5.甘く囁く声
『──梓娟』
それはどこか甘く、優しげで。
自分の名を呼ぶ声が聞こえてきて、顔を見上げれば男が美しく微笑んでいた。
伸ばされた手が戯れるように髪を撫でる。その感触があまりにも快くて、思わず睫を震わせ顔を伏せる。その仕草にどう思ったか、男はふっと息を零して、梓娟の額に軽く口づけを落とした。
そのまま耳元へと唇を寄せると、男はもう一度甘く囁いた。
『梓娟』
息がかかってくすぐったさを感じながら、髪に触れる手に自分の手を添える。視界の端に映る衣の袖の色は彼のものとは違う、馴染みのある色だった。
ちらりと彼を見上げて──あぁこれは夢なのね、と思った。
──だって彼は本当の名を知らないもの。
本当の名を一度も伝えた事はない。何者であるかは知らない。もし知っていたのならば、こんな風に囁かれる事などなかった。
それなのに幻夢の彼は、他の誰の者には聞かせない声で囁いて、嬉しそうに弧を描いた唇を寄せてくる。
──これは夢。それでも……。
薄く形の良い唇がそこにある。
梓娟はゆっくりと瞼を閉じた──。
ハッと瞼を見開けば真っ暗な天井が視界に映る。そして小さく息を吐いた。
「……寝れないじゃない」
どうしてくれるよと、目に映る天井を睨む。
昼間は赤々と見えたそれは、今は黒ずんで見える時刻。渓谷の飛禽も今は眠っているが、今夜は何時もよりもやけに静かに感じた。
南部は夜も暑さがあり寝苦しく、外から入ってくる涼しい夜風がいつもならば心地良かった。
けれど今の梓娟には、その優しい風がかえって心苦しかった。
遠くの方から鳥の囀りが響いてくる時刻、梓娟は青い衣の袖へと腕を通した。
襟元をきっちりと合わせ、腰帯をきつく締めると、着るのは久しぶりだったが、体に習慣が染み付いていたようで自然と背筋がぴんと伸びた。
着替えが終わり、振り返って鏡台に映る自分を見つめる。
青衣姿の自分はやはり違和感しかない。到底似合ってるとは言えないが、しかしどこか懐かしさがあった。
「またこれを着るなんて、ね」
青──この色を見る度に頭の中に彼がちらついて、胸を締め付けられて苦しかった。
未だ蒼眞佳という存在を忘れる事が出来ず、果てには夢にすら現れてしまう。
そんな自分に戸惑いを隠せなかった。
──きっと、まだ『延芳』でいるからいけないよ。
北方へ戻りいつも通りの平穏な暮らしに戻ればすぐに忘れられる。全ては無かったことになるのだ。
そう、無かった事にすべきなのだ。
「早く黒家に戻らなきゃ」
早く、早く。
自分の中で完全に断ち切る為にも、一刻も早く、黒梓娟に戻りたくてたまらなかった。




