八月六日⑨
軽トラのルーフに縫い付けられたロシア男を登り坂から見下ろして、岩木は、今なら触れるんじゃないかと思い近づいた。
こいつは確か『鍵屋』の方だ。
触って「捕まえた」とコールすればこの逃走劇から解放される筈。
少し離れたところにバイクを停め、歩いて近づこうと試みる。
一歩一歩進む度、収束して来たばかりの心拍数が再び増加した。危険信号が頭の中でたえず鳴っている。
その信号通りに、めり、めりと鉄が擦れる音がした。黒いフルフェイスが、歪んだルーフからゆっくり剥がれていく。
言わんこっちゃ無い。この音を聞いてはダメだ。こいつに睨まれたらまた動けなくなる。頭では分かっているのに身体が膠着してしまう。
頭が剥がれ、肩が傾ぎ、腕が車体を押しのけて、ゆっくりとした動作で、ロシア男が立ち上がっていく。
その様相の磁力に目を吸い込まれ、身体が一段と萎縮していくようだった。
……冗談だろ。生きてんのか?
立ち上がった男が、こちらに人差し指を向け言葉を発した。
「イワキメグミ……」
脳内で何度も流れた男の声が、現実と一致する。昨夜繁華街で自分の名前を呼んだ声と、全く同じ声だ。
「あ……」
言葉にもなれない声が喉から漏れ出ては消える。ダメだ。相対すると動けない。空間全てがこの男の色に染まっていくようだ。離れろ。動け動け動け。
「イノナカノ……カワズってなんだ?」男はそう言うと同時に、ルーフに刺さるようにしてくずおれた。
再び倒れ込んだ相手を見て、泡が弾けたように身体のコントロールが戻った。ようやく、口が動く。
「ビ、ビビらせやがって」噴き出た額の汗を拭う。
あんな高さから打ち付けられて、普通起き上がれるか? やっぱりバケモノだ。今後はもしこいつの心臓が止まっていても、おれの身体は触れる事を全力で拒否するだろう。一秒でも速くこの場所から逃げ出したい。
足速にNinja H2 SXに跨った岩木は、ロシア男がやって来た道に逃走経路を取った。
全身から噴き出た汗が、疾走の風に吹き流され乾いていく。
峠道をひとつ曲がる度に鼓動が凪いでいき、頭の中がクリアになっていくようだった。
だがそれも、すぐに打ち消される。
ああ、間違えた。なんでおれはこっちに下ってんだ。二人組だということをすっかり忘れてた。
あいつから逃げられたからって、もう一人の『玉屋』と呼ばれる方が三上を始末し、この道を登って来ているかもしれないのに。
かと言って引き返す選択肢は無い。またあいつの所に戻る事なんて、考えるだけで悍ましい。
まず何処かで一度停まって、状況を確認するべきだ。
そう思い立ちカーブを曲がると、黒い物体が道路脇の側溝近くに転がっているのが見えた。
陽光を反射している。ヘルメットか?
速度を落とし、バイクを停める。そうだ。おれは今ノーヘルなんだ。前方から見れば破損したバイクは目立つが、被った方が周囲の目に気を使うことも無い。峠道で転んだんだろうと思われるのが関の山だ。
そうする事が当然のように、フルフェイスを拾い上げて被る。とたんに青草い雑草と土と、女物のシャンプーが混じったような匂いがして、胃酸が逆流するかと思った。
「何だこの匂いは」脱いだフルフェイスはよく見ると、あちこちに土が付いた凹みが出来ている。
まるで事故のいわくつきといったヘルメットだったが、ノーヘルよりはマシか。と息をこらえ、しぶしぶ被る。
ガタが来ているシールドを、力で無理矢理全開にしてスマホのMAPを開く。
現在地から辿ると、赤い点『玉屋』は近くに居なかった。とっくに箱根山を降りたようで、すでに宮ノ下より南へ移動している。
自分との相対的な距離に身体の強張りがほどけ、もう少し辿るようにMAP上をスライドしていく。
『玉屋』が向かう先に、青い点が表示されていて手が止まった。
アイコンを開くと、予想通り三上はる菜だった。
「あいつ、逃げられたのか」その事にほっとしているのか、チケットを渡せなかった後悔なのか、ない混ぜになった気持ちが胸をざわつかせた。
「これは、病院か?」と三上のGPSを拡げた瞬間、違和感があった。
そういえば、大涌谷で出会った三上はあの時何て言った? 「岩木くんもカッコいい」いや違うそれじゃない。「恵って良い名前だね」これも違う。
そうだあいつはあの時「岩木くん以外の人達」って言わなかったか?
閃きが起きた。MAPを丸い円いっぱいまで縮小してすぐに気付いた。
三上以外にも、居る。
昨日までは三上の青い点ひとつしか表示されていなかった筈だ。
それが何故かは分からないが、今は居る。
神奈川県の真反対。三浦半島の方角に。
まとまった十数個の青い点。
「おいおい、まじかよ」アイコンを開くと、どれもこれもチンピラみたいに暗い人相ばかりだったが、逼迫した胸中に明かりが差し込んだ気がした。
試しにメッセージを一通送ってみると、すぐに返信が来た。
「御託はいいから横須賀に来いって言ってんだろ」その威勢に顔が綻ぶ。
久里浜港。チンピラが港で何やってんだよ。教えてくれよ。そんでおれのかわりになってくれ。
後ろの車から鳴らされたクラクションに挙手で謝意を示し、岩木は横須賀へNinjaを走らせた。




