第2話 魔王の娘は歌わない
「十年前、避難所であの曲を弾いたあと――あなたは、どこへ行ったの?」
オルヴィアの問いに、カイはすぐには答えられなかった。
あの夜のことなら覚えている。火の手が回った城の廊下も、避難所に集まった人々の顔も。なのに、彼女に尋ねられた時間のことを思い出そうとすると、どうにも順番が曖昧だった。
「避難所を出て、下の階へ向かった。城門の方で人手が足りないって呼ばれてさ」
「城門?」
「ああ。怪我人を運んだり、外へ出た連中を安全な場所まで案内したり。……それがどうかしたか?」
オルヴィアは答えず、舞台の向こうにある大扉を見た。
「東側の通路には行った?」
「東? いや、少なくとも避難所を出てすぐは行ってない。あそこは兵士が押さえてると聞いてたからな」
「そう」
それだけ言って、オルヴィアは口を閉ざした。
表情から何か読み取ろうとしたが、彼女はもういつもの澄ました顔に戻っていた。
「そろそろ帰るわ」
「待て待て待て。バンドは?」
「だから、返事はしていないでしょう」
「じゃあ返事をくれよ。せっかく一緒に演奏できたんだし」
「あなた、さっきからその話ばかりね」
「そりゃ、一番大事な話だからな」
オルヴィアは呆れたように笑ったが、ギターからはなかなか目を離さなかった。
「……あなたは、誰とでもこんなふうに演奏するの?」
「誰とでもってほど、相手がいないんだけどな」
「そういうことを聞いているんじゃないわ」
「分かってるよ」
カイは弦を軽く鳴らした。さっき彼女の歌に合わせて弾いたところが、まだ指に残っている。
「前にも仲間はいた。でも、うまくいかなかった。俺が自分の曲にこだわりすぎたんだと思う」
「ずいぶん素直に認めるのね」
「十年もあれば、それくらいはな」
本当は十年どころの話ではない。日本で別れた仲間の顔は、今も不意に思い出す。けれど、それを初対面の相手に全部話す気にはなれなかった。
「今度は誰かと一緒に作っていきたいんだ。曲も、ライブも」
「……そう」
「で、どうだ?」
「一つ聞いていい?」
「何でもどうぞ」
「さっき、この城でライブをしたいと言っていたけれど、どうしてここを選んだの?」
カイは大広間を見上げた。高い天井。昔は魔王の紋章が飾られていた壁。十年たっても、戦いの傷が残る柱。
「音がいいから」
「それだけ?」
「最初はな。広いし、誰も使ってなかったし。ここで演奏できたら最高だろうなって」
「……そうなのね」
その声が、どこか寂しそうに聞こえた。
カイは慌てて言葉を足した。
「まあ、勝手に入り込んだわけじゃないぞ。城を管理してる人にはちゃんと話を通した。掃除だって三日かけたんだ」
「三日も?」
「何年分の埃だと思ってるんだよ。椅子だって自分で並べたんだからな」
「三百脚を?」
「おう」
「……それでお客は一人?」
「そこはもういいだろ!」
オルヴィアが笑うと、銀色の髪が肩にこぼれた。
カイもつられて笑いかけ、ふと気づいた。彼女はこの城で育ったのだ。自分にとっては戦場の跡でも、オルヴィアにとっては家族と暮らした場所だった。
「なあ。嫌だったか?」
「何が?」
「俺がここで勝手に騒いでるの」
オルヴィアはすぐには答えなかった。
「……少し」
「そっか」
「でも、歌ってみたら、思っていたほど嫌ではなかったわ」
それを聞いて、カイは少し安心した。
「ならよかった」
「まだ全部許したわけじゃないけれど」
「厳しいなあ」
「この城には、まだ戻ってきていない人たちがいるの。あなたには空っぽの城でも、私にはそうじゃない」
カイは返す言葉が見つからなかった。
オルヴィアは窓の外へ目を向ける。傾きかけた陽が、石畳を赤く染めていた。
「歌うのが嫌いなわけじゃない。ただ、ここで大勢の人に聴かせるとなれば、話は別よ」
「じゃあ、別の場所ならどうだ?」
「え?」
「城下町とか。もっと人が歩いてる場所。どうせ椅子を三百脚並べたところで、一人しか来ないんだし」
「自分で言うのね」
「悔しいけど、事実だからな」
オルヴィアはしばらく考え込んだ。
その間にカイは舞台へ戻り、楽器を布で包んだ。まだ一緒に歌ってくれそうなら、今すぐにでも練習を始めたい。だが、ここで急かして断られたら、もうあの歌声を聴けないかもしれない。
「……一度だけなら」
「ん?」
「一度だけ、一緒に歌ってもいいわ」
カイは振り返った。
「本当か?」
「ただし、条件があるの」
「言ってみろ!」
「一つ。魔王の娘だということを、客寄せに使わないで」
「もちろん」
「二つ。曲を勝手に決めないこと。私にも選ばせて」
「おう」
「三つ。人前で私がやめると言ったら、そのときはやめる。理由は聞かないで」
カイはすぐには返事をしなかった。
「分かった。けど、途中でいきなり歌うのをやめられたら、俺はたぶん困るぞ」
「困らせたいわけじゃないの」
「うん。だからさ、本番の前に一緒に練習しよう。嫌なことがあったら、そのときに話してくれればいい」
オルヴィアは目を瞬いた。
「……私の条件、聞いていた?」
「聞いてたよ。本番でやめたくなったらやめていい。ただ、そうならないように俺も頑張りたいってこと」
彼女は何か言い返そうとして、やめた。
「本当に、変な人ね」
「今日それ何回目だ?」
「数えていないわ」
カイは手を差し出した。
「じゃあ、一回だけ。試しに組んでみようぜ」
オルヴィアは今度こそ、その手を取った。
指先はひんやりしていた。強く握るでもなく、すぐに離すでもなく、二人は少しだけ握手を続けた。
「約束よ、カイ」
「ああ」
握手を終えたところで、カイは尋ねた。
「ところで、歌いたい曲って何かあるのか?」
「あるわ」
「お、早いな」
「『夜明けの向こうへ』」
「……やっぱり、それか」
「嫌?」
「とんでもない。むしろ大歓迎だ」
「なら、最後まで弾けるようになってね」
「うっ。そこが一番難しいんだよな」
「今、少し弾いてみて」
「今?」
「練習するんでしょう?」
カイは包んだばかりのギターを取り出した。いきなり試されるとは思わなかったが、断る理由もない。あの八小節を思い浮かべ、音を探りながら弾き始める。
すぐにオルヴィアが首を横に振った。
「違うわ」
「まだ三つしか弾いてないぞ」
「三つ目で急いだでしょう。私の歌が入る前に、あなたが先へ行ってしまう」
カイは弦を押さえたまま彼女を見た。自分の曲なのに、先へ進むなと言われるとは。
「……もう一回、いいか」
今度は彼女が息を吸うまで待った。オルヴィアの声が重なり、先ほどよりも長く音が残る。けれど、次の旋律へ移るところで指が迷い、弦が嫌な音を立てた。
「やっぱり駄目だ」
「さっきよりはよかったわ」
「厳しい先生だな」
「勝手に先生にしないで」
「じゃあ、何て呼べば?」
「明日、最後まで弾けたら教えるわ」
「明日までに全部?」
「まずは三つ目からね」
カイがもう一度指を置くと、彼女は小さく手を上げた。カイは音を出しかけて止める。オルヴィアがその手を下ろしてから鳴らした一音だけは、不思議なくらいきれいに重なった。
オルヴィアは楽譜も見ずに弾くカイの手元を見つめ、それから小さく言った。
「でも、今みたいに待ってくれるなら……もう一度、歌えると思う」
カイは弦から手を離した。明日が楽しみだ、と言えば軽すぎる気がして、代わりにギターを丁寧に布で包み直した。
二人で大広間を出るころには、夕暮れが迫っていた。
城下町へ向かう坂道は長い。崩れた城壁には草が生え、道端では屋台を片付ける人の声が聞こえる。十年前なら、こんな時間にのんびり歩くことなど考えられなかった。
オルヴィアは城門の前で立ち止まった。
「私、ここで」
「町には行かないのか?」
「行くけれど、少し遠回りするから」
「そっか。じゃあ、次の練習は――」
「明日の昼。城下の古い噴水の前でどう?」
「いいね。俺、昼からなら空いてる」
「遅刻しないでね」
「そこは勇者を信用しろよ」
「ギターのこととなると、あまり信用できないわ」
彼女はそう言って背を向け、細い坂道を下りていった。
カイはしばらくその背中を見送り、気づけば鼻歌を歌っていた。もちろん『夜明けの向こうへ』だ。最後のところはまだ曖昧で、途中から口笛になってしまったが、それすら楽しかった。
明日は、ちゃんと覚えておこう。
そう思いながら楽器を担ぎ直したとき、城門の方から声がした。
「おい、勇者さん。まだいたのか」
門番代わりに城を管理している老人だった。カイが広間を借りるとき、何度も鍵の場所を教えてくれた人だ。
「ああ、今帰るところ。鍵、返しておくよ」
「それより、今の娘は誰だ?」
「明日、一緒に演奏する相手」
「名前は?」
「オルヴィア」
老人の手が止まった。
「……そうか」
「知ってるのか?」
「昔、この城にいた娘だよ。小さいころは、よく弟を連れて歩いていた」
カイは坂道の先を見た。オルヴィアの姿はもう見えない。
「弟がいるのか」
「いた、だな」
老人は鍵束を握り直し、閉まりかけた門を見上げた。
「十年前の夜から、帰ってきとらん」
「……あの夜に?」
「ああ。年の離れた姉さんの手を、いつも離さん子だった。城が騒がしくなったときも、二人でいたはずなんだがな」
カイは避難所で聞いた幼い泣き声を思い出した。けれど、あの場にいた子どもの顔を、一人ずつ覚えているわけではない。
「その子は、東の通路へ行ったのか?」
老人は首を振った。
「分からん。あそこを通ったと話す者もおれば、通っていないと言う者もいる。十年も経てば、誰の話が本当だったのかも……」
先ほどオルヴィアが尋ねた、東側の通路。
カイは坂道へ目を向けた。もう、彼女の姿は見えない。
明日は古い噴水で一緒に演奏する。その約束が急に違う重みを持った。
自分が知らない八小節を歌った彼女はあの夜、いったい何を探していたのだろう。
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