第8話 私の音で、もう一度
「昨日の話だけど、最後の曲は変えたくない」
集会所へ着くと、リュネが年配の笛吹きにそう告げていた。
町の人たちを招く演奏会まで、あと一時間。楽団員たちが椅子を並べ、開け放した窓から朝の風が入ってくる。
「今の形は、お前が前に出るように直した曲だ」と笛吹きが言った。「お前が抜けてからも、俺たちだけで弾けるだろうか」
「弾けるよ。おじさんたちなら」
「そう簡単に言うな」
リュネは譜面を指さした。
「昔の形に戻すんじゃなくてさ。私がいなくても弾ける形を、一緒に考えようよ。せっかく最後にみんなと演奏できるんだから、私も好きなように弾きたい」
笛吹きは返事に詰まった。入口で見ていたカイとオルヴィアは、顔を見合わせた。
「今は聞いていた方がよさそうね」
「……だな」
やがて男は譜面を閉じた。
「分かった。ただし、好きに弾けと言って放り出すつもりはない。最後まで一緒に考えよう」
「うん。その方がいい」
男は椅子へ腰を下ろし、リュネを見上げた。
「それと、一つ謝っておきたい」
「何?」
「前にお前の音が邪魔だと言った。あれは言いすぎた」
「……すっごく言いすぎ」
「分かっとるよ」
男は楽器を膝へ置くと、窓際を指した。
「一つだけ、話していいか」
そこには、ほかの楽団員より少し低い譜面台があった。
「去年、病気をしたときな。前みたいに長く吹けなくなって、正直もう演奏を続けられないかと思った。そんなとき、お前が前に出てくれただろう。あれには助けられたよ」
「うん」
「でも、戻ってきたら、俺の居場所がなくなったような気がしてな。情けない話だろう」
リュネは黙って男の顔を見た。
「邪魔だと言う前に、どう弾くか一緒に考えりゃよかった」
「私も怒ってばかりだった。もう一回合わせようって言われたのに、全然聞かなかったし」
二人とも、すぐには次の言葉が出てこなかった。
先に口を開いたのはリュネだった。
「じゃあやってみようよ。おじさんの笛も、私のベースも、どっちもちゃんと聞こえるように」
男は彼女を見つめ、それから声を立てて笑った。
「今からか。もう客が来るぞ」
「じゃあ、急がないと!」
リュネはケースを開けた。カイがよく知っている、あの楽しそうな顔だった。
***
演奏会が始まるころには、集会所は町の人でいっぱいになった。
前列には子どもたちが並び、後ろでは仕事の合間に立ち寄った職人たちが壁にもたれている。カイとオルヴィアは端の椅子に腰を下ろした。
「飛び入りしないでね」
「分かってるって」
「本当かしら。さっきから弾きたくて仕方なさそうだけど」
「……そんなに顔に出てるか?」
「ええ、とっても」
言い返そうとしたところで、最初の笛が鳴った。
明るい曲だった。
弦琴が歌い、二本の笛がそれを追いかける。リュネの低い音は、その下で軽く跳ねていた。噴水前で初めて会ったときより控えめだが、窮屈そうには聞こえない。
カイは膝で拍子を取った。
二曲目では、笛吹きが先に出た。リュネはいつもより少し離れて立っている。年配の男が長い音を伸ばすたび、その後ろで彼女が音を添えた。
曲が終わると、客席から拍手が上がった。
「あいつ、楽しそうだな」
「ええ」
オルヴィアは舞台を見つめたまま答えた。
「でも、さっきからずっとあの人の方を見てる」
年配の笛吹きも、ときどきリュネを見ていた。
何年も一緒に演奏してきた相手だ。ちょっとした仕草だけで、伝わることがあるのだろう。
やがて、最後の曲が始まった。
最初はゆっくりだった。旅の途中で口ずさむような、どこか懐かしい旋律。笛吹きが先に吹き、ほかの楽器が続く。リュネは弦を鳴らしながら、一歩も前へ出なかった。
あれ、とカイは思う。
このまま終わるのか。
ところが二度目の旋律に入ったところで、笛吹きが吹くのをやめた。
客席の何人かが顔を上げる。
一拍。
次の音を鳴らしたのは、リュネだった。
低い音が、いつもよりはっきりと響く。
彼女はそのまま前へ出た。さっきまで笛が歌っていた旋律を、今度はベースが引き受ける。音が踊るように広がり、客席の子どもが思わず身体を揺らした。
カイは知らずに笑っていた。
そうだよな。お前、こういうのが好きなんだよな。
リュネはもう誰の顔色もうかがっていなかった。
ひとしきり弾いたところで、彼女は笛吹きの方を振り返った。
男が息を吸う。
待っていたようにリュネの音が低く収まり、その上へ笛の旋律が戻ってきた。
今度はどちらの音も消えなかった。
隣でオルヴィアが小さく手を打ち始める。カイも続いた。やがて手拍子は客席の後ろまで広がり、曲が終わるころには、楽団員の誰もが笑っていた。
最後の音が消える。
誰より先に立ち上がったのは、前列にいた年配の女性だった。
「いいぞ、リュネ!」
その声をきっかけに拍手が大きくなる。
リュネは目を丸くし、それから笛吹きの方を見た。
男は何も言わず、譜面台を片手で軽く叩いた。
リュネが笑った。
カイは拍手を続けた。胸の奥が、なぜだか熱かった。
自分はあの舞台で、一音も弾いていない。
それなのに、こんなにも楽しい。
***
客が帰ったあと、楽団の連中は椅子を片づけ始めた。
リュネがベースをしまっているところへ、笛吹きがやってきた。
「最後のところ、勝手に変えたな」
「おじさんだって、勝手に止めたじゃない」
「お前が出てくると思ったからな」
「……ずるいよ、そういうの」
男は笑いながら、手を差し出した。
「長いこと助かった。次の楽団でも、好きな音を弾けよ」
リュネはその手を握った。
「うん。おじさんも、ちゃんと息を吸ってから吹いてよ」
「最後まで生意気だな」
「知ってる!」
握手を解いたあと、リュネはしばらく動かなかった。
それでも、泣かなかった。
やがてカイたちのところへやってきて、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「どうだった?」
「最高だった!」
カイが答えると、リュネは胸を張った。
「でしょ!」
「最後の曲、ずっと聴いていたかったわ」
「……ありがと」
その声だけ、少し小さかった。
「で、勇者様。夕方の試演、まだ間に合う?」
カイは目を見開いた。
「いいのか?」
「弾けるかどうか、まだ分かんないよ。でも行きたい。自分の音で、今度はあんたたちと弾いてみたいんだ」
カイは笑った。
「待ってた」
***
三人が運河の計量所へ着いたのは、夕方の試演までまだ余裕のある時刻だった。
ところが、管理人は演奏場所の縄をすでに片づけていた。
「悪いな。上流の点検で水が思ったより上がった」
見ると、昨日までは乾いていた石段の下の方が水に沈んでいる。水際だけでなく、観客を集める予定だった空き地の端にも濡れた跡が残っていた。
「夕方までには引きますか?」
「分からん。だから、ここは使わせられん」
管理人は申し訳なさそうだったが、答えははっきりしていた。
カイは集まってきた人たちを見た。パン屋の女将、仕事を終えた荷運びの男たち、昨日約束した子どもたちもいる。まだ演奏は始まっていないのに、みんな楽しそうに待っていた。
その中に、ドランの酒場の給仕もいた。
「勇者さん、どうします?」
カイはギターケースへ手をかけ、止めた。
剣で何とかできる問題ではない。魔法で水を押し戻したところで、流れがどう変わるか分からなかった。
「……まず、みんなに事情を話そう」
声をかけようとしたとき、オルヴィアがカイの袖を引いた。
「ねえ。あの広場は?」
彼女が指さしたのは、運河から少し離れた、荷車を留めておく広い空き地だった。
「そこなら水は来ていないわ。管理人さんに頼んで、あそこで歌うのはどう?」
カイは足元から視線を上げた。
管理人は腕を組み、空き地を見やった。
「……あそこなら、通路を空ければ使えんこともない。ただし、客を移動させるなら今すぐだ」
「やろうよ!」
リュネがケースを開きかける。
カイはその手を押さえた。
「待て。まず客を移動させる。楽器はそのあとだ」
「……了解!」
オルヴィアはもう子どもたちの方へ歩き始めていた。
カイは管理人へ頭を下げると、観客の前に立った。
「すみません! 予定してた場所が使えなくなりました。でも、まだ中止にはしたくないんです」
声を張ると、誰かが「じゃあ、どこでやるんだ」と返してきた。
カイは空き地を指さした。
「みんなで、あっちへ移りませんか!」
パン屋の女将が、すぐに立ち上がった。
「それなら荷物は私が運ぶよ。ほら、道を空けて!」
人が動き始める。
ドランの給仕が入口へ走り、荷運びの男たちは通り道に置かれた木箱を脇へ寄せた。リュネもベースを背負ったまま、子どもたちを誘導している。
カイはその光景を見て、思わず笑った。
演奏が始まる前から、こんなに大勢の人が力を貸してくれている。
空き地の端からオルヴィアが呼びかけた。
「カイ! 最初の曲、決めた?」
カイはギターを背負い直した。
「もちろん!」
けれど、次の瞬間、ふと気づいた。
今ここにいる観客の中には、戦争が終わったことを喜ぶ人もいれば、そうではない人もいる。
同じ歌を、同じ気持ちで聴くとは限らない。
それでも、今夜は歌いたい。
カイはオルヴィアを見た。
彼女は静かにうなずいた。
「……じゃあ、始めようか」
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