく、暢気に観光している時間など無い。
「はい。間に合いません」渡辺は、ミラーをちらちら目視しながら小声で答える。
「わかりました。すみませんが、城ヶ島は無しでマグロに直行お願いできますか?」
「了解です。サポートお願いします」
アナウンスかあ。厳しいなあ。
後ろの座席空間を覗くように振り返る。
通路の真ん中で正座した若者が、一番後ろに陣取る柄の悪いあんちゃんに詰められている。三十分前と何も変わらないその光景に辟易する。
マイクロバスに乗った二十人全席からちらほらと聞こえてくる会話の内容が、どうも不健全に思えてならないのだ。
「何人分間違えたんだ」その柄の悪いあんちゃんが若者に何か聞いている。
「すみません。全員分です」若者の肩が震えている。
「お前なあ。何度も言っただろ。鏡なんだよ。鏡」
突然自分が呼ばれた気がして神経を尖らせる。なんだ。なんでおれの名前が話題に出るんだ。
「別にあんたの事じゃない」真後ろの席に座った、年嵩の男が話しかけて来る。荷物を置こうと空きにしていた席だ。いつからそこに居たのか。
「不良外国人ってのが社会問題になってるだろ。あいつらは別に不法に入国した訳じゃない。ほとんどが研修生として正規の手続きを取って来るんだがな」
感情の起伏を声に出さず、男は淡々と語る。
「最初の数年はちゃんと働くんだよ。だが次第に自分のアイデンティティを蔑ろにされたと思って仕事を飛ぶ奴が多いんだ。するとオーバーステイになるだろ」
何の話をしているんだこの男は。
「そういう奴らは後先考えてないからな、ギャンブルに手を出して首が回らなくなるわけだ。結局仕事をしなきゃならないんだが、オーバーステイのままじゃ働くどころか強制送還の対象になる」
何を言っているのかよく分からない。ルート変更を余儀なくされた事を伝えなければ。
「あの、城ヶ島なんですが……」
「正規の在留カードって言うのは裏面にアルファベットの単語が縦横に羅列されていてね。その縦と横の単語が交差する部分のSが、鏡文字になってるんだ」
なるほど。その鏡文字の、鏡。
いや、なんかまずい話を聞いている気がするんだけど。
「今締められてるのはな、あいつがそれを間違えたからだ」と正座した若者を指差す。
「だから、あんたの事じゃない」
ほら見ろ。只のチンピラじゃないか。偽造カードの製作方法まで教えてくれて、今日休んだ部下に感謝したいくらいだええおい。ねえ、渡辺さんもそう思うでしょ。あ、聞いてないフリしやがって。
「それで、そんな事をなぜ私に?」
「別にあんた達に何かしようって訳じゃない。だから普通に予約を取って来ただろ? こっちの集合の遅れのせいで城ヶ島に行けないのも分かっている。おれ達はただマグロを食いに行きたいだけだ。慰労会だよ。それ以上でも以下でもない。このまま向かってくれ」
ならもう少し気を遣うべきだろうと思う。
わざわざバスの中で開けっぴろげに、輩じみた行動を取るべきではないはずだ。
おれや渡辺さんへの威嚇に見えなくもない。たしか看板を掲げただけでも脅迫罪に当たるのでは無かったか。
……だが、旅行代金はどこかの口座から振り込まれていた。反社会勢力は口座が作れないとも聞くし、もう一本の大型バスの方は予定通りに城ヶ島を出たという連絡も受けた。その上この柄の悪い連中が乗ってるのは、こっちのマイクロバスの方だけという確認も取れている。
出発に遅れただけで、現状何かされた訳でもない。
遅れる旨の連絡を入れると、板前さんから「マグロは逃げませんから、ごゆっくり」と言って頂いた。泳げたい焼きくんさながら、まな板の上から「えいや」と太平洋に逃げるマグロが目に浮かぶようだった。
「それに、久里浜港で降ろしてくれれば帰りのバスは要らない」
どうして久里浜に? と聞きたいところだが、無用な質問をしてこの男の機嫌を損ねられても迷惑だ。
三崎から久里浜なら、二六号を行けば三〇分と掛からないだろう。
そこで全員降りてくれるなら、むしろその方が良いのではないかとも思う。
今日問題が起きてしまえば、同じ会社が手配してくれる明日のバスにまで影響が出るかもしれない。毎年恒例だったバスツアーをコロナを経て三年振りに催行決定した。今大事なのは実績だ。棒に振る訳には行かない。重々分かっているとばかりに、渡辺もこくりと頷いている。
「わかりました。では予定とは多少異なりますが最終は久里浜港で」それまではもう少し折り目正しく居てくれよ。
帰ったら、大変行儀の良いお客様だったぞ、と真壁にたっぷりお灸を据えてやる。




