第4話 四拍目の男
「……今の、もう一度お願いできますか?」
オルヴィアの声に、酒場の主人は眉をひそめた。
「何だ。こんなもんが気に入ったのか」
「ええ。少し、気になって」
「変わったお嬢さんだな」
男は木の棒で戸口を四度叩いた。
こん、こん、こん。
ほんの少し間が空いて、最後の一打。
カイにも違いは分かった。だが、そのわずかな間に何があるというのだろう。オルヴィアは真剣な顔で聞いていた。
「昔、似たような音を聞いたことがあるの」
「どこでだ?」
「……うまく思い出せないわ」
男はしばらく彼女を見ていたが、それ以上は尋ねなかった。棒を木箱に戻すと、カイの方へ向き直る。
「で、勇者。明日もあそこで騒ぐつもりか」
「騒ぐって。演奏だよ、演奏」
「それなら、なおさら何とかしろ。さっきは歌が三回も置いていかれていたぞ」
「三回も?」
「五回よ」とオルヴィア。
「……数えてたのか」
「暇だったもの」
またそのやり取りか、とカイは思った。
男が鼻を鳴らした。
「そういうところだ。自分が弾くので精いっぱいなんだろ」
「ぐっ」
「悔しかったら、少しは人の音を聞け」
正論だった。初対面の相手に言われると、なおさら腹が立つ。
それでもカイは、ドランの木箱が気になっていた。
「なあ、おっさん。あんた、叩けるのか?」
「おっさんじゃない。ドランだ」
「俺はカイ」
「知ってる。自分で勇者だと叫んでただろうが」
「それは忘れてくれ」
「無理だな」
ドランは背を向けて酒場へ戻ろうとした。
「待ってくれ、ドラン!」
「今度は何だ」
「ちょっとだけ、俺たちと合わせてみてくれないか」
ドランの足が止まった。
「断る」
早かった。
「まだ何も説明してないぞ」
「説明なら今ので十分だ」
「俺たち、ドラムを叩いてくれる人を探してるんだ。さっきのあれ、結構よかったし」
「あれを聞いてよかったとは、お前の耳も大したことないな」
「いや、そこまで言わなくても!」
ドランは笑わなかった。
「俺はもう、人前じゃ叩かん」
そう言って扉に手をかけたとき、店の中から声が飛んできた。
「親父! 昼の皿、片づけなくていいのか!」
「今行く!」
ドランは振り返りもせず中へ入った。
カイは閉まった扉を眺めた。
「……あれ、脈なしかな」
「かなりね」
「でも、あの人、最後に笑いそうだったぞ」
「笑っていなかったわよ」
「怖い顔してたけどさ。叩いてるときは、ちょっと楽しそうだった」
オルヴィアは扉に目をやった。
「そうかしら」
「そうだって。よし、入ろう」
「どうして?」
「腹減った」
「……あなた、誘うのを諦めたの?」
「誘うのと飯を食うのは別だろ」
そう言ってカイが扉を開けると、奥から焼いた肉と香草の匂いが流れてきた。
店は思ったより賑わっていた。昼の仕事を終えた石工たちが長椅子で肩を並べ、カウンターでは年配の女が小皿の豆をつまんでいる。壁には古い盾や壊れた角笛が飾ってあったが、武器屋とは違って、ずっと居心地がよさそうだった。
カイは空いている席に腰を下ろした。
「肉とパンを二人分!」
「私の分まで勝手に頼まないで」
「食わないのか?」
「食べるけれど」
「じゃあいいじゃないか」
「そういう話じゃないのよ」
ドランが大きな皿を二つ運んできた。
「昼はそれしかない。文句を言うなら帰れ」
「まだ言ってないって」
「顔に書いてあった」
「みんなして俺の顔ばっか読むなあ」
皿の上には、分厚い肉の煮込みと焼きたてのパンが載っていた。
カイはひと口食べて、目を見開いた。
「うまっ」
「うるさい」
「いや、これ本当にうまいぞ。ドランが作ったのか?」
「そうだ」
「すげえな。料理の方がドラムより得意なんじゃないか?」
「俺のドラムを聞いてもいないくせに、よく言う」
カイはパンをちぎる手を止めた。
「じゃあ聞かせてくれよ」
ドランは黙ってカイの皿を見た。
「冷めるぞ」
そう言い残して厨房へ戻っていった。
オルヴィアが小さく笑う。
「あなた、本当に懲りないのね」
「だって、ちょっと気になるだろ」
「私は料理の方が気になるわ」
「それは俺も」
二人はしばらく夢中で食べた。
カイが二枚目のパンに手を伸ばしたころ、店の奥で皿の割れる音がした。
「あっ!」
若い給仕が、床に散らばった破片を見つめて青ざめている。客たちも振り返った。
「ご、ごめんなさい。手が滑って……」
ドランは厨房から出てくると、割れた皿を見下ろした。
「足を動かすな。踏むぞ」
給仕が固まる。
「ほうきを取ってこい。あとは俺が拾う」
「でも、今日これで二枚目で……」
「一枚目は俺が落とした。これで引き分けだ」
近くの客が吹き出した。
「親父、それ昨日の話だろ」
「細かいことは気にするな」
給仕の顔がようやく緩んだ。ドランは大きな手で破片を集め、手慣れた様子で床を片づけ始めた。
カイはその様子を見ながら、残ったパンを口へ放り込んだ。
「……いいやつだな」
「ええ」
オルヴィアは肉を小さく切り分けている。
「少し怖いけれど」
「そこも含めて」
「あなた、そういう人が好きなのね」
「何となく、俺と気が合いそうだ」
「似ているところ、あるかしら」
「あるだろ。あの人も人の話を聞かない」
「……自覚はあったのね」
カイは聞こえなかったふりをした。
昼の客が一人、また一人と帰っていく。片づけを終えたドランはカウンターへ戻り、布でグラスを磨き始めた。
カイは席を立った。
「ごちそうさん。あのさ、ドラン」
「まだ何かあるのか」
「一つだけ聞いていいか」
「一つならな」
「どうして人前で叩かなくなったんだ?」
グラスを磨く手が止まった。
ドランは少し間を置いてから答えた。
「戦争が終わったからだ」
「……それ、理由になってるか?」
「俺にはな」
カイは何か言いかけて、口をつぐんだ。
十年前の戦争では、誰もが何かを失った。それは知っている。自分に話したくないことがあるように、この男にもあるのだろう。
「そっか」
「それだけか?」
「ああ。聞けてよかった」
カイは椅子に置いたギターを抱え直した。
「じゃあ、外で練習するわ。また飯食いに来るよ」
「拍子だけは直してこい」
「へいへい」
扉へ向かいかけたとき、ドランが続けた。
「おい。さっきの娘はどうした」
「娘?」
「耳の長いやつだ。あれはどうした」
「ああ、リュネか。明日また来るかもって」
「そうか」
「知り合い?」
「前にもこの辺で弾いていた。別の連中と一緒にな」
カイは足を止めた。
「前のバンドのことか?」
「……あいつから何か聞いたのか」
「自分の音が大きすぎたって」
ドランは鼻で笑った。
「で、お前はどう思った」
「どうって。俺は好きだったけどな」
「じゃあ、本人にそう言ってやれ」
「もう言った」
「なら十分だ」
ドランはまたグラスを磨き始めた。
この男は、何を知っているんだろう。
カイは気になったが、約束した質問は一つだけだった。今日はこれ以上聞かないことにした。
***
夕方、噴水の周りが静かになるころ、カイはようやく自分の悪い癖に気づき始めていた。
オルヴィアが歌い出すと、つい手に力が入る。そのたびにテンポが速くなり、彼女の歌を置いていってしまう。
「また走った」
「分かってる」
「今日は何回目かしら」
「数えるのは勘弁してくれ」
オルヴィアは笑い、ふと酒場の戸口に目を向けた。
「あの人が言っていたこと、間違っていなかったわね」
「悔しいけどな」
「じゃあ、どうするの?」
「もう一回やる」
カイはギターを構えた。
オルヴィアが歌い始める。
今度は自分の指先ばかり追わず、隣の歌声に耳を傾けた。いつもなら急いでしまうところでも、落ち着いて弾けた。
思わずオルヴィアを見る。
「……今の、よかったんじゃないか?」
「ええ。少しね」
「少しかあ」
「すぐ調子に乗るから、これくらいにしておくわ」
「厳しいな!」
二人で笑ったとき、背後から声がした。
「おい。調子に乗るのは、全部合わせてからにしろ」
振り返ると、ドランが立っていた。
昼の木箱ではなく、古い革袋を肩に担いでいる。
「……何だ、それ」
「叩くものだ」
「そりゃ分かるけど」
ドランは噴水の縁に袋を置き、中から小さな太鼓と、使い込まれた二本のスティックを取り出した。
「店の片づけが早く終わった」
「で?」
「少し暇になった」
「で?」
「……いちいち聞くな!」
ドランは太鼓を膝の前へ据えた。
「お前らがあんまり下手だから、聞いていられなくなっただけだ」
「ほんとかあ?」
「帰るぞ」
「待った! 待った、叩いてくれ!」
カイが慌てて頼むと、ドランはやっと満足そうに鼻を鳴らした。
「最初に言っておく。俺はバンドなんぞ入らん。客の前で演奏するつもりもない」
ドランは人通りの途絶えた噴水の周囲を見渡した。
「今日みたいな練習なら、一曲だけだ」
「分かった。一曲だけ、な」
「一曲だ」
「なら、今日は『夜明けの向こうへ』を――」
「待って」
オルヴィアが遮った。
「まずは、さっき広場で弾いていた明るい方の曲にしない?」
「何で?」
「あなた、続きをまだ覚えきれていないでしょう。それに、ドランさんも初めてなんだから」
「……ごもっとも」
ドランが低く笑った。
「お嬢さんの方が、ずいぶんまともだな」
「でしょう?」
「くそ、敵が増えた!」
カイが弦を鳴らした。
ドランはすぐには叩かず、しばらく二人の演奏を聞いていた。やがて軽く太鼓を鳴らすと、カイのギターがふっと落ち着いた。
さっきまで何度も先走ったところでも、今度はオルヴィアの歌とぴたりと合っていた。
気づけば、一曲が終わっていた。
「……何だよ、これ」
カイは太鼓を見た。
「ドラン、あんた、めちゃくちゃ上手いじゃねえか!」
「今さらか」
「いや、だって、一回しか合わせてないのに」
「お前らが何度も同じところでつまずくから、覚えちまった」
「聞いてたのかよ!」
「嫌でもな」
オルヴィアが笑い出した。
「本当に、似ているところがあるわね」
「どこがだよ」
「二人とも、素直じゃないところ」
ドランは反論せず、もう一度太鼓を軽く叩いた。
「これで終わりだ」
ドランは太鼓から手を離した。
「えー、もう?」とカイ。
「一曲だけと言っただろう」
「……そうだったな。ありがとよ」
ドランは太鼓を袋に戻し始めた。その横で、オルヴィアがカイのギターを見た。
「ねえ。最後に、あの曲も練習しておかない?」
「ああ。俺、まだ続きを弾けないけどな」
「知ってるわ」
「即答かよ」
カイが最初の音を鳴らした。二人だけの『夜明けの向こうへ』。
ドランは袋の口を結ぶ手を止め、黙って聞いていた。
カイのギターが止まり、オルヴィアの声がその先を歌い継ぐ。
短い音が二つ。
そして、あの不思議な間。
革袋の留め具がかちゃりと鳴った。
オルヴィアは気づかず、最後まで歌いきった。カイは拍手をしようとしたが、ドランの表情を見て手を下ろした。
昼間は怖そうなだけだった顔が、今は別人のように険しかった。
「……ドラン?」
男は答えない。
やがて握っていた袋を地面に置き、オルヴィアを見た。
「お嬢さん」
「はい?」
「その歌の、最後のところだ」
ドランは言葉を探すように、口を閉じた。
「……誰に教わった?」
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