12.夢
──うぅ、においがすごい⋯⋯。
思わず鼻を摘みたくなるような、とても不可思議な匂いが家の中に蔓延していた。
助けを求めるように窓へと目を向ける。
快いそよ風が青葉生い茂る木々の匂いを運んで、どこからか鳥のさえずりが聞こえてきた。
家から少し歩けば、清らかな川のせせらぎまで聞こえてくるこの家を、母はとても気に入っていた。
これまでずっと旅をしていた一家は、母の突然の隠居宣言で、旅の終わりを告げた。
どうして急に母が祓氏を辞めたのか分からなかった。混乱しながら父を見れば苦笑しながらも隠居を止める事はなかった。
そして新たな暮らしが始まった。
その中で、ひとつ知ったことがある。母は料理がとても苦手だった。
本人は料理に意欲的で、食材を切るのは誰より得意だった。しかし味付けが壊滅的で、父が全ての重責を担っていた。
しかしその日、麓の街まで買い出しに行っていた父の帰りが遅く、待ち切れなくなった母が料理を始めてしまった。
──父様、母様が調味料に手を出す前に早く帰ってきて⋯⋯!
手を合わせ、父の早い帰宅を心の中で祈りつつ、必死に母の気を逸らそうと話しかける。
「ねぇ母様!母様は父様のどこが好きの?」
母は野菜を切る手を止めて、たった一人の娘へと顔を向ける。その表情は思っているのとは違う、ひどく悩ましいものだった。
「うーん、それは難しい質問だ」
「難しい、の?」
母の返答に表情が曇る。
もしかすると聞いてはいけない事を聞いてしまったのではないか、と子供ながらにしまったと思った。
「あぁ、あいつがいなくても私は全く困らないからな。だから好きかと聞かれると正直分からない」
返ってきた酷い言葉に驚いたものの、母らしいと言えば母らしいあっさりとした返答だった。
「じゃあどうして一緒にいるの?」
「あいつは私がいないと駄目だからだ」
父は人が良く、おおらかな人だった。
それでも一人では何も出来ない人ではない。むしろ何事も卒なくこなす人だった。
子の目から見ると、どちらかと言えば母の方が危なっかしさがある。
なのでその言葉の意味が理解できなくて眉間に皺が寄る。
「……じゃあ母様がいないと駄目だから一緒になったの?
「それは少し違うな。一緒にいるのは私がいてやらないと駄目だからだが、私は好きだから一緒にいるんだ」
「さっき好きか分からないって言った」
「分からないが多分好きだ。ある日あいつが夢に出てきて、それが不快ではなかった。だから好きなんだと思った。好きなら一緒にいてやるのがこの世の道理だ」
母の言う言葉がやはり理解出来ずますます表情が険しくなる。そんな子の頭を優しく撫でた。
「梓娟、そんなに難しい顔をするな。嫌じゃなかったら好きで、ただ一緒にいたいからいる。理由は単純で良い。深く考える必要はない。一緒にいる時は変な事を考えなくて良いんだ」
そう言ってにっと笑う。
母の考えも行動も難しくて理解はできなかった。
けれどその笑顔が大好きで、梓娟もつられて笑顔になっていた──。
「我焰様、赤尾殿ありがとうございました」
梓娟は深々と礼をした。
目の前の砂の海と打って変わって、背後には緑が広がっている。そしてそのずっと先に、小さく街のようなものが見える。
梓娟たちは魔物や砂嵐に襲われながらも、無事に砂漠を越え切ったのだ。
「ああ、またお別れですかい。このままお嬢さんを槭河宮に連れ去りてぇ」
「……折角砂漠越えられたのにそれはやめてください」
悲しげに涙する赤尾に苦笑しながら我焰へと目を向けるとふいっと顔を逸らされてしまった。
急に目を合わせなくなった我焰に、梓娟は困惑していた。
──我焰様にとって砂漠は飛んで越えられる。だけど私に付き合わせてずっと歩かせていたから怒らせてしまったのかしら?
そう考えると眉間に深く刻んだ皺の理由が腑に落ちて申しなさを感じた。
「……さっさと行くぞ」
我焰は素っ気なく赤尾に言い捨て、羽を広げて高く飛び上がると砂漠の方へ──槭河宮の方角へと向けて進み始めた。
「お嬢さんまた会いましょう……あ、待ってくだせぇ坊っちゃん!」
赤尾は慌てて羽を広げ飛び上がると、急いで我焰の後を追う。
空を飛行する二人の姿は小さくなっていき、あっという間に見えなくなった。
「まるで嵐が去ったあと、って言うのかしら?楽しい砂漠越えだったわ」
賑やかな数日間を思い出してくすりと笑みを零す。少し寂しくもあるけど、だけど不思議とまた何処かで出会えそうな気がした。
梓娟は困難を乗り越えた砂漠に背を向けると、西の大地を一歩一歩と歩み始めた。




