第6話 同じ空に、違う歌を
「ここで歌うのはやめてもらえないか」
パン屋の前でカイが楽器の置き場所を確かめていると、向かいの仕立屋から声がした。
カイは思わずギターを抱え直した。声をかけてきたのは、昨日オルヴィアが話を聞きたいと言っていた短い角のある男だった。
「……まだ弾いてないんだけど」
「明後日、ここで演奏するそうだな」
「ああ。パン屋の女将さんが、客の評判を聞いてくれるっていうからさ」
「悪いが、別の場所にしてもらえんか」
「どうして?」
仕立屋はすぐには答えなかった。
そこへパン屋の女将が顔を出した。
「ちょっと待ちな。歌を楽しみにしてる人だっているんだよ」
「聴くなとは言っとらん。場所を考えてほしいと言ってるだけだ」
「だったら、そう言えばいいじゃないか」
「最初からそう言っとる」
「ちょ、ちょっと。俺のせいで喧嘩しないでくれよ」
「喧嘩じゃないよ」
「喧嘩なら、もっと声を張る」
「そりゃ怖いな」
カイがそう返すと、女将が吹き出した。仕立屋も口元を緩めかけたが、すぐに表情を戻した。
隣にいたオルヴィアが口を開いた。
「お話を聞かせてほしいの。私たち、音楽祭に出ようか迷っているのよ」
仕立屋は彼女の角を見たが、驚いた様子もなく答えた。
「祭りが嫌いなわけじゃない。ただ、あの日は女房と息子の墓へ行く。毎年そう決めている」
カイは返す言葉を失った。
「戦争が終わってよかったとは思う。店を開けられるようになったし、町に子どもの声も戻った。そこは本当にありがたい」
仕立屋は店先の青い布を手で整えた。
「でも、わしは勝ったなんて思えんのだよ」
オルヴィアが静かに尋ねた。
「『勝利から十年』という音楽祭の言葉も?」
「わしには合わん。だから行かない。それだけだ」
「戦争が終わった日の歌を嫌うなんて、勇者様に失礼じゃないか」
通りの端から声が飛んだ。荷を背負った若い男がカイのギターを見ていた。
「十年前、勇者様に救われた人がどれだけいると思ってる。あんた一人の都合で――」
「俺の名前を使わないでくれ」
カイは思わず割って入った。若い男が目を丸くする。
「俺は誰かを困らせるために弾くんじゃない」
「それは分かるけど、こっちは勇者様の歌を聴きたくて――」
「だったら、私の歌も聴いてくれる?」
オルヴィアの声に男が振り向いた。彼女の角を見た途端、その顔から興奮が消える。
「……あんたは?」
「カイと一緒に歌う人間よ。明後日は別の場所で演奏するつもりなの。場所が決まったら、聴きに来てくれる?」
「勇者様の曲じゃないのか」
「何を歌うかも、まだ決めていないの」
男は何か言いかけたが、荷を担ぎ直して去った。通りの向こうで待っていた連れにカイの名を出しながら早口で話す。連れはオルヴィアの角を見ると、何も言わずに視線をそらした。
仕立屋は店の戸に手を掛けたまま、オルヴィアを見ている。
「そんな言い方では、客が減るぞ」
「そうかもしれないわ」
遠ざかる若い男が舌打ちした。オルヴィアは振り向かなかった。
オルヴィアは一瞬、カイのギターを見た。
「それでも、歌う前から誰かを黙らせる舞台にはしたくないの」
仕立屋は何も言わず、店先の青い布を整えた。
女将が腕を組む。
「でもさ、あたしは店の前で聴きたかったんだよ。若い子たちが、これから何を歌うか」
「それも分かる」と仕立屋は言った。
しばらく、通りを行き交う人々の足音だけが聞こえた。
カイはギターの肩紐を握り直した。女将の店先では客が二人足を止めている。その先の道を、花を抱えた老夫婦が墓地の方へ歩いていった。
「じゃあ、こうしよう。店先では弾かない。聴きたい人が集まれて、ほかの人の邪魔にならない場所を探す」
「そんな都合のいい場所、あるのかい?」と女将。
「それを今から探すんだよ。よかったら、あんたも手伝ってくれないか? 俺たちより、この町のことを知ってるだろ」
女将は腕を組んだまま、カイを見た。
「まったく、勇者様も人使いが荒いねえ」
「頼りにしてるんだって」
「場所が見つからなかったら?」
「……それも今から考える」
「勇者様って、案外頼りないんだねえ」
「音楽に関しては初心者なんです!」
オルヴィアが呆れたようにカイを見たあと、仕立屋へ向き直った。
「この町で、人が集まれて、静かに過ごしたい人の邪魔にならない場所はないかしら」
仕立屋は少し考えた。
「運河の古い荷揚げ場なら、夕方には仕事が終わる。墓地へ向かう道からも離れている。ただし、勝手に使うわけにはいかんぞ」
「誰に頼めばいい?」
「水路の管理人だ。口は悪いが、筋は通す男だよ」
「よし!」
カイはさっそく歩き出そうとした。
「待ちな」と女将が呼び止める。「荷揚げ場に行くなら、あたしも連れておいで。顔を知らない勇者が頼むより、町の店の人間が頼んだ方が話が早いだろ」
「さすがおばちゃん!」
「おばちゃんは余計だよ」
***
運河の荷揚げ場は、広場から十分ほど歩いたところにあった。
石段の先に水面が広がり、荷車を引いた男たちが最後の木箱を運び出している。夕方になると、ここには川風と水音だけが残るらしい。
「ここなら、歌えるかも」
オルヴィアが辺りを見回した。
「歌えるかもしれんが、荷物を運ぶ場所だぞ」
管理人は大柄な男で、腕には陽に焼けた跡がくっきり残っていた。女将から話を聞くと、眉間にしわを寄せる。
「客が水際まで出たら困る。子どもが落ちたら大ごとだ。音を出すだけなら好きにしろと言いたいところだが、そうもいかん」
「柵の内側だけに客を入れるのは?」とカイ。
「柵は荷を積むためのものだ。寄りかかられたら壊れる」
「じゃあ、椅子を――」
「椅子を置けば荷車が通れん」
カイは黙った。
水面を眺めていたオルヴィアが石段から数歩離れた小さな空き地を指さした。
「あそこは?」
「昔の計量所の前だな。今は使ってないが」
「お客さんはあそこに立って、私たちは荷揚げ場の端で歌う。それでも邪魔になる?」
管理人は二人が示した場所を交互に見た。
「荷揚げの終わったあとならな。ただし暗くなる前までだ。あと、大勢集まるのは駄目だぞ」
「最初から大勢は来ないと思う」とカイ。
「そうなの?」とオルヴィア。
「初ライブの客、一人だったから……」
女将が腹を抱えて笑った。
管理人まで吹き出し、カイは少しむくれた。
「笑うところじゃないって」
「いや、悪い。そういうことなら、一度やってみろ」
管理人は作業台から紙を一枚取り出し、日時を書きつけた。
「明後日の夕方、片付けが終わってから。試しに短く弾いてみて、問題がなければ使わせてやる。ただ、水門の点検予定が入ることもある。前日には必ず確認しに来い」
「分かった。ありがとう!」
「礼は、無事に終わってからにしてくれ」
ドランを思わせる物言いに、カイは少し親しみを覚えた。
帰り道、女将が先に歩きながら言った。
「推薦するかどうかは、その演奏を聴いてから決めるよ」
「望むところだ!」
「それと、さっきの仕立屋さんにも、ちゃんと話しておくんだよ」
「もちろん」
オルヴィアは運河を振り返った。
「来てくれる人だけが聴くのね」
「ああ。道も塞がない」
カイは、仕立屋が墓参りの話をしながら店先の青い布を何度も直していたことを思い出した。
「それなら、私も歌ってみたい。あの通りでは演奏しないって、仕立屋さんにも伝えておきたいわ」
カイは隣を歩く彼女を見た。
あの日、誰もいない魔王城で聞いた歌声がよみがえる。たった一人の客席から、彼女は最後まで歌ってくれた。
カイはギターの肩紐を掛け直し、女将の歩く速さに合わせて坂を下った。
***
ところが、夕方の噴水前でリュネに話すと、彼女は困った顔をした。
「明後日の夕方?」
「うん。短い試演だけど、よかったら――」
「ごめん。前の楽団の本番があるんだ」
カイはすぐに口を閉じた。
リュネは膝の上の低音弦琴を抱え直した。
「昼には終わるはずなんだけど、片付けもあるし、最後くらいちゃんと一緒にいたいんだ。途中で抜けるのは嫌だから」
「そっか。じゃあ、そっちに行けよ」
「……いいの?」
「俺が勝手に頼んでるだけだからな」
「カイ、昨日よりは話が早いね」
「昨日の俺には聞かせたくないな」
リュネは笑い、すぐに表情を引き締めた。
「今度は、あの人たちとちゃんと最後まで弾いてくる。私、自分で決めたから」
「分かった」
「そのあと、カイたちの演奏も聴きに行きたい」
「来られたら、な。無理するなよ」
リュネは唇を尖らせた。カイは言い直した。
「……待ってる。でも、お前の本番を途中で抜けてくるなよ」
「それなら約束できる」
リュネはうなずいて弦を軽く鳴らした。
その音にカイは自分のギターを重ねたくなった。けれど今日は、彼女が誰と演奏するかを決める日だ。
「リュネ」
「何?」
「最後の本番、うまくいくといいな」
「うん。ありがと!」
走り去る背中を見送り、カイはオルヴィアに向き直った。
「さて。俺たちも準備しなきゃな」
「ええ。でも、二人だけじゃないでしょう?」
「ドランか。酒場があるから、夕方は無理かもしれないな」
「だったら、聞いてみましょう。どうするかはあの人が決めることよ」
カイは笑った。
「そうだったな」
パン屋の女将は、どんな演奏を聴けるか楽しみにしている。
仕立屋は、静かに墓参りへ向かう。
リュネは以前の仲間との最後の演奏を選んだ。
酒場へ入る直前、オルヴィアが立ち止まった。
「仕立屋さんは、来ないかもしれないわね」
「だな」
「カイは残念?」
「一人減るのは残念だよ。でも、君が歌わない方がずっと残念だ」
オルヴィアは返事をしなかった。店の中から、皿の触れ合う音が聞こえてきた。
扉を開けたカイは入口で足を止めた。
ドランが机の上に、二枚の前掛けを並べていた。
「お前ら、明後日運河で弾くそうだな」
「どうして知ってるんだ?」
「パン屋の女将が、さっき知らせに来た」
「そうか。実は、そのことで頼みが――」
「頼みがあるのは、こっちだ」
ドランは前掛けをカイの胸へ押しつけた。
「一緒に演奏したいなら、まず俺の仕事を見ていけ」
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