2.槭河宮
──とりの、こえ……?
何処からか響いてくる美しいさえずりに耳をくすぐられ、梓娟はゆっくりと瞼を開いた。
霞んだ視界に見えてきたのは赤。鮮やかな真っ赤な天井がそこにあった。
──どこ……だっけ、ここ?
頭がずきずきと痛んで、うまく思考が回らない。ただ自分は寝台に横たわっているようで、不思議と強い暑さを感じていた。
熱がある感覚ではない。部屋が、この辺り一帯がやけに暑い。喉が渇いていて、額には汗まで滲んでるようだった。
「目が覚めたんだねあんた!」
突然響き渡った女の声に梓娟はびくりと肩を震わせた。
「川で溺れてたあんたをうちの居候が見つけてね。助けたのは良いけど、ずっと眠ったたままだったから目覚めてほっとしたよ」
鳥の鳴き声も掻き消すような、よく通る声だ。梓娟はドキドキとさせながら顔を横へと向ける。
──誰!?
そこには見覚えのない女がいた。自分が横たわる寝台の傍で、椅子に座りこちらを窺っている。
目尻が上がった瞳が特徴的な綺麗な人だ。歳は少し上で、二十半ば程か。纏う衣は華やかで、赤い色をしていた。
──あか……赤!?
「あ、そんな急に起き上がると」
反射的に勢い良く起き上がった梓娟の視界が大きく揺れた。
「っ──」
ふらつく頭に手を当てて、目眩が落ち着くのを待っていると、視界の中に赤が混じた。それは自分の衣の袖で、そこで漸く自分が赤い衣を着ている事に気付く。
「ほら、無理をするから」
女は手を梓娟の肩にそっと置いて笑った。
その仕草はとても優しくて、親切な人という印象を抱いた。
──誰か分からないけど、良い人、なのかしら?少なくても人の悪さは全く感じられないわ……でもここは何処なの?
梓娟は礼を返す事も出来ない程にひどく困惑していた。
蒼家の衣を纏い、蒼家の池に落ちた筈が、目覚めると赤い衣を纏い、見知らず人の館にいるのだから。
──あそこから渡脈した、という事かしら……ここは一体?赤衣は鳳南闊達の証だけど、ならばこの人は……。
梓娟に緊張が走る。
鳳南闊達──それは南方の祓氏五門だった。
つまりここは五門家の一つ、朱雀の血を引く赤家の所領という事になる。
赤家は霊獣の才を継ぐ五門家でも、唯一霊獣の特徴を受け継いだ一族だ。
その特徴というのが翼だ。背中には美しい赤い羽が生えているのだと言う。
目の前の彼女の背には羽の姿がないが、羽を広げるのは大空を飛び回る時のみで、普段はしまっていると聞いていた。
「大丈夫かい?」
そう言って女は梓娟の背中を優しく撫でた。
──……この人もきっと赤家なんだろうけど……でも噂の印象と違うわね。
鳳南闊達は兎に角、柄の悪いと有名だった。
横柄な態度と酒癖の悪さで、一度絡み付いたらとことん煽惑。魔物退治では依頼者に高額な報酬をたかる、と。
柄が悪いという点では龜北清閑も負けてはいないが、龜北清閑を水賊と呼ぶなら、鳳南闊達は山賊と呼ばれていた。
──この人は山賊とは真逆に見えるわ。
確かに威勢はかなり良さそうだが、女の仕草の節々には品の良さが感じられ、人柄も良さそうだ。少なくてもたかるような人には見えない。
気品……と梓娟は顔を顰めながら女をちらりと窺う。その視線に気づいた女はニッと笑みを浮かべた。
──確か、赤家の当主は女だって話よね?
黒家にいた時に聞いた話では、赤家の当主は女で、屈強な男たちを毅然と束ねる凛とした人らしい。
山狩りの場では、当主たちは大きな陽傘をさした高座におり、梓娟がいる場所から姿を見ることは出来なかった。
なので赤家当主の顔を未だ知らなかった。
──まさかこの人は……。
不味い予感がしてごくりと喉を鳴らす。梓娟は意を決すると恐る恐る尋ねた。
「あ、あの、此処は?そ、それに貴女は……?」
「え?私かい?私は赤翅楓。この槭河宮の主人さ」
翅楓と名乗る女は胸を張って答えた。
──やっぱり赤家の者なのね。でも当主ではなかった。
良かったと安堵の胸を撫で下ろす。
赤家の当主は代々『赤南天』の名を継いでいた。つまり違う名を名乗った彼女は当主ではないという事だ。
しかし宮殿の主という事は、赤家の中でもかなり高貴な人である事で、まだ安心はしきれない。
「お腹はすいてるかい?あんた五日も眠ったままだったんだ、喉がカラカラだろ?何か持ってくるよ」
「え、あ、ちょっと待って──」
翅楓は梓娟が答える間もなく足早に部屋を出て行ってしまった。
「……まだこちらは名前を名乗っていないのに気が早い人ね」
拾い部屋の中で一人きりになった梓娟はため息を吐くと、乾ききった喉から痛みを感じた。
ふと唇に手を当てると少し濡れているようだった。今気づいたが、寝台のそばには水の入った桶が置いてある。
面倒見が良さそうな彼女が看病してくれたのだろうと察して有難さと申し訳無さで胸がいっぱいだった。
「……風?」
何処から感じる風に誘われて顔を向けると、露台から青く澄んだ広大な空と、青々とした渓谷の山々が覗いていた。
梓娟は寝台から降りると露台へと向かい、赤い欄干に手を置いた。
肌に汗が浮く暑さの中、優しく頬を撫でるような柔らかな風がとても心地良かった。
──あの山の向こうに龍颯山があるのかしら?
風に揺れる髪を押さえながら、槭河宮を取り囲むように連なる山の、その向こうを思い描いて静かに見つめる。
此処は宮の中でも高い場所のようだが、渓谷の向こう側までは見えない。それに土地勘の無い梓娟には方角がさっぱり分からない。
けれど何故か、あの山の向こうに彼がいるような、そんな気がした。
──彼女、私は五日も眠っていたって言っていたわ。そんなに経っているんだから、きっと私の事も忘れて美人の許嫁と仲良くやっているわね。
耳元で囁いたあの甘い声で彼女の名を呼び、優しく触れたあの手で彼女の頬を撫でる、そんな想像をして無意識に自嘲していた。
──後悔は無い……けれど、この胸の辺りがもやもやとする……。
大きなため息を零して、再び渓谷を一望する。
美しい山々と下に流れる広大な川。露台からの佳景に圧倒されてしまう。しかし空を飛べない梓娟には、逃げる事の出来ない牢獄のようにも思えた。
──溺れていた川ってあの川かしら?よく生きていたわね私……。
真下の川を見つめているだけで恐怖で膝が笑ってしまう。
渓谷の運河は広く長く、所々岩が露出していた。常人ならば助ける事は出来ない。空を飛べる祓氏五門だからこそ助ける事が出来たのだろう。
──どこのどなたか知りませんが、ありがとうございます。
「おい」
梓娟は目を瞑り、心の中で何処ぞの人に思を馳せて感謝していると前からぶっきらぼうな声が聞こえた。
不思議に瞼を開けば、目の前には翼を生やした男が立っていた。




