第10話 対岸に響いた三つの音
「十年前の帳面は残っていました」
翌朝、計量所の管理人がそう告げたとき、カイは思わず拳を握った。
「じゃあ、見せてもらえるんですね!」
「声が大きい。まだ話の途中だ」
管理人は窓口の奥を指した。そこには年配の女性が座り、古びた鍵の束を机に置いていた。
「閲覧は許可します。ただし、持ち出しも書き込みも禁止です。必要な箇所は、こちらの立ち会いで写してもらいます」
女性はカイの顔を見ても、特別な反応を示さなかった。
「勇者様でも、決まりは守っていただきますよ」
「はい。むしろ、そう言ってもらえて安心しました」
「どういう意味です?」
「俺が勇者だからって、特別待遇してもらっても困るので」
女性はしばらくカイを見てから、ほんの少し口元を緩めた。
「なら、ちゃんと読んでください。帳面なので、読みたいことが書いてあるとは限りません」
ドランは厨房仕事を片づけてから来ると連絡があった。先に到着したのは、カイとオルヴィア、それにリュネだった。
「私、古い楽譜なら読むのは得意だよ」
「今日は楽譜じゃないぞ」
「だから間違えないように読むんでしょ。私も見る」
リュネはいつになく真面目な顔で窓口に向き直った。
オルヴィアは窓口の奥をじっと見つめていた。昨日の演奏ではあんなに堂々としていたのに、今はひどく緊張しているようだった。
***
保管箱には、表紙の色が違う帳面が何冊も詰められていた。
女性が慎重に取り出した一冊には、日付と水位、門の開閉時刻、引き継いだ担当者の名前が並んでいる。湿気で紙が波打ち、文字の消えた箇所もあった。
「ここ、墨がにじんでる」
リュネが紙に顔を近づけようとすると、女性がそっと止めた。
「触れないで。十年分の湿気を吸っていますから」
女性が該当する年のページを開くと、オルヴィアが明かりを寄せた。
「ここ。城の西側、避難路の切り替えがあった日よ」
カイはその日付を確かめた。
前半の記載は整っていた。水位が下がるまで待機。西門の通行を制限。南側の水門を一度だけ開放。
その下に、黒いインクで短い記録があった。
『西岸より三打。東岸、応答あり』
カイの背筋が伸びた。
「これじゃないか?」
「ドランの話と似てる。でも……」
オルヴィアは文字を指ささず、紙から少し離れたところで手を止めた。
「応答を確認した人の名前がないわ」
女性が横から説明した。
「送信した合図は当番が書く。受け取った返事は、確認者が名を残す決まりだったようです。ここは空欄ですね」
「十年前も同じ決まりだったんですか?」
カイが尋ねると、女性は肩をすくめた。
「同じ欄があるのは確かですが、全員が守ったかは分かりません」
カイは昨日のドランの言葉を思い返した。
――十年前、あの返事をしたのは誰だったのか……。
だが、『応答あり』の隣に、その疑問に答える名前はなかった。
「もう一つ、気になることがある」
リュネが帳面を指さした。
「こっちの欄、何度も書き直してない?」
門を通過した人数の欄だった。数字が塗りつぶされ、その下に別の数が小さく書き加えられている。
女性が目を細めた。
「この時は、避難者が水路を行き来していたそうです。人数の訂正は珍しくない。ただ、これがいつ直されたかは分かりませんね」
「当日、数え直した可能性も?」
「あります。後日書き足した可能性もあります」
リュネは「そっか」と言って、その欄から手を引いた。
そのとき、扉が開いた。
「待たせた」
ドランが入ってきた。服には小麦粉がついていた。
「朝から何を焼いてたんだ?」
「パンの仕込みを手伝った。うちの給仕が寝坊したんでな」
「店は大丈夫なの?」
「昼の分は任せてきた。長居はできん」
そう言いながらも、ドランの目は机の帳面を捉えていた。
カイは場所を空けた。
「これ、見てくれ」
***
ドランは『西岸より三打』の文字を長い間見つめていた。
「……俺の持ち場だ」
その声は低かった。
「三打、というのも覚えがある?」
「ある。けど、これを書いたのは俺じゃない」
ドランは行の左端に残された署名を示した。
「この名は交代の記録係だ。合図を聞いて、帳面に書く仕事をしていた」
「じゃあ、『応答あり』もその人が書いたのか」
「字を見る限りそうだろうな。ただ、誰が返事をしたのか、そいつも知らなかったかもしれん」
カイはもう一度、確認者の空欄を見た。
ドランは帳面から目を離すと、机の縁を軽く叩いた。
とん、とん。少し間があって、もう一つ。
「西から送り出すときは、こうだ。進めという意味になる」
「それ、昨日演奏中に叩いてた音だよね」
リュネが言う。
「ああ。手が覚えていたらしい」
オルヴィアは何も言わず、ドランの指の動きを見ていた。
「返事は?」
カイが尋ねると、ドランは手を止めた。
「相手が受け取ったら、違う間で返すことになっていた。だが、あの夜は風が強かった。鐘の音も、水の音もした。確かに聞いたと思っていたが……」
そこで言葉が途切れた。
オルヴィアが口を開いた。
「私が知っている続きを、もう一度歌ってもいい?」
女性が眉を上げる。
「ここは計量所ですよ」
「大きな声では歌いません。覚えていることを確かめたいんです」
しばらく考えたあと、女性は隣の部屋を示した。
「帳面を閉じてからなら。あちらには人がいません」
***
隣室には使われなくなった長椅子が二つ置かれていた。
オルヴィアは壁際に立ち、カイはギターをケースから出した。リュネはベースを持ってきていない。
「今日は聴く係ね」
「頼りにしてる」
カイが曲の最後の部分を弾くと、オルヴィアがあの八小節を口ずさんだ。
昨日、広場の客には一つの歌として届いた続き。
ここではドランの記憶を確かめるために、同じ箇所だけを繰り返す。
一度目、ドランは黙って聴いていた。
二度目に入ったところで、机を叩く音が重なった。
とん、とん。
間を置いて、ひとつ。
カイは弾くのをやめなかった。ドランが叩いているのは、昔の合図と同じ間だった。
だが、そのあとが違った。
ドランの手は三度目の音を打ったあと、次の拍を待つように浮いていた。
オルヴィアが歌を続ける。
すると、ドランの指がぴくりと動いた。
「……そこだ」
彼はたまらず口を挟んだ。
「その音のあと、返事を待っていた。何も返ってこなければ、もう一度打つ決まりだった」
「返ってきたの?」
オルヴィアの問いにドランはすぐには答えなかった。
「俺は来たと思った。だから同じ合図を打ち直さなかった」
ドランは長椅子の端に腰を下ろし、両手を見つめた。
「そのあと、向こうの岸が見えなくなった。水門を閉めろと命令が来てな」
「……もし返事がなかったなら」
「そうだ。俺はまだ向こうにいる連中を置いて、水門を閉めるのを見ていたことになる」
ドランは膝の上で拳を握り、すぐに開いた。
「ドラン。水門を閉めるのは、あなたが決めたの?」
リュネの問いに、ドランは首を横に振った。
「俺の役目は合図だ。閉める命令は上から来た」
「でも、返事がなかったかもしれないことは、誰にも話してないんだね」
「……今まで疑ったことがなかった」
オルヴィアは窓の外を見た。小さな船が、運河をゆっくり下っていく。
「昨日、私の歌を聴いてくれた人の中にも、十年前、あの岸から帰ってこなかった人を待ち続けた人がいたかもしれない」
カイは何も言えなかった。
「あの帳面を見たら、誰だって返事があったと信じるでしょう。でも、本当は違ったかもしれない。だったら、そのこともちゃんと残しておくべきだと思うの」
ドランは長椅子から立ち上がった。
「……俺の証言も、記録に残してもらおう」
「何を?」
「あのとき、返事があったと思っていた。だが、聞き間違いだったかもしれん。十年前の帳面は直せんが、そのことだけは伝えておきたい」
「それを残したら、責任を問われるかもしれないぞ」
カイの言葉にドランは顔をしかめた。
「分かっとる。だが、あの返事を聞いたと言ってきたのは俺だ」
ドランは一度、言葉を切った。
「だから、俺が話す。ほかの誰かに任せるわけにはいかん」
カイはギターをケースにしまった。
「俺も行く」
「お前は余計な口を挟むな。これは俺の証言だ」
「分かった。隣にいる」
リュネはベースのない両手を膝に置き、ドランへ言った。
「私も行く! さっきの合図なら、私も聞いてたし」
「……ありがとな」
***
計量所へ戻ると、ドランは女性の前に立った。
「十年前の合図について、俺の証言も記録に残してもらえんか」
「十年前の帳面の内容を、変えることはできません」
「変えろとは言わん。あの頃、西岸の詰所で合図を送った者として、俺の記憶に疑いがあると残したい」
「確認できた事実と、ご自身の推測は分けてください。それに、こちらに預かれるのは『提出された証言』としてです。当時の記録の正誤を認定するものではありませんよ」
「それでいい」
女性は新しい用紙を出した。ドランが言葉を選びながら話し、彼女が書き取る。カイは何度か口を開きかけたが、結局何も言わなかった。
『西岸から三打の合図を送ったことは記憶している。東岸から返事を聞いたと思っていたが、反響などを取り違えた可能性を否定できない。応答した人物については確認していない』
ドランは読み返してから署名した。
署名の下に、自分の酒場の所在地を添える。
「必要なら、俺のところへ話を聞きに来てくれ」
「……お名前は、このまま保管記録に載ります。閲覧の申請があれば、後からほかの人も読むことになりますよ」
カイがドランを見る。酒場には、先日断った商人も、昔の軍人も来る。
「今なら取り下げられるのか」
「できます」
ドランは自分の署名を見つめた。
「これを残せば、あの夜を思い出したくない連中まで巻き込むことになるかもしれん」
「それもあるでしょうね。あなたの証言を読んで、違う記憶を持つ人が名乗り出ることもあります。でも、誰かの記憶を正しいと決める書面ではありません」
「分かっとる」
ドランは署名した紙を女性の方へ押し戻した。
「取り下げん。あの夜に誰かがいたのなら、俺が知らん顔をしている方が嫌だ」
女性は証言に受領日を記し、古い帳面とは別の綴りに挟んだ。十年前の一行は、そこに書かれたままだった。
それから彼女は帳面の該当箇所を写してくれた。
「書かれていた言葉はこれで全部です。欠けた部分は、こちらでも補いません」
「ありがとうございます」
カイが頭を下げると、女性は別の綴じ紐を持ってきた。
「もし応答の確認者を探すなら、当時の勤務割も必要でしょう。今日ここで出せるのは帳面だけですが、勤務割は別の保管庫に移したという記録があります」
「どこですか?」
「町の記録所。今もあるかどうかは、向こうで調べてもらってください」
カイは写しを受け取り、折り目がつかないよう鞄に収めた。
計量所を出ると、通りには夕方の賑わいが戻っていた。
パン屋の前を通りかかったところで、女将が店先から声をかけてきた。
「勇者さん!ちょうどよかった。昨日の演奏よかったよ」
「ありがとうございます!」
「それでね、音楽祭に出るんだろう? 推薦人が必要なら私も名前を書かせてもらうよ」
リュネが真っ先に喜んだ。
「やった! 推薦人、一人確保だ!」
カイもつられて笑い、オルヴィアを見た。
「……昨日は、歌ってよかったわ」
オルヴィアはカイを見た。
「音楽祭、どうする?」
「出たいと思ってる。でも、曲は私たちで決めたい」
「もちろん」
「それと……」
オルヴィアはドランの方を向いた。
「あなたにも、一緒に立ってほしい」
ドランは首を傾げた。
「昨日、一曲叩いたろ」
「一曲だけじゃなくて、これからも一緒に演奏してほしいの。昨日のあなたの太鼓、本当に好きだったから」
ドランはしばらく返す言葉を探していた。
「……仕事の段取りがつけば、考える」
「それで十分よ」
「曲を決める前に、みんなでもう一度合わせよう」
「今度は私の曲もね」
リュネが指を折って日程を数え始める。ドランは「昼の仕込みは抜けられん」と言いながら、夜なら一時間取れると答えた。
***
パン屋を離れたあと、ドランは橋の手前で足を止めた。向こう岸は夕方の光を浴び、十年前の風も鐘の音もここにはない。
「署名、残るんだよね」
「ああ。酒場の客に読まれるかもしれん」
「怖くないの?」
「怖いさ。だが、あそこに名前を書いてよかった」
ドランは対岸を見たまま続けた。
「あの返事が本物だったのか、まだ分からん。だが、もし誰かが返してくれたのなら、今度こそ確かめたい」
カイの鞄には帳面の写しが入っている。
オルヴィアは橋の下を流れる水に耳を澄ませた。
「ねえ、カイ」
「どうした?」
「もし、あの八小節が助けを求める音だったとしたら……」
風が橋の下を抜けていく。
「……私は誰の声を歌っていたのかしら」




