17.追懐の微睡み(上)
「はぁ、はぁ、はぁ」
月の光も届かない真っ暗な森の中。馨草は息を切らしながら、駆け抜けて行く大きな背中を追っていた。
どんな荒れ地であろうとも、大地を速く駆け抜けられる優れた脚──『健脚』。
それが白虎の血を引く白家が持つ、特有の才だった。
霊獣の濃い血筋である直系は誰よりも速い健脚を持つ。特に現当主は稀に見る、かの白虎に次ぐ健脚の持ち主らしい……当の本人が昔からそう自慢していた。
強ちそれは大袈裟でもなく、馨草は引き離されてどんどん小さくなっていく父の背に歯を食いしばった。
──だが今夜こそは見失ってなるものかっ。
普段は闘争心など持ち合わせないが、白虎筋の本能か、脚だけは強い矜持を持っていた。
無造作に生える木々を避けながら小さな体で必死に追った。
次第に森の終わりが見えてきた。体は限界だったが意地で速度を上げて茂の終わりを越える、すると視界が明るくなった。
森を抜けた先にあったのは、白く染まった大地と巨大な泉だった。
──ようやく着いたか。
馨草は大きく安堵した。
ひどい疲労感と、カラカラになった喉。最後まで父の背中を見失わなくなった自分の成長を褒めてやりたかった。
何度も呼吸を繰り返し、息を吐けば白く染まり、吸えば冷たい空気が喉に入り込んでむせそうになる。
──相変わらずこの寒さには慣れない。
森を抜けた瞬間の急激な気候の変化に熱くなった体が一気に冷えていく。寒さで腕を抱きながら泉へと目をやると、いつものように水底は真っ暗で何も見えなかった。
──水脈は遥か深くで数多に別れて、この大地に大きく張り巡って他の土地へと繋がっている、とあいつが言っていたな。
さらにこの泉の水は凍る事がなかった。
どんなに寒気に晒されようとも凍り付くことのない奇妙な泉で、水底の真っ黒さから『黒泉』と呼ばれていた。
うっかり足を滑らせ落ちようものならそれが最後、這い上がることは出来ない恐ろしい泉でもある。
そんな理由から『幽冥の水底』と呼ぶ者までいた。
緩やかに揺れる黒い水面には皓皓とした月が浮かぶ。
──まるで水中へと誘っているようだな。
写し鏡で人を惑わせようとする不気味さに、馨草はこの泉を好きになれなかった。
黒泉の向こうへと目を向ければ、泉の中心は何かを隠すように濃霧に包まれていた。
その霧の中から一本の長くくねった橋が伸びている。大地と濃霧の中を繋ぐ、唯一の橋を委蛇橋と言った。
──父上はもうあんな所にいる。
委蛇橋の始まりにうきうきと立つ父──白薫楙の側へと駆け寄るのと同じくして、薫楙は右の足のつま先でとんっと地を鳴らした。
すると足元が淡く光りを帯び、光は筋となって橋の上をくねくねと渡っていく。
まるで蛇のような光だ。この朧気な光は歩みを導く光の道標であった。
二人はそれを頼りに橋を渡っていると、霧の向こうに黒い影が見えてきた。足を進めればよりはっきりと浮かび上がってくる。
泉の中心に浮かぶ孤島──それが龜北清閑の本拠地だ。そしてそこに建っている黒く大きな館の名を玄霧甲館と言った。
「おい黒善爾!来てやったぞ!早く扉を開けろ!」
甲羅模様が描かれた分厚い鉄門の前に立ち、薫楙が嬉々として大きく叫びを上げた。
声に応えるかのように重々しい音を鳴らして扉が動き始めた。その重々しさは地響きとなって足元を揺らし、泉では水面が揺れている。
そして扉が開くと、その向こう側に強面の男が立っていた。それが黒家の当主だった。
「騒々しいわ白薫楙!お陰で愛蝶の機嫌が悪くなったではないか!折角の良い雰囲気をどうしてくれる!」
黒家当主は薫楙に容赦なく怒鳴りつけてきた。
折角の良い雰囲気が何を意味するかを察した馨草は、それを邪魔をしてしまった父を冷めた目で見る。
しかしそんな二人の様子を物ともせず、薫楙は他家の当主相手に馴れ馴れしく肩を組んだ。
「相変わらず細君に弱い奴め。黒蝶殿には後で謝っていたと伝えてくれ。それよりも今は酒宴だ!さぁ酒を飲み明かそうぞ!」
そう言って黒善爾を強引に引きずって館の中へと入っていく。もはや招待されたのか、それとも無理やり押し入っているのか分からない。
馨草の目には後者に見えた。
──本当に招かれて北方まで来たのか?
そんな疑いを持ちながら馨草も中へと入っていく。そうして再び扉は閉ざされて孤島は霧に飲まれた。
ざわざわとした喧騒が大広間に響き渡っていた。
まだまだ幼い馨草には酔っ払いの集まりは退屈でしかなく、歳の近い聯明もここにはいなかった。
母に似て騒がしい所は嫌いで宴には決まっていなかった。
──聯明がいないのならつまらないな。どうせ父上たちは朝までは酒に夢中だ。私がいなくなっても気づかないだろう。
馨草はほくそ笑むとこっそりとその場を抜け出した。
玄霧甲館は来慣れている。我が家のように自由に歩き回って聯明を探す途中で、女の甲高い声が辺りに響いた。
──……最悪だ。近くに来てしまっていたなんて。
見たくはなかった。それでも気になって声がして方へと足を向けると、思った通りの人たちが立っていた。
歳が自分よりも幾らか上の簡素な装いをした少女と、中老程の高貴な衣を纏った女だ。
手に黒い剣を握る少女の腕を女が掴んでいて、あまり良い雰囲気ではないようだった。
「どうして私の言う事を聞いてくれないの!」
女が叫んで手を振り上げて、長い黒袖が揺れて細く白い腕が見えた。
直後、聞こえてきた痛ましい音に馨草は小さく眉を動かした。
少女の白い頬は赤くなっており、見ているだけで痛々しく感じてくる。
けれど少女は何ら動じることもなく、真っ赤になった頬に触れる事もしない。変わらずに強く真っすぐとした眼差しを向けていた。
「相手が母上だろうと誰かの言いなりになるつもりはない。私は私がしたい事をする」
そう言い捨てると堂々とした足取りで去って行ってしまった。
置いていかれた女は、娘の言葉にしくしくと泣き出してしまった。
微かな泣き声が辺りに響いていて少女の耳にも届いている筈だ。けれど女を振り返る事は決してなかった。
──相変わらずだな、黒怜祥は。
少女は黒家の姫、黒怜祥だった。
彼女は自由気ままに生きる少女だ。真っ直ぐに突き進む性格で、妨げる者は母であろうと構わず突き放す。
叩かれた頬も痛かっただろうに、弱みや戸惑いは見せない。それは意地を張っているのか、それともさらさら気にしていないのか。
彼女ならば気にしていないような気がした。
──水のように得体が知れず、掴むことが出来ない人だ。
この光景を目にするのは何度目か、と瞼を閉じる──。
あれはいつ事だったかは覚えていない。ただ今みたいに聯明を探して歩き回っていた事は覚えている。
初めてこの状況に居合わせて、止めに入った方がいいのかとても迷った。
苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、居ても立っても居られれず、馨草が足を向けようとした時だ。
『止めておけ、白の若君よ』
と、聞こえてきた声が動きを制した。
振り返ると、宴には中々姿を見せない黒善爾の細君がそばに立っていた。
音もなく現れた彼女に、馨草は目を丸くする。
『他家の、しかも子供が邪魔をすれば雪花殿を益々追い詰めてしまうぞ』
追い詰めると言われて馨草は顔を伏せた。
黒家の先の当主には愛して止まない女がいる。それが先ほどの女──先の当主の正夫人だった。
夫婦の仲はとても睦まじく、並んでいる姿は微笑ましいと囁かれる程だ。
しかし、子宝には恵まれなかった。
危機を抱いた黒家の重鎮たちが、強引に当主に妾を持たせた。その妾が産んだ子が現当主である黒善爾だ。
おまけに夫人となってほんの数年で子を成してしまった事がさらなる重圧となったとかで、正夫人は心を病んでしまったという。
そんな正夫人に当主は寄り添い続け、ようやく望みが叶って念願の子を授かった。
しかしそれは、黒善爾が次の当主となる事が決まった後の事だった。
正夫人は子を当主の座に座らせようと思ってはいなかった。ただどの家にも負けぬ姫君に育て上げたかった。
それが正夫人の自分が出来る唯一の事なのだと思っていた。
その強すぎる想いが歪んでしまって、可愛い筈の娘に手を上げるようになった──という事情だ。
だが馨草には、娘に手を上げる正夫人の気持ちが理解できなかった。
『あれでは怜祥殿がかわいそうだ』
『可哀想かどうかなぞ本人が決める事だ。怜祥は自分が可哀想だとは思ってはいない。むしろ母こそ可哀想だと思ってる。憐れんでいると怜祥自身に怒られるぞ?』
『……けれど』
『他家の事情には踏み込まない。忘れたか?』
突きつけられた五門家間の定まり。
馨草は歯がゆさを感じながらも口を噤むしかなかった。
『ふっ、白の若君は優しいな』
黒蝶は小さく笑みを零す。
『きっと白家は他の五門家とは違い、波風が立たぬ穏やかな家なのだろうな。だが良いか、人はあれもこれもと欲張って救う事は出来ぬ。その手を見てみよ』
馨草は自分の手のひらを見つめる。
まだまだ成長期前の、なんとも小さな手のひらだ。
『何か掴み取るには限りある。なのでお前はお前が愛くしむ者にだけその手を伸ばしてやれば良い。その小さな手で掴めるものなぞそれぐらいよ』
黒の細君は冷ややかに現実を叩きつけると去っていった──。
──私が愛くしむ者……。
いつか黒蝶に言われた言葉を思い出し、頭の中に美しい少女の姿が浮かび上がってくる。その一途な想いは日に日に大きくなっていた。
あの頃よりも少し大きくなった手のひらを見つめ、ぎゅっと強く握り締めた。
そして再び正夫人へと目を向ける。いつからか彼女の傍には隠居した先の当主がいて、彼女を優しく慰めていた。
──元はといえば当主が妾など持ったことが元凶だ。私なら、たった一人だけを愛する。どんな状況だろうと、他はいらない。
馨草は寄り添う二つの影を睨むように見つめた。




