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花火  作者: あさひ
第三章 八月六日
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八月六日⑦



 チェックアウトを済ませたはる菜が、旅館から出ている駅までの送迎バスに乗らなかったのは、赤い二つの点のせいだった。


 『鍵屋』 『玉屋』と呼ばれる二人組のロシア男がいつのまにか画面MAP上に現れ、駅方面からはる菜に向かって急速に距離を詰めて来ているのだった。


 旅館の玄関を出る時に、送迎バスとは別の車両の手配をしておいた。ここで待つのも焦ったい。もう少し道を下った先で乗る算段だった。

 登山道を下り出した時は、赤い二つの点とはまだ一〇キロ以上の距離がある事を確認した。


 すすき草原を抜けて、ゆるい下り坂のカーブを降りていく。車は多分、この坂を登って来る。


 動画の内容をもう一度整理する。

 捕まえたとコールすればいいのはわたしの方。なのになんであっちから来るわけ。

 何が何だか、全然わけが分からない。


 赤い点は、今どの辺にいるのよ。


 ゔおん。カーブの向こう側から、音が聞こえた。


「え、赤くない」

 黒いバイク、黒尽くめの二人組が、カーブから出て来た。


 ほんの一瞬の映像が、スローモーションに見えた。

 フルフェイスをした二人組の内、後ろに跨っている方。

 腰から何かを抜いた。その動きが、まったく無駄のない、洗練された水のような動きだった。

 重心の悪そうな体制から、右腕を伸ばして来る。

 すれ違う瞬間、前髪に、何かが触れた。

 降ろしていた前髪がすぱっと切れ、視界から外れていく。

 

「え」髪が足元にひらひらと落ちて行く。バイクが通り過ぎて行く音が聞こえる。


「なに、これ」登って行ったバイクの方を振り返る。

 後ろに乗っていた男が、バイクの上から軽やかに跳躍した。なんの迷いも躊躇いもない流れるような動作だった。

 重力に引っ張られ、ガードレールの方へ落ちて行く。バイクはそのまま登って行った様子だ。


 動かないと。足を出す。身体のコントロールを失っているみたいに、わずかにつま先が動き、じゃり、と音を鳴らしただけだった。


 男は空中で回転しながら、何か黒い物体を投げた。

 足を出そうとしていた地面に、フルフェイスが物凄い勢いで激突し、その勢いのせいか足元に転がった。


 その凄まじい衝突音に、意識が裂けた。

 止まっていた恐怖が、振動となって足元から全身を駆け巡る。


 着地した男とは一〇メートル程距離があった。一歩二歩とこっちに向かって歩いて来る。

 何キロ出ていたのか分からない。でもその速度を置き去りにするような俊敏な動きだった。


 足元に落ちている自分の髪とフルフェイスを見つめ、拾う。男の足音が聞こえる。

 

 右に行けば、カーブとカーブの間に取り残らせた森に滑落して、一〇メートルは真っ逆さま。左はコンクリートで蓋をされた法面。登れるわけがない。

 こんな運動神経の象徴みたいな男、後ろに走っても絶対すぐに追いつかれるに決まってる。


「三上はる菜だな」と流暢な日本語でロシア男は言った。


 心臓が止まったかと思った。どんな事態も今は恐怖をより強くする。何も言葉が出ない。

 もう目の前。


「これを見ろ」とロシア男は一枚のコピー用紙を差し出してきた。


「え、なに」膝がガクガク震えている。縋るようにしてフルフェイスをお腹に抱え、男の目を見られない。この男、恐ろしく怖い。


「その中にお前らに指示を出した奴はいるか」やはり流暢な日本語で話す。

 聞き取れる事が男の存在感を一層強くさせた。

 

 差し出された左腕を見る。

 腕時計、してない。こんな時にも品定めするようなわたしは狂っている。

 右腕には、見たくもない形状のナイフが握られている。

 恐ろしい。死にたくない。フルフェイスのロゴから目を離せない。



「いるかもしれない」と口が勝手に動いた。


「ほう。分かればお前は見逃してやる」


 絶対に見逃してくれない。そもそも支持を出した奴ってなに。ほんの一時間前までは何も知らなかったんだよわたし。


 ICUでの出来事を思い出す。走馬灯かな。

 わたし死ぬのかな──。



「渡辺さん、すごい生命力だよね」と同僚の中村は言った。


「戦ったんでしょ。英雄だよ」リネン類を片付けながら、同意する。

「そうそう、強盗三人居たんだって。中村さんバットで頭叩かれても倒れなかったんだって」

「そんな人間いるの」不死身じゃん。

「違うの。咄嗟に和室に飾ってあった兜を被って応戦したらしいよ」

「兜ってあの武将の?」

「そうそう、ブショーブショー」

「すごいなあのお爺さん」

「ね、怪我凄いけど、やっぱり頭守ってたから助かったんだね」

「頭守るの、めっちゃ大事だね」

「大事大事。生死をわけるよ」

「そんな場面に出会したら、兜かぶらなきゃね」

「まず、兜が家に無いけどね」

「だよね」



──頭を守らなきゃ。頭を守らなきゃ。


「本当に見逃してくれるの?」深呼吸して、わたし。

「分かればな」

「助かる為ならなんでもするから」膝の震えを止めて。

「それなら指示した奴を教えろ」


 ここだ、と思った。とにかく頭を守らなきゃ。


「あ、それなら、これ爆弾だから」


 と言って外した腕時計を男に投げる。不意をつかれた男が宙に浮いた腕時計に視線を合わせる。


 それを見て、お腹に抱えたフルフェイスを可能な限り速く、被ろうとする。

 

 ロシア男は腕時計とわたしの行動を見て、ありえない速度で上着を被り、そのまま後ろの地面に倒れていく。

倒れながら身体を反転させ、頭から上着をすっぽり被っている。全ての挙措が速すぎる。


 Kabutoと書かれたフルフェイスは大きく、引っかかりもなく被れた。

 被ると同時に、腕時計が地面に落ちた。


 初めてロシア男が止まっているように、シールド越しに見えた。



 右手に向かって思い切り地面を蹴る。一〇メートル下の森に向かって、跳んだ。


 ひゅう、と息を吸う。嘘でしょ。自分で跳んだくせに、恐怖が風圧となって身体を包む。


 何かに思いを馳せる間もなく針葉樹にラリーされ、枝にバネのように跳ね返され、プロレスラーに背中を張られたように息が飛び出し、石と湿った土の上を滑落していった。



 ……痛い。痛すぎる。


「ぐうう」呻きながら、なんとか顔を上げる。鞭打ちのように首が痛い。というか何処もかしこも痛い。バッグもボロボロだ。


 森の先に道路が見える。今がんばらなきゃただ痛い思いをしただけ。

 足首を廻そうとしてみる。痛いけど動く。

 腕も肩も平気。奇跡だけど、多分骨折はしてない。木のおかげだ。


 よろめき、倒木を頼りに立ちがろうとする。

 腰に激痛が走り悶絶する。


 でもがんばらきゃ、ここでかんばらなきゃ。


 呻き、立ち上がる。太陽に晒された道路まで。一歩一歩、なんとか歩く。大丈夫、もうすぐそこ。


 道路に出て、フルフェイスを脱ぐ。

 車の音が聞こえる。ここから見るとずいぶん上から飛んだんだな。さっき居た道路から、ロシア男がこっちを見ているのがわかる。ここまで道路伝いに降りて来るとなると、幾らあの男でも時間は掛かるはずだ。


 というかもう無理。しばらく動けない。道路に寝転ぶ。息を整えようとする。


 サイレンの音が止まる。バタバタと人と担架を降ろす音が聞こえる。


「大丈夫ですか! 意識はありますか」救急隊員の顔が夏の青空を遮っている。

 せーのと担架に乗せられ、救急車に滑り込んでいく。隊員は病院の候補をあげている。


 だいぶ計画とずれてこんな痛い思いしてるけど、呼んどいて良かった。生死をわけたよ、中村さん。


 開いたバックドアの先で、ロシア男が佇んでこっちを見下ろしている。



「だまされてんじゃねえよ、ばーか」


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