第9話 この歌が届く場所
「勇者様なら、あの歌をやってくれるんだろ?」
そう言ったのは、運河の広場で真っ先に腰を下ろした荷運びの男だった。
カイはギターケースの留め金に指をかけたまま、顔を上げた。
「どの歌ですか?」
「決まってる。魔王城で弾いたっていう、あれだよ。十年前の夜に、みんなを励ました曲だよ」
男の隣にいた女性がぴたりと手を止めた。
「……ここで、その歌を?」
小さな声だったが、カイの耳にも届いた。
水位の上がった運河から少し離れた荷車置き場には、パン屋の女将が運んできた椅子が並び、子どもたちが空いた場所に座っていた。管理人が通路を確かめ、荷運びの人たちが木箱を端へ寄せてくれたおかげで、ようやく演奏できる場所ができた。
ドランの酒場の給仕も来ている。ただ、ドランの姿はまだ見えなかった。
「歌ってくれるなら嬉しいさ。戦争が終わった日の曲なんだろ?」
荷運びの男が言うと、女性は膝の上の籠を抱え直した。
「私の家族は、あの日、帰ってこなかったの」
荷車を動かす音が止まった。
男は困った顔をした。
「そんなつもりで言ったんじゃない」
「分かっています。でも、同じ日に喜べる人ばかりじゃないでしょう」
カイは二人の顔を交互に見た。間に入ろうとしたものの、どちらに何を言えばいいのか分からなかった。
「カイ」
オルヴィアが隣へ来た。白い指が、ギターケースではなくカイの袖をつまんだ。
「先に、私がやりたい曲を歌ってもいい?」
「もちろん。どの曲?」
「この前、聴いてもらった曲」
魔王城の子守歌。
カイは一瞬だけ迷った。あの歌は、彼女の家で歌われていたものだ。目の前の人たちが、それをどう受け止めるか分からない。
「ここで歌うの、怖くないか」
「怖いわよ」
オルヴィアはあっさり答えた。
「でも、聴いてほしいの。この歌も、誰かが大切な人を想って歌っていたものだって」
その横顔を見て、カイは余計なことを言うのをやめた。
「よし。じゃあ、俺は伴奏に回る」
「ちゃんとついてきてよ」
「勇者を誰だと思ってる」
「さっき椅子の数を間違えた人」
「そこは忘れてくれない?」
***
「最初に、私の故郷で歌われていた曲を聴いてください」
オルヴィアは集まった人たちにそう告げた。
故郷、と聞いて何人かが顔を上げた。彼女が魔王の娘だと、ここにいる全員が知っているわけではない。
カイは椅子に座り、弦を軽く鳴らした。
オルヴィアの歌は、思っていたより静かに始まった。
眠れない子どもをなだめるような、昔からそこにあった旋律。カイは彼女の声を邪魔しないように、知っている和音を一つずつ選んだ。初めて一緒に弾いたときより、少しだけ呼吸が合う。
リュネは客席の端にいた。
昼の公演を終えたばかりで、指も疲れているはずなのに、膝の上でそっと拍子を取っている。カイが目を向けると、片目をつぶってみせた。
歌の途中、女性が籠から小さな布を取り出した。折り目のついた子ども用の上着だった。
カイはそっと目を逸らした。あの人が今、何を思い出しているのか、自分には分からない。
それでも、歌は止まらなかった。
最後の音が消えると、拍手より先に運河の水音が聞こえた。
やがて子どもが一人、ぱちぱちと手を打った。少し遅れて、大人たちも続く。
オルヴィアは深く頭を下げた。
先ほどの荷運びの男が立ち上がった。
「……知らない歌だった。いい歌だな」
「ありがとう」
女性は拍手をしていなかった。ただ、上着を籠へ戻しながら、オルヴィアを見ていた。
「その歌、誰が作ったの?」
「分かりません。私が生まれる前から、家で歌われていたそうです」
「そう」
女性はそれきり口を開かなかった。
オルヴィアは次の曲の支度を始めた。
***
二曲目が終わったところで、カイは客席の端にドランの姿を見つけた。
前掛けを外している。肩にはいつもの革袋。隣に立った給仕の青年が嬉しそうに手を振っていた。
カイは思わず声を張った。
「ドラン! 来られたのか!」
「騒ぐな。客の邪魔になる」
「今、演奏してるの俺なんだけど」
「だったらなおさらだ」
客席から笑いが起こった。
「叩いてくれよ」と言いかけて、カイは言い直した。
「一曲だけ、一緒にどうだ? 店は大丈夫か?」
「給仕の連中が戻ってくれる。夜の仕込みも済ませてきた」
「だったら!」
「一曲だけだぞ」
「十分!」
ドランは小太鼓を取り出した。リュネが肩にベースをかけ、カイの横へ来る。
「四人で弾くの初めてじゃない?」
「確かに。ちょっと緊張してきた」
「カイでも緊張するんだ」
「勇者だって人間だからな」
「そういうときだけ普通の人みたいなことを言うのね」
オルヴィアに言われ、カイは苦笑した。
客席を見渡す。
パン屋の女将がいる。運河の管理人がいる。昼間、リュネが別れを告げた楽団の笛吹きも、いつの間にか後ろの方に立っていた。リュネと目が合うと、帽子をちょっと持ち上げた。
今ここに、四人がいる。
カイは弦の上へ指を置いた。
「次は、十年前に俺が途中まで作った曲です。あの頃、避難所でも弾きました」
運河の向こうで、夕陽が水面を赤く染めていた。
「ただ、今の俺はあのときと同じじゃない。今日は、みんなと一緒に弾きたいと思います」
ドランが小さく一つ、合図をくれた。
そこから始まった曲は、カイが一人で弾いていた頃の音とは違っていた。
リュネのベースが軽やかに走り、その行き先をドランの太鼓が受け止める。オルヴィアの歌は二人の音に背中を押されて、夕方の広場へ伸びていった。
最初の曲で膝の上の上着を握っていた女性は、まだ黙ったまま聴いている。
いい。それでいい、とカイは思った。
手拍子をする人も、しない人もいていい。全員が同じ気持ちにならなくても、この時間を一緒に過ごせるなら。
曲が終わりに近づいたときだった。
オルヴィアがあの八小節を歌い始めた。
彼女との出会いによって初めて知った旋律。
最初の音を聴いた瞬間、ドランの手が止まった。
ほんの一拍。観客には気づかれないほど短い間だった。
そのあとドランは叩き方を変えた。
弱く二度、間を置いて、もう一度。
カイは思わず彼を見た。
ドランはオルヴィアの歌を聴いていた。周りの客ではなく、まるで遠くから何かの返事を待っているような顔で。
曲は止まらなかった。
最後の一音が消え、拍手が広場を満たすまで、ドランは一度も顔を上げなかった。
***
「いい音だったね!」
片付けを始めると、リュネが真っ先に言った。
「お前のベースが元気すぎて、途中で負けそうになったよ」
「負けていいんだよ。バンドなんだから」
「それもそうか」
笛吹きがリュネへ近寄ってきた。
「昼とまるで違う音だったな」
「どっちも私の音だよ」
男は少し驚き、それから笑った。
「そうだな。また聴きに来る」
リュネはうれしそうに笑って、ベースのケースの留め金を閉じた。
カイはそのやり取りを横目に見ながら、ドランのところへ歩いた。
「さっき、叩き方変えたよな」
ドランは小太鼓を革袋へ戻していた。
「お前の曲に合わんかったか」
「逆だよ。妙に合ってた。あの最後の八小節でさ」
ドランの指が止まった。
「……あの八小節は、誰が付け加えたんだ?」
「それが分からないんだよ」
オルヴィアもやってきた。
「私は旅先で続きを耳にしただけ。誰が作ったのかは知らないわ」
ドランは二人の顔を見比べた。
それから、革袋の口を閉めずに言った。
「十年前、俺は城の西側で避難する連中に合図を送っていた」
カイは息をのんだ。
「合図って?」
「避難路の連中へ、進んでいいか、止まれか、知らせる合図だ。鐘や板を打ってな。声じゃ届かん場所があった」
「その合図と、あの曲が?」
「同じだと言い切るつもりはない」
ドランの返事は慎重だった。
「だが、最後に俺が叩いた間の取り方を、俺は昔も使った。あの歌を聴くと、手が勝手に覚えている」
カイは初めてドランと一緒に演奏した夜を思い出した。
――誰に教わった?
あのときドランが聞きたかったのは、カイが誰から曲を習ったかではなかったのかもしれない。
「その合図、どこかに記録がないのか?」
「俺の手元にはない。現場の交代や水門の操作は、管理の帳面に残していたはずだ」
「水門……」
ちょうど、運河の管理人が縄を片付けに来た。
カイが事情をかいつまんで話すと、管理人は眉をひそめた。
「十年前の帳面か。全部残っているかは分からんが、古い保管箱なら計量所にある。ただし、勝手に開けるわけにはいかん。責任者に確認する」
「見せてもらうことはできますか?」
「昔の運用記録なら、許可が下りればな。あんたらが歌の続きを探してるのは分かったが、記録は記録だ。書いてあること以上のことは分からんぞ」
カイはうなずいた。
「それで十分です」
管理人は翌朝、責任者へ問い合わせると約束してくれた。
***
片付けが終わる頃、広場にはもう夕闇が降りていた。
客は一人、また一人と帰っていく。
最後まで残っていたのは、最初に「ここで、その歌を?」と尋ねた女性だった。
彼女はオルヴィアの前に立つと、籠の中の小さな上着を見せた。
「これ、娘のものなの。十年前から、捨てられなくて」
オルヴィアは何も言わず、上着を見つめた。
「戦争が終わったって聞いても、私は喜べなかった。今でも、みんなで祝うのは苦手」
「……ええ」
「最初の歌は好きだったわ。誰かを倒して喜ぶような歌じゃなかったから」
オルヴィアはそこで初めて微笑んだ。
「私も、あの歌が好きです」
女性は籠を抱え直し、帰っていった。
カイはその背中を見送りながら、オルヴィアに声をかけた。
「最初の曲、君に任せてよかった」
「あなたが伴奏してくれたから、歌えたのよ」
「お、珍しく褒めてくれた」
「一度くらいはね」
二人で笑った。
少し離れたところでは、ドランが水門の方を見ていた。
「カイ」
呼ばれて振り向くと、ドランがこちらへ歩いてきた。
「明日、帳面を見に行くなら俺も行く」
「店は?」
「朝の仕込みが済んでからだ。俺にも、確かめたいことがある」
「何を?」
ドランはしばらく答えなかった。
「十年前の俺は返事を聞いたと思っていた」
「返事?」
「向こう岸からだ。だが、誰が返したのか結局分からなかった」
水門の上で風が鳴った。
「もしあの帳面に、返事を受けた記録が残っているなら――」
ドランは言葉を切った。
カイは彼の続きを待った。
「十年前、あの返事をしたのは誰だったのか……」




