憤怒
夜のオフィス。その周りはすでに電気が落ち、誰もいない。
壁の時計は11を過ぎていた。
残っているのは俺と――上司ひとり。
「おい、まだ終わってねぇのかよ。」
後ろから飛んできた書類が頬を打った。
疲れ切った目で振り返る。
ネクタイを緩め、缶コーヒーを啜るその顔には、下卑た笑いが張り付いている。
「お前が終わらねーと、俺も帰れねーんだよ。分かってんのか!」
苛立たし気な声が、頭の中でずっと反響する。
脳の奥で何かが軋む音がした。
――なぜ、俺ばかり。
こいつのせいで。ストレスが――。
こいつのせいで。Esに手を―――。
こいつのせいで。こいつのせいで。こいつのせいで。
こいつのせいで。心が、壊れちまった―――――。
こいつのせいで。こいつのせいで。こいつのせいで。
こいつのせいで。こいつのせいで。こいつのせいで――――――――――
我に返ったとき、手は血に濡れていた。
床に散らばった書類の上で、上司は動かない。
顔の形が、もうわからないほど腫れ上がっていた。
呼吸が荒い。
心臓が破裂しそうだ。
だが、不思議と罪悪感はなかった。
俺は悪くない。当然だ。
悪い奴が死んだ。全然、悪いことじゃない。
代わりに、胸の奥に熱いものが湧き上がる。
それは恐怖でも後悔でもない。
――高揚だった。
その夜、俺は歩き続けた。
何も考えず、街灯の下をふらつく。
手はまだ震えている。
だが、もう何も感じなかった。
コンビニの駐車場で、不良たちがたむろしていた。
バイクのマフラーが喧しく鳴る。
笑い声が、耳に障った。
こいつら何だ。親のすねをかじって、イキがって。
社会のゴミが。偉そうに。
こっちは死ぬ思いして働いてるのに――。
「何、見てんだよ。オッサン?」
その言葉で、視界が真っ赤に染まった。
気づけば一人の首を掴み、アスファルトに叩きつけていた。
骨が砕ける音。
もう一人が殴りかかってきたが、それも殴り返した。
殴るたびに、何かが壊れていく感触があった。
止まらなかった。
気づけば、全員が地面に転がっていた。
周囲には血の匂いと、湿った夜風だけが残っていた。
胸の鼓動が静まっていく。
その代わりに、身体の奥で何かが蠢いた。
皮膚の下を這うような熱。
視界が、赤く、歪む。
――怒りは、止まらない。
止められない。
止める気も起きない。
内側から膨れ上がり、際限がない。
何かが壊れた気がしたが、怒りの前ではどうでもよかった。
――――
その夜から、彼は人間ではなくなった。
それは、名を奪われ、感情に呑まれた存在――
“憤怒”。
一応言っておくと このエピは時系列的には遡っています
で、ここまでで1章終わりです
2章途中までは書いてあるので、もうちょっと毎日投稿続くと思います




