第7話 それぞれの一拍
「一緒に演奏したいなら、まず俺の仕事を見ていけ」
ドランが差し出した前掛けは、カイが思っていたよりずっと大きかった。
「……なあ、仕事を見ていけって話じゃなかったか?」
「見てるだけで分かると思うか?」
「いや、そうは言ってないけどさ」
「なら、客の前に出ろ。そっちのお嬢さんもだ」
オルヴィアは前掛けを受け取らず、酒場を見渡した。
「私も?」
「嫌なら帰っていい」
「嫌とは言っていないわ。何を手伝えばいいの?」
ドランはようやく満足そうに鼻を鳴らした。
「まず、腹を空かせた客に飯を運ぶ。話はそれからだ」
***
夕方の酒場は、カイの想像以上に忙しかった。
皿を二枚持って歩けば別の卓から声がかかり、飲み物を運ぶ間に次の料理ができあがる。厨房と客席を三往復したところで、カイは早くも自分が何を頼まれたか分からなくなった。
「勇者さん、こっちの煮込み!」
「はいよ!」
「それは三番卓!」
「三番ってどこだ!?」
「椅子が三つあるところ!」
椅子が三つある卓は二つあった。
オルヴィアはカイから皿を一枚受け取り、窓際の客に届けた。戻ってくると、カイが恨めしげに言った。
「ずるいぞ。なんでそんなに慣れてるんだ」
「あなたが急ぎすぎなのよ」
「急がないと料理が冷めるだろ」
「だからって、誰の注文か忘れたら意味がないでしょう」
言い返せなかった。
厨房ではドランが鍋の蓋を開け、湯気の向こうから二人を見ていた。
「何か分かったか、勇者」
「客が多い!」
「見れば分かる。ほかには?」
「……一人じゃ無理だな、これ」
「そういうことだ」
ドランは給仕の青年を呼び、盆を受け取った。
「こいつは昼から仕込みを手伝ってる。ほかにも洗い場が一人、夜は俺が厨房に入る。誰か一人抜けたら、残りがその分走ることになる」
「それで、夕方の演奏には行けないんだな」
「ようやく分かったか」
カイは前掛けの裾を握った。
給仕の青年が何枚もの皿を抱えて厨房へ駆け込んだ。カイが運び忘れた水差しまで、片手に提げている。
「悪かった。叩いてくれって、簡単に言いすぎた」
「謝る暇があるなら、その卓に水を持っていけ」
カイは素直に水差しをつかんだ。
その背中にドランが声をかけた。
「あと、俺はまだ一度も、音を出すのが嫌だとは言っとらんぞ」
振り向きかけたカイは危うく水をこぼしそうになった。
「前を見ろ!」
そのとき、奥の卓から大きな声がした。
「親父、祭りの日は店を貸し切れるか?」
立ち上がったのは昼間から酒を飲んでいた商人だった。隣の客へ聞かせるように、銀貨の入った革袋を卓へ置く。
「勝利十周年だ。勇者様の演奏も呼んで盛大にやろうじゃないか。金なら出す。ただし、魔族は店へ入れるな。せっかくの祝いだからな」
オルヴィアは客の皿を卓に置いた。商人の方へは振り向かなかった。
カイが何か言うより先に、ドランが厨房から出てきた。
「貸せん」
「何だと? 十周年の稼ぎ時だぞ」
「聞こえなかったか。貸せんと言った」
商人は笑い飛ばそうとして、ドランの顔を見てやめた。
「金なら払うと言ってるんだぞ」
「金の問題じゃない。うちの客を角の有る無しで選ぶような奴には貸さん」
店内が静まった。カイの持つ水差しから、雫が一つ床に落ちた。
商人は革袋をつかんだ。
「後悔するぞ。祭りの夜は忙しいんだろうに」
「帰りに段差がある。転ぶなよ」
商人は革袋を懐へ押し込み、戸口に向かった。そこで足を止める。
「お前の店だけの話で済むと思うなよ」
「そういう商売は、こっちから願い下げだ」
ドランが言うと、商人はもう振り返らなかった。
戸が閉まっても、店内には妙な静けさが残った。
やがて、奥の卓にいた男が杯を置いた。先ほどまで商人と酒を酌み交わしていた客だ。
「親父、あいつは毎年、祭りの日に大勢連れてきてくれるんだぞ」
「知っとる」
「今年は来ないだろうな。俺も別の店を探すよ」
ドランは男を見たが、引き留めなかった。
「……そうか」
男は銀貨を一枚置いて立ち上がった。隣の客も、何も言わずに席を離れる。
カイは二人の背中を見送った。さっきまで賑やかだった奥の卓が、急に広く見えた。
給仕の青年は、空いた席からドランへ目を向けた。
「親方、祭りの日の仕入れはどうします?」
「予定どおりだ」
「でも、あの人たちが来なかったら、食材が余りますよ」
「帳面を持ってこい。今夜、俺が計算する」
「また一人で何とかするつもりですか」
ドランが振り向いた。
青年は盆を胸に抱えたまま、言葉を続けた。
「親方があの人の条件を断ったのは、間違ってないと思います。でも、店が潰れたら困ります」
「分かっとる」
「だったら、僕にも手伝わせてください。仕入れのことなら僕だって少しは分かります」
ドランはしばらく青年を見ていた。
「……分かった。閉店後に一緒に帳面を見るか」
「はい。じゃあ、今夜は寝るのが遅くなりますね」
「お前は先に帰ってもいいんだぞ」
「いつも親方だけ残ってるんでしょう」
カイは青年の隣に並び、残った皿を引き受けた。
「俺も手伝おうか、帳面」
「お前はまず、皿を割らずに運べ」
「一枚も割ってないだろ!」
「今のところはな」
厨房へ戻るドランの背中を見て、カイは苦笑した。
オルヴィアは少し離れた卓で、料理を待つ老婆の前に皿を置いていた。
「お待たせしました」
老婆は料理を受け取ると、オルヴィアの角をちらりと見た。
「さっきの人、嫌なことを言ってたねえ」
「……ええ」
「私は、あんたが運んでくれて嬉しいよ」
オルヴィアは少し驚いたようだったが、やがて微笑んだ。
「ありがとうございます」
老婆はそれ以上何も言わず、温かい料理に手を伸ばした。
店内には、食器の触れ合う音と、客たちの話し声が戻り始めていた。
***
閉店後、カイは洗い終えた皿を棚に片づけた。
手伝った礼にと出された賄いは、温かい豆の煮込みだった。口に運ぶと、思った以上に腹が減っていたことに気づく。
「うまいな、これ」
「働いたあとだからね」
隣で食べていたオルヴィアが答える。
「君も結構働いてたな」
「あなたが二度も注文を間違えるから」
「一度だろ」
「二度よ」
「……二度か」
ドランが卓へ腰を下ろした。
「明日の試演、何人呼ぶつもりだ」
「大勢は呼ばない。管理人ともそう約束した」
「何人だ」
カイは答えに詰まった。パン屋の女将とその知り合い、運河で働く人たち。通りがかった客も立ち止まるかもしれない。だが、人数までは考えていなかった。
ドランは何も言わず、卓に小石を並べた。
「ここが計量所。客がこっちへ広がると、荷車の通り道を塞ぐ。水際には寄せるな。立って聴ける場所は、せいぜいこのくらいだ」
「見に行ったのか?」
「女将に聞いた。店へ来た荷運びの連中にもな」
「……もう考えてくれてたんだ」
「無茶をする勇者のせいで、管理人に迷惑をかけたくないだけだ」
オルヴィアが小石を一つ動かした。
「こっちに人を集めたら、通路は空くかしら」
「そこは見通しが悪い。子どもが走ってきたら危ない」
「じゃあ、誰かが入口に立つ?」
「それなら二人は要るな」
そこへ、片付けを終えた給仕の青年がやってきた。
「僕、明日の夕方なら少し手伝えますよ」
「お前、閉店まで働いたあとだろ」
「明日は早番です。店の方は、僕が仕込みを多めに済ませておけば大丈夫でしょう?」
ドランは並べかけの小石を指で押さえた。
青年はカイの顔を見た。
「この前、僕が皿を落としたとき、親方がかばってくれたでしょう。あのとき勇者さんたちがいたから、助かったんです。今度は僕にも何かさせてください」
「恩返しのつもりなら、無理するな」
「違いますよ。演奏を聴いてみたいんです」
それを聞いて、カイは思わず笑った。
「じゃあ、仕事じゃなくて客として来いよ」
「それじゃ人手が足りないでしょう?」
「そうだけどさ」
青年はドランへ向き直った。
「親方。僕が入口に立ちます。終わったら店に戻りますから」
しばらくして、ドランがため息をついた。
「分かった。ただし無理はするな。もう一人は俺が探す」
カイは身を乗り出した。
「ドランも来るのか!」
「だから、まだ決めとらん。明日の仕込みが終われば、な」
ドランは小石を片づけず、給仕の青年を見た。
「祭りの日の仕入れは、明日の朝、俺と一緒に計算し直すぞ」
「はい」
「あと、カイ」
「ん?」
「明日は客の前で弾くんだろ。お前の名前を見て来る人もいる。演奏だけじゃなく、帰る客のことも考えろ」
「……分かった」
「返事はいい。ちゃんとやれ」
カイは卓の小石を一つ通路から離した。
ドランは小石の位置を確かめ、卓を片づけ始めた。
***
翌日の昼、カイとオルヴィアは運河へ向かった。
管理人に挨拶し、水門の点検予定を尋ねた。まだ最終確認が取れていないため、明日の朝もう一度来てほしいと言われる。二人は客を入れる範囲を確かめた。カイは借りてきた縄を置き、オルヴィアは通り道を歩いて、荷車と人がすれ違えるかを見た。
ところが、試しにギターを鳴らし始めると、橋を渡っていた子どもたちが音につられて立ち止まった。
「あっ、勇者だ!」
二人が走り寄ろうとしたところで、管理人の声が飛んだ。
「おい! 橋の上で止まるな!」
カイは慌てて演奏をやめた。
「悪い、俺が呼んだみたいになっちまった」
「音がしたら見たくなるもんだ。そこまで考えて場所を決めろ」
管理人は眉をひそめたままだったが、約束を取り消しはしなかった。
オルヴィアが子どもたちのところへ歩いていく。
「聴きに来てくれるのは嬉しいわ。でも、橋の上にいたら危ないでしょう。明日の夕方、あっちの空き地から聴いてね」
「お姉ちゃんも歌う?」
「ええ。約束するわ」
「じゃあ行く!」
子どもたちが走って去ると、カイはギターを抱え直した。
「……君、うまいな」
「何が?」
「客を呼ぶの」
「あなたが音を鳴らして集めたんでしょう」
「怒られたけどな」
「なら、明日は二人でちゃんとやりましょう」
オルヴィアは振り返り、笑った。
カイも笑いかけたが、橋の上に子どもたちが集まった光景を思い出した。
「そうだな。まず、あの橋を空けておかないと」
二人は管理人と一緒に縄の位置を直し、空き地から演奏を見る場所を決めた。
練習したのはほんの数曲だったが、昨日まで頭の中にしかなかった舞台が、ようやく形を持ち始めた。
***
帰り道、リュネのいる集会所へ寄ると、彼女はちょうど荷物をまとめていた。
「明日、昼から本番なんだってな」
「そう。終わったら片付けもあるから、運河へは間に合わないかもしれない」
「大丈夫。そっちをちゃんとやってこいよ」
「……うん」
リュネはベースの弦を一本鳴らした。
「でも、私、カイたちとも弾きたいんだよ」
「知ってる」
「そう簡単に決められたら、悩まないよ」
いつもの調子で返したが、声には少し元気がなかった。
カイはリュネのベースに目をやった。
「もし来られるなら、お前の場所は空けとくよ」
「客席?」
「客席でもいいし、楽器を持ってきてもいい。どっちも無理なら、あとで話を聞いてくれ」
「……勝手に決めていいの?」
「もちろん」
リュネはしばらく自分のベースを見つめていた。
それから、いつもの明るい声に戻る。
「じゃあ、遠慮なく決めさせてもらう!」
「おう」
カイはうなずいた。
集会所の奥から年配の笛吹きが現れた。
「勇者さん。ちょうどよかった」
リュネの表情が変わった。
男はそれには触れず、カイへ頭を下げた。
「明日の演奏、よかったら聴きに来てくれないか。リュネにとって、うちで弾く最後の舞台なんだ」
「いいんですか?」
「もちろん。こいつがどんな音を弾くのか、ぜひ聴いてやってくれ」
リュネは少し照れくさそうに笑った。
「そんな大げさなものじゃないよ。でも、明日はちゃんと弾く。みんなの音も好きだし、自分の音も好きだから」
笛吹きは手にしていた譜面を下ろした。
「……そうだったな」
リュネはケースの留め金を閉じた。
「カイ。明日、聴いててね」
「ああ。楽しみにしてる」
二人の話が一段落したところで、年配の笛吹きがリュネに尋ねた。
「そうだ。一つ相談がある。明日の最後の曲なんだが、昔の編曲に戻してもいいか」
「……どうして?」
「お前が抜けたあとも、俺たちはこの曲を演奏していく。今の編曲は、まだ俺たちだけじゃうまく合わせられないんだ」
「でも、明日は私も弾くよ?」
「ああ。だから迷ってる。最後くらい、お前の好きなように弾かせてやりたい気持ちもある」
リュネは手元のベースに目を落とした。
「……少し考えてもいい?」
「もちろんだ。明日の本番までに決めよう」
「うん。明日、ちゃんと話そう」
外へ出ると、夕暮れの通りにパンの焼ける匂いが漂っていた。
「明日は、あの子の演奏を聴きに行きましょう」とオルヴィア。
「ああ。昼はリュネ、夕方は俺たちだ」
カイはギターケースを背負い直した。
振り返ると、リュネがまだ笛吹きと話していた。何かを説明するように手を動かし、時折二人で譜面を覗き込んでいる。
「あいつ、最後まで好き勝手だな」
「明日の演奏が楽しみね」
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