第一節 逃走と闘争、その果てに
「――はぁ……」
鋼は自分がどこにいるのか理解できなかった。
なんの痛みも異常もなく目覚めたことに安堵したのもつかの間、自分が見知らぬ土地にいるのに気づき、安堵の思いはすぐさま反転した。
雑居ビルが並び立つそこそこ大きな地方都市の風景は影も形もない。鬱蒼と茂った木々。その特徴はテレビで見るジャングルのものとそっくりであった。
「そのくせぜんぜん蒸し暑くないんだよなぁ……」
周りにひとがいないせいか、思わず独り言が漏れる。突然周りの繋がりを断たれた感覚に身を震わせ、空を仰ぎ見る。そしてすぐに後悔した。
空には太陽が四つ有り、雲の切れ間から大地が見えた。
現実的でないその光景は、ここが世界のどこでもない場所である事を物語っていた。
「嘘でしょ……」
いつか自分も、住み慣れた土地を離れて暮らす時が来るだろうとは思っていた。しかし、こんな唐突に、残酷に引き離されるような事があるとは思っていなかった。下手をすれば、意思疎通できる存在がどこにもいないかもしれない。
「っ、!!」
悪い予感に背筋が凍る。慌ててその考えを振り払って、
ガサッ――
思わず背後を振り返る。この物音は、人がいるのか?希望を持ちかけた鋼だったが、野生動物という可能性を思い出し、静かに身構えた。といっても、せいぜい腰を落としていつでも動けるように足に力をいれておくぐらいだが。
果たして数秒後、出てきたのは――
緑色の皮膚を持ち、木でできた粗末な棍棒を持った醜いヒトだった。
見た目こそひどいものだが、会話ができればそれでいいと思った鋼。話しかけようと口を開いた少年に応えたのは、下卑た笑み。
そしてそのヒトは耳障りなわめき声と共に襲いかかってきた。かろうじて棍棒の一撃を避ける。
(まずい……)
鋼は威力がありそうな棍棒と丸腰の自分、そして地の利と相手に有利な状況が揃っていることに気づいて、即座に逃走することを選択する。同時に自分が驚くほど冷静なことに内心で苦笑する。一度読み込んだ猛獣に対する対処法が書かれた本のせいだろうか。
「おっと」
木の根に引っ掛からないよう慎重に、しかしより速く。それでも相手の方が速い。いずれ追い付かれるだろうが、それまでに反撃の糸口を掴まなければならない。
これが少年の、初めての命のやりとりである。
*
鋼は逃げながら緑のヒトガタについて考えていた。取り敢えず、あの生物を自分が異世界にいるという前提で考えるなら魔物とかモンスターなどといわれる存在だろうとあたりをつける。特徴から言うと、『ゴブリン』と一般的にいわれるものか。
しかし、背が高い。鋼より少し高く、恐らく二メートルぐらい、ならばあれは『ホブゴブリン』というべきか。意外とのんきな思考に鋼は自分自身に呆れていた。たしかに体力に多少の自信はあるが、早くに両親を喪った鋼は、あまり田舎に行くなどの経験はなく、悪路の全力疾走は未知の体験だ。
もちろん鋼は知らないが、少なくともこの世界の一般人なら死を覚悟する事態に陥っていることは間違いない。
そうとも知らず、ギリギリの逃走を続ける鋼は振るわれる棍棒を転がるように避け、そのまま避けた方向に走り出す。木の根か石でもあったのか、肩が痛むがこらえてその先へ。
再びごぅ、と風を巻き上げる音がする。前に飛び込み、とっさに拾った木の枝や石を牽制に投げつける。うまく顔に当たったが、飛び込んだ際にトゲのある植物があったらしく、頬やむき出しの手足に傷が付く。
いつの間にか靴は脱げ、走る体力も無くなってくる。大木を蹴りつけ、少しでも加速しようとするが、無茶な動きに体や足が悲鳴をあげていた。
鋼が逃げ出してからおよそ二十分、業を煮やしたホブゴブリンはついに自身の奥の手を使う。
走る勢いはそのままに、なにやら言葉のようなものをつむぎだした。
「――っ、!?」
【我が敵を焼く火炎を】
いや、鋼にはそのものズバリ、言葉に聞こえた。同時に咄嗟の判断で右側に飛び込んだ。
―――なにもない場所から生まれた炎が数瞬前まで鋼がいた場所に飛んできた。
突然の事態に呆然とする。違和を感じさせる炎は急速にこの世から排除され、役目を果たすことなく消え去った。
同時に異物のようなその力のもとが自身の中から急速に沸き上がる。
「どうなってるんだよ!?」
もはや錯乱状態に近い鋼は、感覚を頼りに力を引き出そうとする。うまくいかない。振るわれる棍棒を避けるその動作の度に、煙でもつかもうとするかのように霧散する。たった二十分、その間に追い付かれ、振るわれる棍棒を避けた回数は百に届こうかというほど。自身も気付かないまま蓄積された度重なる死の恐怖に鋼が精神的に追い詰められていたことも要因といえるだろう。
【我が敵を焼く火炎を】
「っ、また!?」
例の炎が鋼を襲う。しかし、
「――っ、あ」
頭に流れこむ知識。力――魔力、その使い方、条件。考えるよりも先に体が動く。ホブゴブリンに向き直り、右手を敵に向ける。扱ったことのない力は心臓付近から、そうすることが正解だと言わんばかりに容易く動き、そのままホブゴブリンの魔法に干渉するとその文の一部を書き換える。
「これ、で!」
【我を焼く火炎を】
顕れた炎は術者に向かって飛んで行き、そのままホブゴブリンを焼き始めた。全く想像していなかった自身の攻撃によるダメージにギャアギャアとダミ声で悲鳴を上げながらその緑色の肌を徐々に黒く染めていくホブゴブリン。辺りには肉が焦げる嫌な臭いが立ち込め、思わず鋼は嘔吐した。
「グッ、ゲェ……はぁ、はぁ……」
人型の生物を殺すというプレッシャー、さらに倒す手段が炎であったことが鋼の心を完全に折っていた。最近は思い出すこともなかった、灼熱の記憶。
「なんで……」
*
―――赤い、紅い。目の前の光景は朱に染まっていた。瓦礫に埋もれ、誰かのうめき声が聞こえる。暑い。いや、熱い。熱い、熱い熱い熱い……
*
疲労を少しでも回復させるべく、鋼は忌々しい焦げたにおいのもとから離れて座り込んでいた。そうして休憩するうちに、眠り込んでいたらしい。涙の跡を拭い再び立ち上がると、あてもなく歩きだした。ただし、立ち直ったわけではなかった。
――グゥ
「うぅ、腹が…」
突然始まった逃走劇は時間にすると最初に鋼が茫然としていた時間よりも短い。しかしその事実以上に腹が減っている。先ほど座り込んでいた間にその事に気づいた鋼は魔力を使ったせいだと直感した。あくまで勘だがそう思うことにした。
(喉も渇いたな……水の方が先か)
せめて川のせせらぎでも聞こえないかと耳をすませた。何も聞こえない。
(ここはもとの世界のジャングルより危険だし、どうすればここから出られるんだ)
サバイバルの知識はない、自分の魔法はよくわからない。と考え、
「あれ……?」
あまりに自然に魔法を手段に加えていたことに気づき、そして全く不自然に思わない自分に驚いた。
(もう考えても一緒か)
魔法といえば、いったい何ができるのだろう。そう思って意識的に記憶を漁ってみる。
「再構成……?」
中二病という単語が脳内にちらつくが、かまわずさらに知識を引き出す。
その能力は情報領域に干渉することで物理領域において発生する現象を組み換えることができるらしい。
(何の事やら……)
そして謎の知識もそこから先はわからないようだ。できることは先ほどのホブゴブリンにしたように対魔法用のカウンター手段として戦闘に組み込むことだけだ。わからない専門用語が多すぎる。
「いや、違うな……」
自分の魔法のことしかわからないようになっているのか。そう考えると辻褄が合う。ついでに、役に立たないことも発覚したが。
「とにかく移動しよう」
普通なら救助を待つのが正解だとわかっているが、この状況を考えるとまず救助はないだろう。そもそも、日本どころか、地球の技術力で異世界と思われる場所にまで行方不明者を探すことはできないだろう。
(愛理……!)
ここに来る直前の声は、愛理――一週間前から探していた行方不明の幼なじみのものだった。あの声は自分にしか聞こえない。つまり、何らかの意味があったに違いない。彼女がここに喚んだという確証はないが調べる価値はあるだろう。
(絶対探しだして今までどこにいたか聞いて、何とかして地球に戻る!!)
荒川鋼、十六才。決意を新たにすると共に、
――グルル……
「……」
再び死にかけていた。
*
今度の相手は、金色の毛並みを持つ狼だ。走力に差があり、逃げ切れるはずもないのだが、この逃走劇が成立しているのはこの狼が手負いで、しかも一匹だけだからだ。地球の知識と照らし合わせても不自然ではあるが鋼は自分の幸運に感謝した。遭遇自体が不幸とは、あえて考えない。
「次から次へと……!」
相手は後ろ足を引きずっているが、それでもなお十分な速さを誇り、追い付かれそうになる。だが、金色の狼の習性が鋼の命を救っていた。
【我が敵に下す雷槌を】
「再構成!!」
【我に下す雷槌を】
鋼に向かうはずの雷が金色の狼に向かう。しかし、その身に纏う金色の毛皮は電気を溜め込む性質が有るようで、あまり効いているようには見えない。それどころか、体毛が輝いていかにも強化されたように見える。
この魔物は、先程からある程度追い詰めたら魔法を使うという行動を繰り返している。よって鋼も魔法使用時の違和感のようなものを感じて自分の魔法を使えるのだ。
だがすでに二回、この攻撃法をとっている。少なくとも魔法が通用しない相手であることは理解しているのだろう。事実、金色の狼は攻撃の手を緩め、警戒していた。
ホブゴブリンのときよりも状況は悪い。しかも、狼が手負いなら鋼は疲労困憊だ。
金色の狼は狼特有の身体能力に加え、大型バイクほどはあろうかという巨大な体躯を動かすスタミナもある。対して鋼は休憩したとはいえ、二十分間全力で、しかもジャングルという悪条件の中で走って体力を消耗し、全身ボロボロで生傷だらけ、おまけに空腹だ。二度にわたる魔法行使は、飢餓感を加速させており、図らずも鋼の仮説は証明されることとなった。だからといって歓迎できる事態とはいえないが。
鋼と金色の狼はにらみ合い、戦いは膠着状態となっていた。ホブゴブリンは炎に耐性を持っていなかったために一撃で勝負が決まった。だが、今回は耐性を持ち、帯電している毛皮には素手では触れたくない。そもそも、人が素手で戦える相手は大型犬ぐらいまでという話を聞いたことがある。
(まずいな……あいつの足も少しだけど状態がよくなってる)
驚異的な再生力を見せる狼、すでに走るのに支障が無くなりつつあるようだ。
先ほどの決意もどこへやら、鋼の胸中に諦めの感情が沸き起こっていた。狼が動く、直前。
「待て、こいつ!!」
鉄でできた矢が狼に直撃する。奇妙なことに、矢尻付近から鎖が伸びていて、放電現象が起きていた。
みるみるうちに毛並みから輝きが失せていく。その鎖のもとをたどると、木の枝に引っ掻けるようにしてビンに繋がっていた。電気がビンに集まり、中に入っていた液体の金属のようなものが赤熱する。そこまで見てから鋼は闖入者の顔を見た。
(子ども……?)
高めの声から女性かと思ったが、予想外な光景である。若草色の髪をあちこちに跳ねさせた身長150センチぐらいの子どもが大型バイクと同じサイズの狼を止めている。
しかも、狼が少しでも身じろぎすれば即座に鎖が締まり、その場に縫い止めていた。ビンは地面に置きっぱなし、鎖には全く触れていない。彼――または彼女の魔法と見て間違いないだろう。
金色の狼の毛並みが完全にくすんだところでその人物はビンを拾い上げる。
「魔法の媒介になる電気が無ければ何もできないでしょう?」
言いながら、ひとりでに形を変えた鎖と中身を地面に垂らす。地面から10センチぐらいのところまで落ちると、内包する電気を放電しながら空中にとどまり、そのまま武器――二振りの剣の形をとった。放電が終わるのを待ってから子どもは剣をとる。振り下ろして前傾姿勢をとると、弾丸のごとく駆け出した。応戦する狼の動きは目に見えて鈍っている。
子どもが狼の頭上を軽業師のごとく飛び越えた直後には、血飛沫が舞う。魔物はつんのめるようにして倒れこみ、何度か痙攣してそのまま動かなくなった。巨大な獣の頭が鈍い音と共に着地する。
鋼はおそるおそる子どもに目を向ける。一対の双剣は、自分の仕事だと誇示するかのように血を滴らせている。断頭台のごとく首を跳ね飛ばしたその刃がこちらに向いたら――
悪い予感が胸中に渦巻く。
「やぁ、大丈夫だったかい?」
先ほどの勇ましさからは程遠い、柔らかく、慈愛に満ちた声。それが見る人を和ませる笑みとともに奏でられた。
警戒を解き、非礼を詫びようとする鋼だったが、突如めまいにおそわれる。
あっと思う間もなく、体が傾ぐ。ひっきりなしに感じる空腹と耳朶を打つ慌てた声。それらが鋼の意識から遠ざかっていく。
*
なにもかもを喪ったあの日、後に叔父夫婦に引き取られるまでの間、一時的にある施設に入れられる事になった。
どうやら両親は莫大な遺産を持っていたらしく、十にも満たない息子を持つ若い夫婦だったのに、遺言書を遺していた。又聞きなのでよくわからなかったが大雑把に言うと、息子を引き取った人物に遺産の分配を任せる、としていたという。
それはもう、荒れに荒れたようだ。私がふさわしい、いいや俺だ。彼らが欲しいのはあくまで遺産であり、僕はオマケだった。
ただ、そんなことはどうでもよかった。当時の最新設備とやらを飲み込んだ赤き蹂躙は、ただ一人を生かし、そしてその一人を含め全員を『殺した』。
乾いて罅割れた心を抱え、惰性のまま生きる日々。だからだろうか、ある少女が目に付いたのは。
「――――――――」
自分と同じ、罅割れた銀細工のような少女が、そのときのすべてだった。
*
「――――あぁ、……?」
懐かしく、切ない思いに駆られ、重い瞼をこじ開ける。目尻にたまった雫が、一筋の流れを作る。
寝起きの茫洋とした意識のまま、眼だけを動かして周囲をうかがう。質素だが品のいい内装の部屋で、少なくとも森の中よりは文明的な洋室だ。
サイドテーブルに目をやる。時計の類は見当たらないが、窓から差し込む光からおおよそ昼頃だろうと推測する。
そこまで考えて、完全に頭が覚醒したと考え、体を起こす。気絶前に見た子供がここに連れてきてくれたのだろうか。彼は充分強く、自分という足手まといを守りながらでも戦えるだろう――そう思いながら隣を見て、固まる。
若草色の少女が隣で寝ている。クセが強い髪は横向きでも形がほとんど崩れないらしく、一周回って芸術的な形を作っていた。規則的な寝息をたて、隣を気にせず幸せそうだ。
(いやいや、警戒心無さすぎだろう!男と隣……いや、見た目通り子どもなのか)
慌てたが、思い返せばそれほど騒ぎ立てる要素はないかもしれない。
外見的特徴から言って、この少女が鋼を助けたのだろう。中性的な――見た目が子供ということを差し引いても――顔立ちだが、簡素な寝巻きに包まれた肢体は、わずかではあるが胸を押し上げる物があるようだった。
この見た目でこの身長なら、十二、三才ぐらいか。しかしその寝姿は、年不相応の色気があり、幻想的と言うほかない髪色と相まって妖精のようだ。
彼女が身動ぎした拍子に胸元の合わせ目がはだける。事ここに至って、鋼は彼女の肢体を食い入るように見ていたことに気付き、慌てて目をそらす。勢い余って、体ごと。
「ちょ、うわわぁ!!」
すてん、と見事に転んだ鋼はフローリングに頭をぶつける。シーツを巻き込みながら転んだ結果、もそりと少女も目を覚ます。
「うにゃ……あれ、起きたの?」
鋼は痛む頭をさすりながら、彼女から話を聞く事にした。




