八月六日⑧
「おい、どうなったんだ」玉置の声はずっと聴こえていた。
バイクの間、車の間を駆け抜けながら、鍵の付いた車両を血眼になって探す。
真夏の太陽にさらされ、どの車両も近付くだけで熱気を感じる。
欲を言えば二輪が良かったが、すでに二つの赤い点が枝分かれして、内一つが迫って来ている。もはや悠長な事も言ってられない。
移動手段が徒歩しかない今の状態からグレードアップ出来るのなら何でも良い。
バイクの横に停まったロードバイクに目を向ける。
いや、これは無しだ。バイクから逃げられる訳がない。
ミニバンとハイエースが一台分間隔を開けて停まっている場所で「おい、聞いてるのか」と再び肩を掴まれる。
「うるせえなぁ!」はねのけようとするが、力が強い。
肩にめり込む指が不快で、怒鳴る。
「離せよ。暑苦しいんだよ。おっさんの質問に一々答えてる暇はねえんだよ」
「三上さんはどうなったんだ」
んなもん確認してる暇なんかねえよ。
「だから捕まったんだろ。あの女がどうなろうと、おれは知ったこっちゃない。どうでも良い。その上もう一人はこっちに向かって来てんだぞ。むしろ囮になってくれとさえ思うね」
「ふざけるなよ。それでも警察官か」玉置の力が増す。またかよこのゴリラ。
アスファルトの気加熱がじわじわと、身体から水分を奪い去って行く。
「だからなんだよ。おっさんには経緯も現状も説明したろ。邪魔しないでくれよ」
「まず三上さんを救うのが先決だろう」
「無理だ。無理無理。おっさんはあいつに会ってねえからそんな事言えるんだよ。おれは仕事柄、刃物を持つ暴漢と対峙した事だってあるんだ」
「刃物を持ってるのか? そのロシア男ってのは」
「知らねえ。持ってるかもしれねえから気をつけた方がいい、なんて注意喚起すらおこがましいだろうな。あのな、おっさんと会話して少し落ち着いたのは確かだけど、正直、邪魔なんだよ。多少感謝もしてるから気が引けるけど、お荷物なんだ。脚なら確実におれのほうが速い。ほっといてくれ」
「そうか。撒きたいなら撒いてみろ。だがこのままじゃ絶対離さん」
「あのなぁ」ため息が出る。「おれは百メートルを十一秒台で走るんだぞ」
「ほう。そんな健全な脚力があるなら、なおのこと三上さんの元へ駆けつけるべきだろう。一秒を争うんだ」
「あいつを前にしたら、正義感なんてどうでも良くなるよ。地上の兎がいくら陸上で金メダルを取ったところで、上空の鷲に狙われたらひとたまりもない。終わりだ」
「ワシより強いウサギだって中にはいる」
「何処にいんだよ。屁理屈はやめてくれ」
「ふん。井の中のゲロゲーロだな」
「わかったわかった。とにかくあいつと向き合ったら、おれは何も出来ない。蛙でいい。速くこの場所から逃げたいんだ。離してくれ」
「ならせめて、三上さんの居場所だけ教えろ」
ちっ。本当しつけえおっさんだな。あの女に惚れたのか? それともくだらねえメシアシンドロームか?
スマホを操作して、画面を玉置に向ける。赤い点を見る度に、脳内に張り付いたロシア男のアルカイックスマイルが、声が、身体を引き攣らせる。
「ほら、これでいいだろ。速くしねえとまじでまずいんだ」
「違う。随時知らせろと言ってるんだ」
「はあ? ずっと着いてくんのかよ。その首にぶら下げた一眼レフでまた闘おうってのか。勘弁してくれ」
手が肩から離れ、胸倉を勢いよく引き寄せられた。
「おい、脅しているみたいであんまりこう言う事は言いたくないんだがな」色眼鏡越しの目が、充血している。
「な、なんだよ」
「現職の警察官が、一方的に女性に暴行を働いたってのは、どうなんだ」
「は、はずみで当たっただけだろ、あんなの」
「懲戒免職じゃ済まないだろうな。立派な傷害事件だ。証人もいる」
「なんだよ。おれを嵌めようっていうのかよ。するなら勝手にしろ」
「いや、言わなくてもいい。その代わり、三上さんの居場所を随時報告しろ」
胸倉から手が離れ、持っているスマホを奪われた。
「おれの番号だ。電話が無理ならメールでも良いから寄越せ。代わりに言わないで置いてやる。わかったか」と言って返してくる。
「言う通りにしたらもう見逃してくれるのか。その事も、今この状況も」
「ああ、約束する」
くそ。何でおれはこんな追い詰められてんだ。命さえ助かれば懲戒免職なんてこの際仕方ないが、おっさんは絶対に邪魔だ。
三上が同じMAP上に表示されている内なら、逃げながらでもメールを送ることくらい可能か。
「わかった。おっさんはそれでどうするんだ」
「おれは三上さんを追う。悪いけど急いでるんだ。じゃあな。約束は守れよ」
玉置は、駐車場を抜けロータリーの方へ駆けて行く。その背中を眺め、はっとする。
おれはタクシーなんか待ってられねえ。何が急いでるんだ、だよ。
調べ尽くした駐車場にいつまでも滞在するわけにいかない。
観光客の防犯意識は高く、無用心な車両は無い。その事に本来とは逆の感情が湧いてくる。
もう、走るしかない。
車の間を抜け、すぐ脇の道路に出る。
赤い点が向かって来ている方向から、今にもロシア男が飛び出して来そうな予感がする。
その予感と反対の方向へ、地面を蹴る。
ゆるい上り坂に速度があまり乗らないが、それでも必死に蹴った。
あの女。ふざけやがって。
あいつにチケットさえ渡せれば解放されたんだ。
無駄に品定めするような仕草見せやがって。
しばらく走っていると息が切れはじめ、汗は絞れるほどかいている。
カーブの連続と上り坂に何度か脚がもつれそうになり、自信がその度に剥がれていく。
五〇〇メートルほど走ったところで、狭い道に出た。車が片側通行するには、道路幅が足りない。
その登りに向かって、軽トラがぽつねんと停めてあった。
近づき、運転席のドアを引いみる。開いた。
「まさかここで鍵ゲットとか言うんじゃねえだろうな」思惑は、寂しげな鍵穴にすぐに打ち消される。ちっ甘くねえな。
スマホを取り出す。
赤い点はいつの間にか大涌谷を通過し、すぐそばまで迫って来ていた。
くそ。何でこんなに速いんだよ。
軽トラへ身体を滑り込ませる。
ツイてる。マニュアルだ。ギアをニュートラル入れ、サイドブレーキを降ろす。
摩擦の抵抗を失ったタイヤは、みるみるうちに坂を下っていく。
後ろを見ながら、フットブレーキで速度を落として行く。
カーブ手前でハンドルを切り、幅の狭い道路を横断するように停めようとする。が、ハンドルがロックされていて動かない。
「くそが。これじゃ曲がって来た時にちょっとびっくりする位じゃねえか」
コーナー手前で軽トラを停め、リアガラスから見えないように身体を縮こませる。
今何処に居るのかとスマホを確認しようとするが、ポケットに無い。
覗くように顔を少しだけ上げると、フロントガラスの先の道に落ちているのが見えた。
くそ。乗り込んだ時にポケットからこぼれ落ちたのか、と物理を呪う。
聞きたくない音が、聞こえた。
どっと心拍数が上がる。開きかけたドアを慌てて閉める。伸び切ったシートベルトが挟まり、心が折れそうになる。
身体をめいっぱい縮こませる。どうか見えないでくれと強く願うが、迫り来る音は容赦なく大きくなってくる。
一本前のカーブ辺りを曲がっている距離感。
来る。来る。
息を思いっきり吸い込み、止める。心臓が破れそうなほど急速に動いている。
シートに横になったまま、太ももを顔に近づけさらに縮こまろうとする。
曲がって来た。
折り畳んだ肘掛けとハンドルを掴み、運転席のドアを思いっきり蹴った。
耳をつんざくような衝突音が全身に波打ち、一瞬の弛緩を引き起こす。
尻がシートから浮き上がった勢いのまま、ドアの無くなった軽トラから飛び出る。車体が半周ほど旋回していた。ここが正念場だ。
上り坂の先までバイクが滑って行く。考えるよりも速く、脚が大地を蹴った。
耳鳴りのほかは何も聞こえない事に気づき、走りながら半身に振り返る。
「うおっ」
見上げた視界の先に、考えられないような高さを軽トラのドアと黒ずくめの人間が浮遊している。ゆっくりと飛んでいるようにも見えた。どんな速度でぶつかったらあんな高く──。
「ほんとに鷲かよ」ぼそりと口に出た。
駆けながらスマホを拾い、転がったバイクへ全力で向かう。
あと数歩でバイクという時、後ろでとてつもない落下音が聞こえた。音の大きさに驚き、肩がすくみ上がる。
おずおずと振り返ると、軽トラがあられもない形に変形していて、そこに落ちたんだなと分かる人影があった。
バイクを何とか起こす。何かオイルが漏れ不穏なエンジン音がするが、フロントカウルとライトにしか酷い損傷は見られなかった。ブレーキも効く。フェンダーも真っ直ぐだ。さすがKawasaki 。
Ninjaに跨り、しんと静まったロシア男をすがめるようにして言った「井の中の蛙だな」
「鷲より強い兎だってな、中にはいるんだぞ」




