鍵屋玉屋⑥
ランタマは、嫌いな臭いを嗅ぐと決まって口をぽかんと開ける。
あまりにも臭いのか、顔の周りにある臭腺から匂いを取り込もうとするフレーメン反応なのかは謎だが、前者の振る舞いの方が生物の原理じみていていいな、と喜一郎は思っている。
臭いものをついつい何度も嗅いじゃう癖。わかる。
午前二時半。腕時計の針が指し示す時刻が重りとなって、喜一郎は作業着のまま三和土にくずおれた。
リビングに続く廊下には、二つ配置してあるペットトイレから掻き出された猫砂があちこちに落ちている。
底をついた体力の慣性でのみランタマを撫でる。
「ランタマごめんなあ、今日も遅くなっちゃって。いまごはんあげるからな」
ツナギの袖を嗅いで、口をぽかんと開けたままのランタマに語りかける。
通常こなさなければいけない勤務を定時までに終えて、それからようやく自分の仕事にありつけるため、ここのところ家を開ける時間が長い。
ストレスは溜まっていないだろうかと心配になる。
陽が落ちている時間に帰れるだけ、マシか。
朝から降り止まない雨が、はやる気持ちを濁していく。
安全のために湿潤状態で製造する星も割薬も、日乾場で天日乾燥しなければならないのに、週間天気は芳しくない。もう三月になろうとしているのに、まるで梅雨だ。
工場では定時を迎えると主電源が落ち、星掛け機などは使えなくなる。
造粒が手作業となると自然効率の悪さに直結する。
喜一郎は、平日は夜も明けない四時には家を出て、日付けが変わる深夜まで花火作りに没頭していた。
根性だ。おれは今根性でのみ動いている。
よろめきながらも立ち上がって、黒色火薬の臭いが染み付いたツナギを破くように脱いで洗濯機に入れた。
陶器の餌入れを中性洗剤で水洗いしキッチンペーパーで拭きあげて、水と一緒に新しいフードに変える。
和平に啖呵を切って六ヶ月。残り半分、いや最低でもあと五ヶ月で完成させなければ大会のエントリーに滑り込めない──。
「まず木型だよ。これがなきゃ話にならない」
和平は、文句を言いながらもこうして親身に考えてくれている。
「わかってるよ。和紙の糊付けも偉い時間がかかりそうだしな」
無謀な事を言っているのは自覚している。巻き込んで迷惑をかけることも分かっている。
でも多分、和平とじゃないと完成しない。
「うん。そこでだ。二人だけで何とかしようと思ってるきいちゃんに、良い知らせと悪い知らせがある」
突然、何かのジョークを言い出すのかと思った。
「それ、良い知らせだけ聞くのってはアリ?」
「どっちから聞きたい?」和平は小首を傾げる。
「どっちも聞きたくない」
「相談したら、社長も役所の人も色々教えてくれたんだ。きっと無謀だとわかっていても、考えてくれてたんだね。ありがたいことだよ。それで分かった事がある」
「待て、言うな」
「四尺玉の製作に携わった人が、神奈川にいる。そしてその人の会社と連絡先がわかった。社長はこうも言ってたよ。『きっと力になってくれる筈だ』ってね」
「まじか。そんな人神奈川に居たのか」
「今のが、良い知らせだよ。で、悪い知らせの方なんだけど」
「待て待て、何でその流れで悪い知らせが待ってるんだよ。もういいよ。言わなくていい。悪い知らせ、退場」
「その人の会社名が『山和煙火』だって事」
やまとえんか。そんな名前、何処にでもあるんじゃないか。普段からプログラムの打ち合わせで同業者と膝を突き合わせる事も多い。その度に「きいちゃんは何も言わなくていいから」と和平に釘を刺されるのだが、その場にいるほとんどが何某煙火という名前の会社に属している。
でもどこかで、どこかで聞いた名前だ。これが無くても機能的に大丈夫でしょって組み立てた時に余るネジじゃない。その部分を通らなければ回路が動かないような、必要不可欠なモーターのように感じてならない。
「半年前の火薬窃盗事件、覚えてる?」
思い出した。大量の黒色火薬が盗まれた事件で、被害を受けたのがそういえば山和煙火という会社だった。
「火事場泥棒ならぬ、火薬泥棒のあの事件か」
「それが、ほんとに火事場泥棒だったんだよ。何かの拍子に出た火が、倉庫の花火に引火して火災になったんだ。作業場とは離れている筈だからあまり考えられないけど、アークの残火が飛び火したのかもしれない。小玉だったのが救いで、類焼もせず被害は少なかったみたいだけど、従業員は全員避難してた。そこに、泥棒」
「とんでもねえ野郎が居たもんだな。下手したら大火災じゃねぇか。根性が気に入らねえ。おれがげんこつしてやる」
「まだ話の続きがあってね、社長も前置きしてたんだよ。『もし繋がったなら、きっと力になってくれる筈だ』って。でもそんな事件があったばっかだろ。だからなかなか電話出来ずにいたんだけど」
「うんうん。そりゃそうだよな。犯人は捕まったの?」
「それが、まだ捜査中みたい。でね。こういうのはきいちゃんがやるべきだと思うんだ」
「おれが?」
「うん。他の雑多な事はおれがやっても良いんだけど、今後実務だけに専念するべきだと思うし。ただ電話くらい、自分で掛けたいかなって」
確かにそうだ。何から何まで和平に世話になる訳にはいかない。
自分の夢に付き合わせているんだ。大会までガス欠なんて起こせない。
「色々と調べてくれてありがとな和平。そうさせてくれ。番号、教えて。」
「うん。もう番号入れといたから、このまま掛けて良いよ」和平の携帯を借りて、発信のボタンを押した。




