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伯父の命により、高潔すぎて『聖人』と噂の男の元へ行く事になりました。  作者: すずみ
第二章 火は燃え滾り金は煌めきを秘める
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5.甘く囁く声

『──梓娟』


 それはどこか甘く、優しげで。

 自分の名を呼ぶ声が聞こえてきて、顔を見上げれば男が美しく微笑んでいた。

 伸ばされた手が戯れるように髪を撫でる。その感触があまりにも快くて、思わず睫を震わせ顔を伏せる。その仕草にどう思ったか、男はふっと息を零して、梓娟の額に軽く口づけを落とした。

 そのまま耳元へと唇を寄せると、男はもう一度甘く囁いた。


『梓娟』

 

 息がかかってくすぐったさを感じながら、髪に触れる手に自分の手を添える。視界の端に映る衣の袖の色は彼のものとは違う、馴染みのある色だった。

 ちらりと彼を見上げて──あぁこれは夢なのね、と思った。


 ──だって彼は本当の名を知らないもの。


 本当の名を一度も伝えた事はない。何者であるかは知らない。もし知っていたのならば、こんな風に囁かれる事などなかった。

 それなのに幻夢の彼は、他の誰の者には聞かせない声で囁いて、嬉しそうに弧を描いた唇を寄せてくる。


 ──これは夢。それでも……。


 薄く形の良い唇がそこにある。

 梓娟はゆっくりと瞼を閉じた──。



 ハッと瞼を見開けば真っ暗な天井が視界に映る。そして小さく息を吐いた。


「……寝れないじゃない」


 どうしてくれるよと、目に映る天井を睨む。

 昼間は赤々と見えたそれは、今は黒ずんで見える時刻。渓谷の飛禽ひきんも今は眠っているが、今夜は何時もよりもやけに静かに感じた。

 南部は夜も暑さがあり寝苦しく、外から入ってくる涼しい夜風がいつもならば心地良かった。

 けれど今の梓娟には、その優しい風がかえって心苦しかった。






 遠くの方から鳥の囀りが響いてくる時刻、梓娟は青い衣の袖へと腕を通した。

 襟元をきっちりと合わせ、腰帯をきつく締めると、着るのは久しぶりだったが、体に習慣が染み付いていたようで自然と背筋がぴんと伸びた。

 着替えが終わり、振り返って鏡台に映る自分を見つめる。

 青衣姿の自分はやはり違和感しかない。到底似合ってるとは言えないが、しかしどこか懐かしさがあった。


「またこれを着るなんて、ね」


 青──この色を見る度に頭の中に彼がちらついて、胸を締め付けられて苦しかった。

 未だ蒼眞佳という存在を忘れる事が出来ず、果てには夢にすら現れてしまう。

 そんな自分に戸惑いを隠せなかった。


 ──きっと、まだ『延芳』でいるからいけないよ。

 

 北方へ戻りいつも通りの平穏な暮らしに戻ればすぐに忘れられる。全ては無かったことになるのだ。

 そう、無かった事にすべきなのだ。


「早く黒家に戻らなきゃ」


 早く、早く。

 自分の中で完全に断ち切る為にも、一刻も早く、黒梓娟に戻りたくてたまらなかった。


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