3.屋根の上
立っている、という言い方には少し語弊があった。宙に浮いているのだから立つという言葉を使うのはおかしい。
しかし浮いた状態で起立する姿は、宙の上だろうと立っていると言ったほうがしっくりとくる。
男は腕を組んでこちらを見下ろしており、さらに顔には分かりやすく『不機嫌』とまで書いてある。
梓娟は男からの威圧感に完全に気圧されていた。
しかしいつまでもじっと見つめらているのも居心地が悪く、恐る恐るたずねた。
「……ど、どちら様でしょうか?私に何か御用が?」
「はっ、助けてやった相手に対して礼はないのか?」
「助けた……あぁ、居候の方!」
翅楓の話を思い出してぽんっと手を叩くと、深々と頭を下げた。
「川では助けてくださり──」
「あ゛ぁ?」
感謝の言葉は遮られ、梓娟は慌てて頭を上げる。
一体言葉のどこに癇に障る事があったのか、元々不機嫌だった顔はますます不機嫌になっていた。
──あ、これは不味いわ。
そう察した時には男の手が伸びてきて、顎を掴まれ乱暴に顔を正面へと向けられてしまう。
そして間近で見た男の顔は、中々に整った顔をしていた。そしてなにより、目つきこそ鋭いが……。
──伯父上の方が余程怖い顔をしているわ。
怖さならば黒善爾の方が圧倒的で、頭の中に浮かんだ髭伯父のお陰で、男に抱いている恐ろしさが急速に薄まっていく。
──申し訳ないけど、伯父上と比べてしまうと顔の圧が足りないわね。
思わずまじまじと見つめていると、男は片眉を上げた。どことなく不服そうな様子だ。きっと恫喝して怯える顔でも見たかったのだ。
「お前、名は?飛べるはずの龍東万雷の祓氏が溺れていたんだ。良い嗤い話になる」
──なまえ?
名を聞かれた梓娟は焦り始めた。
黒家と赤家、水賊と山賊。
賊同士だからか何かと反発し合う為、両家は昔からあまり仲が良いとは言えなかった。
もし黒家の名を出せば鳳南闊達内で黒家が嗤いの肴にされてしまう。下手すると蒼家だった場合よりも美味しい肴になるかもしれない。
──正直に名乗らない方が良さそうだわ。何より……。
ややこしい事に、溺れていた梓娟は青衣を着ていたのだ。その理由を尋ねられても、理由が理由だけに到底話せる筈がない。
黒家の名誉の為にも、梓娟はうかつに名乗る事は出来なかった。
かと言ってこのまま名乗らなければ男の機嫌をますます損ねてしまい、このまま一生顎を掴まれていそうだ。
梓娟は悩んだ挙げ句、渋々と口を開いた。
「……え、延芳よ」
「あ゛ぁ?」
「え?」
延芳の名を口にした瞬間、何故か男の眉間の皺が益々深くなった。
おまけに体からは強い霊力が溢れ出し、まるで激しく燃え盛る炎のようにゆらゆらと揺れている。
男が憤怒する理由は分からないが、肌をひりひりとさせる程の熱い霊気に、本能が危険だと訴えていた。
「はっ、延芳だと?これは面白い話だな」
男は面白いと言ったが、目が全く笑っていない。
梓娟は嫌な予感がした。その直後、ずっと顔にあった手は離れて、今度は手を掴まれた。手首を折られてしまいそうな程の強い力だ。梓娟は痛みに顔を顰める。
男は何を思ったか、梓娟の手を掴んだまま上昇し始めた。
「え?ぁ、ちょっ」
戸惑う梓娟をお構いなしに、男はどんどん空へと飛び上がり、地上が遠ざかって渓谷の川は遥か下。男の手はまさに命綱で、手を離されると真っ逆さまだ。
手を離してほしいが離されたくもない状況で、恐怖から体は強張り、顔からは血の気は失せていた。
「いいか、延芳は俺が最も聞きなくない名だ!」
──この人、本物の延芳と何があったのよ!?
延芳はおっとりとした愛らしい女だ。
この様子では二人の間で一悶着があったようだが、けれど少なくとも梓娟の印象では、彼女が何か問題を起こすとは思えなかった。
しかし男の怒り様は異常で、あっという間に槭河宮の高さを越えて、屋根の上にまで来るとそこに放り捨てられてしまった。
梓娟はひどく狼狽えながら、本能的に視界に入った近くの脊飾にしがみつく。
屋根はかなりの急斜で、ここまで来ると風も強い。落ちてしまう恐怖から血の気が失せていた。
──な、な、なんなの、この状況は!?
下は見ない方が良いと分かっている。しかしつい目線が下へと向けてしまい、危うく意識を手放しそうになった。
「は、龍東万雷がなんて間抜けな姿だ」
男は宙に浮いたまま、震える梓娟を高笑いしている。しかしいつまでもしがみつく姿に違和感を覚えたようで眉を潜めた。
「どうした、何故飛翔しない?しがみついてる趣味でもあるのか?変わった女だな」
「そ、そんな趣味あるわけないでしょ!私、飛べないのよ!」
「嘘を言え!飛べぬ蒼家の祓氏なんぞ聞いた事がない」
──私は蒼家の祓氏じゃないもの!
そう言い返したいが今更違うとも言えず、ぐっと言葉を飲み込む。そもそも今はしがみついているのがやっとだった。
──もし手を離したら……。
槭河宮はこの渓谷のどの山々よりも高く聳え立っている。この高さから川に落ちればただではすまない。
──…⋯川に、落ちる?
その言葉が幼き頃の出来事を呼び覚ます──。
『……母様……母様っ!』
雷が真っ暗な空を眩く光らせて、響き渡る轟音が大地を震わせた。
悲しくて、怖くて、苦しくて、息が出来ない。目は止めどなく溢れる涙のせいで何も見えなかった。
それは突然だった。
足元が急に大きくひび割れて、投げ出された小さな体は濁流の中へと飲まれた──。
暗く冷たい水の中、怖くて苦しかったあの辛い記憶に思考が支配されて体が震え上がる。
水の中ではないのに息が出来ない。呼吸の仕方を忘れてしまったようだ。
そして、ぷつりと目の前が真っ暗になった。
全身から力が抜けて、手を離してしまった梓娟は屋根の上を転がり、そして落っこちた。
意識のない体は勢い良く落下していく。
水面に叩きつけられるその瞬間、男は梓娟の腕を掴むと腕の中へと引き寄せた。
「……お前、本当に飛べなかったのかよ」
ぶつくさと呟いた声は梓娟の耳には届かなかった。




