第3話 気まぐれな低音がやってきた
「カイ。さっきから同じところで間違えているわよ」
「分かってる。分かってるから、もう一回頼む」
「これで六回目」
「数えてたのかよ」
「暇だったもの」
城下町の古い噴水の周りは、昼になると近所の人たちで賑わう。
水を汲みに来た母親が子どもの手を引いて通り過ぎ、向かいのパン屋からは焼きたての匂いが漂っていた。噴水の縁に腰かけた老人たちは、見慣れない楽器を抱えるカイをちらちら眺めている。
そんな中、カイは七度目の失敗をした。
「……ああ、くそっ!」
「七回」
「だから数えるなって!」
オルヴィアは涼しい顔で笑った。
約束どおり、オルヴィアは昼前に噴水へやってきた。昨日と同じ黒い服だが、今日は銀髪を後ろで束ねている。小さな角は髪に隠れていた。
カイは朝からこの場所で待っていた。遅刻するなと言われたので張り切って早起きしたのだが、肝心の曲の続きは覚えきれないままだった。
「最初の四小節は弾けるんだよ」
「そのあとで迷うのね」
「分かるか?」
「顔に出ているわ」
「そんなに?」
「迷子になった犬みたい」
「せめて狼にしてくれ。元勇者だぞ」
「狼はそんなに困った顔をしないと思うけれど」
言い返そうとしたところで、噴水の向こうから小さな拍手が聞こえた。
「今の、もう一回やって!」
振り向くと、パン屋の前に一人の少女が立っていた。
金色がかった薄茶の髪は短く、尖った耳がはっきり見えている。背中には細長い布袋を背負っていた。エルフの少女だ。
「何だ、聴いてたのか?」
「うん! さっきからずっと。お兄さん、面白い弾き方するね」
「おっ、分かるか?」
「うん。歌が始まると急に慌てる」
「そっちか!」
少女は声を立てて笑った。
オルヴィアも口元を手で隠している。今の演奏を褒めてもらうのは、どうやら諦めた方がよさそうだった。
「でも、曲は好きだな。何ていうの?」
「『夜明けの向こうへ』」
「へえ。いい名前」
少女は噴水の縁に荷物を下ろすと、布袋の口を開き始めた。
「ねえ、そこ、私も入っていい?」
「どこに?」
「曲に」
袋から現れたのは、長い棹のついた四弦の楽器だった。
古びた木の胴には何度も磨いた跡があり、弦の下に小さな魔石が埋まっている。カイのギターに比べると飾り気はないが、よく手入れされていた。
「……それ、ベースか?」
「そう呼ぶ人もいるね。私のは低音弦琴って名前だけど」
「マジで?」
カイは思わず立ち上がった。
この世界でも低音を出す弦楽器は見たことがある。ただ、こんな形の楽器は初めてだった。
「おい、ちょっと鳴らしてみてくれよ!」
「いいよ。じゃあ、そっちも弾いて」
「曲、知らないだろ?」
「さっき六回も聴いたから平気」
「七回よ」
オルヴィアが訂正した。
「七回だって」
「二人して数えるな!」
少女は笑いながら楽器を肩にかけた。
「私はリュネ。で、お兄さんは?」
「カイ」
「そっちのお姉さんは?」
「オルヴィアよ」
「よろしく、二人とも。じゃ、カイ。最初から!」
ずいぶん勝手な子だ。
けれど、カイは嫌いではなかった。
弦を鳴らすと、リュネがすぐに低い音を重ねてきた。
たったそれだけで曲の雰囲気が変わった。
カイのギターが前へ進む。リュネの音はその下で楽しそうに跳ね、時々こちらの足元をくすぐるように顔を出す。オルヴィアが歌い始めると、リュネは一瞬だけ彼女を見て、すぐに笑った。
カイもつられて笑った。
さっきまで何度も引っかかっていた最後の八小節が、今は気にならなかった。今は、それより先に弾きたい音が次々に浮かんできた。
噴水のそばで遊んでいた子どもたちが集まってくる。
パン屋の主人が扉を開け、粉のついた手をエプロンで拭きながら顔を出した。
一曲目の途中で、オルヴィアが歌うのをやめた。
カイが目をやると、オルヴィアは口元に指を当てて笑っていた。
そのままギターを弾き続ける。
歌がなくなると、リュネの音が少し前へ出てきた。カイが高い音を鳴らすと、低い音が返ってくる。二人でふざけているような演奏に、子どもたちが手を叩き始めた。
そして、カイが最後の音を大きく鳴らした瞬間。
リュネがぴたりと手を止めた。
音が消える。
一拍遅れて、広場に拍手が広がった。
「おお……!」
カイは目を輝かせた。
「なあ、今のすげえよかったな!」
「でしょ?」
リュネは得意げに笑った。
「最後、カイが気持ちよさそうだったからさ。邪魔しない方がいいかなって」
「そうだったのか。俺、てっきり弦が切れたのかと」
「ひどくない?」
「ごめんごめん。でも、楽しかった!」
「私も!」
二人が笑い合う横で、オルヴィアが少し考え込んでいた。
「どうした?」
「最後のところ」
「おう」
「リュネはまだ弾きたかったんじゃない?」
リュネの笑顔がわずかに止まった。
「……どうして?」
「さっき、指が動いていたから」
カイもリュネの手元を見た。
リュネはすぐに肩をすくめた。
「癖だよ。もう一つ音を入れようかなって思ったけど、やめたの。カイの最後の音、格好よかったし」
「そうか?」
「そうそう」
彼女は明るく答え、楽器を布袋へ戻そうとした。
カイは慌てて声をかけた。
「なあ。じゃあ次は、やめなかった方も聴かせてくれよ」
「え?」
「今、何を弾こうとしたのか気になる」
リュネは黙った。
「いや、気に入らなきゃ言うけどさ。そもそも俺、お前が何を弾きたかったのか分かってないし」
「……本当に?」
「おう」
「後悔しても知らないよ?」
「何だよ、そんなにすごいのか?」
「うん。かなり」
リュネはにっと笑い、布袋に戻しかけた楽器を構え直した。
「じゃあ、もう一曲!」
今度はリュネが先に弾き始めた。
速い。
カイは慌てて追いかける。思いもよらないところで音が跳ね、何度も弾き方を変えさせられた。それが悔しいのに、面白くて仕方がない。
「ちょっと、二人とも!」
オルヴィアが声を張る。
「歌うところがないんだけど!」
「あっ」
「忘れてた!」
二人同時に答えると、オルヴィアが吹き出した。
カイは慌てて指を止めた。
「悪い。もう一回、今度は三人でやろう」
「最初からそうしてちょうだい」
リュネも笑いながらうなずいた。
仕切り直した三人の演奏は、少しばかりひどかった。
カイは何度も先走り、リュネはそのたびに面白がって音を変え、オルヴィアは二人に負けじと声を張った。
それでも、終わるころには広場に人だかりができていた。
曲が終わると、パン屋の主人が紙袋を三つ持ってきた。
「売り物にならない端っこのパンだけど、よかったら食べてくれ」
「えっ、いいの?」
リュネが真っ先に受け取った。
「ありがとう、おじさん!」
「おじさんは余計だ」
「じゃあ、お兄さん!」
「もう遅い」
また笑い声が上がる。
カイはパンをかじりながら、まだ片付けようとしないリュネを眺めた。
「あのさ、リュネ」
「ん?」
「今、バンド組んでるのか?」
「……今は組んでないよ」
「ならさ、俺たちと一緒にやらないか?」
オルヴィアがこちらを見た。
「ちょっと、カイ」
「何だよ。いいだろ?」
「私はまだ一回だけの約束よ」
「分かってるよ。そこも含めて、これから話そうってこと!」
リュネは二人を交互に見たあと、口元を緩めた。
「面白そう。でも、ひとつ言っておくね」
「おう」
「私、前のバンドとは喧嘩別れしてるんだ」
「別に珍しくないだろ」
「そうかな?」
「俺も昔やった」
「へえ。勇者のお兄さんが?」
そこでカイは固まった。
「……あれ、俺が勇者だって言ったっけ?」
「町中に貼ってあるよ。『勇者カイ、魔王城で初演奏!』って。昨日の告知、見たもん」
「じゃあ、なんで昨日は来なかったんだ!」
「魔王城、遠いし」
「ぐうの音も出ねえ!」
リュネはパンを口いっぱいに頬張って笑った。
「それに、私がやめたのは、私の音が大きすぎるって怒られたから。みんなの邪魔になるんだって」
「さっきの感じだと、別にそんなことなかったけどな」
「……そう?」
「俺は好きだったよ。お前のベース」
何でもないように言うと、リュネは少し困ったような顔をした。
「そういうの、簡単に言わない方がいいよ」
「何で?」
「本気にしちゃうから」
カイが返事を考えているうちに、リュネはまた明るく笑った。
「ま、考えとく! 明日もここでやるの?」
「そのつもりだけど」
「じゃあ、来るかも!」
リュネは楽器を背負い、勢いよく走り出した。
「おーい、まだパンが――」
「持ってる!」
本当に紙袋を掲げて見せ、そのまま角を曲がって消えていった。
「……嵐みたいな子ね」
オルヴィアがぽつりと言った。
「いいだろ。ああいうの」
「嫌いではないわ。ただ、あなたも少しは人の話を聞いたら?」
「聞いてるって」
「じゃあ、私がまだ正式に加入していない話は?」
「ちゃんと聞いた。明日も来てくれるって意味だよな?」
「どうしてそうなるのよ!」
カイは笑いながらギターを布で包んだ。
昨日まで、この楽器を片付けるときはいつも一人だった。今日はオルヴィアが隣にいて、ついさっきまでリュネの笑い声が響いていた。
それだけで明日の練習が待ち遠しい。
「ところで、カイ」
「ん?」
「さっきの子、あの楽器をどこで作ってもらったのかしら」
「確かにな。見たことない形だった」
「それだけじゃないの。古いのに、よく音が出ていたでしょう」
「……ああ」
カイも思い出した。あれほど小さな魔石で、どうやってあんな低い音を響かせていたのだろう。
そのとき、向かいの酒場の扉が開いた。
「おい、勇者」
腹に響くような低い声だった。
振り向くと、がっしりした体つきのドワーフが立っている。太い腕を組み、こちらをじろりと睨んでいた。
「昼間からずいぶん賑やかだな」
「すみません。うるさかったですか?」
「うるさいのは構わん。客も増えた」
男は人の引いた噴水の縁を顎で示した。
「ただ、三人とも拍子がばらばらだ。あれじゃ歌う方はたまらんだろう」
オルヴィアが小さくうなずく。
「ほら」
「分かってるよ! 今度ちゃんと――」
「今度じゃない」
ドワーフは腰に下げていた古い木箱を開けた。中には、使い込まれた二本のスティックが収まっている。
彼は一本を取り出すと、店の戸口を軽く叩いた。
こん、こん、こん。
三つ目まで、何でもない音だった。
四つ目だけが、少し遅れた。
オルヴィアが顔を上げる。
男は何も気づかず、もう一度同じように叩いた。
こん、こん、こん。
その次の音が鳴る前に、オルヴィアが口を開いた。
「……今の、もう一度お願いできますか?」
ドワーフの手が止まった。
お読みいただきありがとうございます。
物語を楽しんでいただけたら、ブックマークや評価で応援していただけるとうれしいです!




