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第3章 1話

◇


朝なのに、怒鳴り声も酔っ払いの笑い声も聞こえない。


目を開けると、見慣れない天井があった。


昨日、あの店を出たんだった。


支度を済ませ宿を出る。


旅のために用意した服は、昨日までのドレスよりずっと動きやすく、それだけでも少し楽だった。


少し先を歩くサチに並ぶ。


「それで、王都までどれくらいかかるわけ?」


『ここから一か月ほど進んだ先です』


「長っ」


思わず足が止まる。


「神様なら、もっとこう……一瞬で移動したりできないの?」


『私の女神像がある場所へならできます』


「じゃあ王都には?」


『ありません』


「……なるほど」


『なので、地道に移動です』


「神様も案外不便なんだね」


『すみません。今はそれくらいしかできなくて』


「いや、軽く言っただけなんだけど」


女神様はしょんぼりしていて、サチは困ったように笑っている。


(……真面目だな、この二人)


「この町を出る前に、宝石商へ寄ってもいいですか?」


「宝石商?」


「旅のお金が必要なので、鉱石を買い取ってもらおうと思って」


「鉱石なんて持ってるの?」


背負ったリュックを軽く叩く。


「ミーナ様に出してもらいました」


「神様って、そんなことまでできるんだ」


『自然に関わるものなら、ある程度は』


「……神様の“ある程度”ってよく分かんないな」


◇


宝石商の扉を開く。


店内には、大小さまざまな宝石や装飾品が並んでいた。


少し緊張した様子で受付へ向かっていく。


「すみません。買い取りをお願いしたいんですけど」


店主が顔を上げる。


リュックから布に包まれた鉱石を取り出し、机の上で開いた。


淡い青色の結晶が陽の光を受け、内側から輝いているように見える。


(めちゃくちゃ高そうな宝石じゃん)


店主はわずかに目を見開いたものの、すぐに表情を戻した。


「これがいくらくらいになるのか、分からないんですけど」


鉱石を手に取り、裏返す。


ろくに調べもせず、口を開いた。


「傷も多いね。このくらいなら――」


提示された金額を聞き、眉をひそめる。


「それ、しまって」


「えっ」


「別の店に行くよ」


店主が慌てて鉱石を押さえる。


「ちょっと待ちな。まだ話は終わってないよ」


「鑑定もしてないのに、値段は出せるんだ?」


「重さも量ってない。傷があるって言ったけど、どの傷のこと?」


「それは……」


「それに」


机の上の鉱石を指差す。


「それを見た時、安物を見る顔じゃなかったでしょ」


店主が黙り込む。


しばらくして奥から道具を取り出し、改めて鉱石を調べ始めた。


提示された金額は、さっきよりずっと高い。


「こちらで、どうでしょう」


隣から確認するような視線を向けられる。


「あんたが決めな」


「では、それでお願いします」


「ありがとうございました」


代金を受け取ると、丁寧に頭を下げた。


店を出たところで、さすがに呆れて息を吐く。


「あんた、騙されかけた相手にまで礼を言うんだ」


「でも、最後はきちんと買い取ってくれましたから」


「最初は騙そうとしてたけどね」


受け取った硬貨の袋を眺める。


「旅を続けられるお金がもらえたので、よかったです」


「よくない。相場が分からないなんて、自分から正直に言わなくていいんだよ」


「ごめんなさい……」


『高く売れるように、珍しい鉱石を選んだのですが』


腕の中から女神様の声がした。


ぬいぐるみに目をやる。


「それも店に入る前に言ってよ」


『はい……』


こっちに来てまだ一か月程度の奴と、人間の金銭感覚なんてあるわけもない女神様。


(……危なっかしいな、こいつら)


そんなことを考えている隣で、サチは店先の展示を眺め始めた。


簡素な金属製のペンダントが並んでいる。


宝石も装飾もなく、小さな楕円形の飾りがついただけのもの。


「あの」


そのまま再び店へ顔を出す。


「これも一つ、お願いします」


「何に使うの?」


支払いをしているサチに問いかける。


店主からペンダントを受け取りながら、サチは笑った。


「キョウさん用です」


「私に?」


『私の依り代にします』


腕の中の女神様へ目をやる。


「ふーん……便利なお守りってことね」


『そんな感じです』


◇


買い物も済ませ、サチについていくと都市の出口近くにある預かり小屋へ着いた。


長い毛に覆われた大きな身体を見上げ、足が止まる。


「……でかいな」


「おとなしいので大丈夫ですよ」


首を撫でられ、大きな身体が気持ちよさそうに揺れる。


「乗るの初めてなんだけど」


「私も最初はそうでしたよ」


「もう慣れたんだ」


「動物、好きなので」


指先で長い毛を優しく梳きながら、視線を遠くへやる。


「それに、歩いて移動する方が大変でしたから」


何も返せない。


自分も知っているからだ。


知らない世界を、行くあてもなく歩き続ける苦しさを。


『キョウさん』


『これを』


女神様が、さっき宝石商で買った小さなペンダントを差し出す。


「もういいの?」


『はい。依り代にしました』


首へ掛けながら、楕円形の飾りを摘まむ。


「で、何ができるの?」


『私と通信ができます』


「通信?」


『このぬいぐるみから離れていても、私の声をキョウさんへ届けられます。キョウさんの声も、私に届きます』


「へえ。便利だね」


『はい。はぐれても大丈夫です』


「迷子対策ってこと?」


『それもあります』


『……もう、キョウさんを見ているだけにはなりたくないんです』


ペンダントに触れていた指が止まる。


『何かあったら、呼んでください』


赤い瞳が、まっすぐこちらを見ている。


『今度は、必ず応えます』


「……そう」


それ以上何も言わず、ペンダントを服の中へしまった。


『では、出発しましょうか』


「はい」


◇


そよ風が草原を揺らしていく。


遠くには背の高い木々がまばらに立ち、その枝には青く発光する小鳥のような生き物が止まっていた。


「あっ」


「またいますよ、あの鳥!」


目を輝かせながら、遠くの枝を指差す。


「夜に光るやつ?」


「はい。綺麗ですよね」


そんな横顔を眺める。


最初に会った時よりも表情が増え、よく笑う。


この世界を楽しんでいるのが分かる。


同じ世界へ落とされたはずなのに、自分とはまるで違う。


「サチってさ」


こちらを振り返る。


「はい?」


「年いくつなの?」


「十六です」


「若……」


「キョウさんは?」


「二十」


「えっ」


「その反応なに」


「もっと大人だと思ってました」


「……老けただけだよ」


笑って誤魔化す。


この世界に来てどんな生活をしていたかなんて、今する気はなかった。


何か言いかけて、すぐに口を閉じる。


「キョウさんの好きなことって何ですか?」


「なに、突然」


「私、裁縫が好きなんです。このぬいぐるみも、ミーナ様と作りました」


「へぇ」


腕の中のぬいぐるみに目を落とす。


「こっちに来てから、好きなことをする余裕なんてなかったんですけど」


「ミーナ様が、我慢しなくていいって言ってくれて」


『サチには好きなことをしてほしかったので』


「だから……キョウさんも、何かあるなら我慢してほしくないなって」


「好きなことね……」


高校に通っていた頃を思い出す。


友達との何気ない毎日と、陸上部で走っていた時間。


「走ること……かな」


「走ること……ですか」


『私にお手伝いできることはありますか?』


「いや……いい。抽象的すぎるし」


「じゃあ、今度一緒に走りますか?」


「ふふ……やんないよ、疲れるだけだし」


そんなやり取りをしているうちに、少しだけ肩の力が抜けていた。


◇


旅に出て最初の夜、街道を外れた丘で三人は野営をしていた。


焚火がぱちぱちと音を立てる。


隣では、サチが布を広げて寝床を整えている。


薪を組みながら女神様へ尋ねる。


「前から思ってたんだけど」


『はい?』


「なんで林檎なの?」


『林檎、嫌いですか?』


「嫌いじゃないけど。柑橘系の方が好きかな」


女神様の羽が固まる。


『サチは林檎が好きですよね?』


急に話を振られ、サチは申し訳なさそうに笑った。


「ごめんなさい。桃が一番好きです」


『そんな……』


羽が力なく垂れる。


『林檎こそ、至高の果物だというのに』


「知らないよ」


『分かりました』


『二人に林檎の素晴らしさを分かってもらいます』


「何する気?」


『究極の林檎を作ります』


「やめといた方がいい気がする」


次の瞬間、地面が小さく揺れ、土が盛り上がる。


芽が出て、幹が伸び、枝葉が広がっていく。


数秒で一本の樹木が生まれ、その枝先には黄金色の林檎が実っていた。


焚火の光を反射し、神々しく輝いている。


「……」


「……」


言葉が出なかった。


隣のサチも同じらしい。


そんなこちらをよそに、女神様は得意げに胸を張っている。


『どうですか』


「怪しい」


『どうしてですか!?』


「絶対、普通の林檎じゃないでしょ」


『もちろんです。権能をたくさん込めました』


「もっと駄目じゃん」


黄金に輝く林檎をじっと見る。


「食べたら不老不死になりそう」


その瞬間、女神様の動きが止まった。


『……なりませんよ』


返事が妙に遅い。


「今の間は何?」


『気のせいです』


「ほんとかぁ?」


結局、二人とも林檎を食べなかった。


黄金の林檎はサチのリュックへ収められ、女神様は焚火の前でしょんぼりと羽を下げている。


『そんなに怪しかったでしょうか……』


「神話に出てきそうなくらい怪しかった」


『うぅ……』


落ち込む女神様と、それを慰めながら林檎をしまうサチを見比べる。


「……一か月、長くなりそうだな」


「王都までですか?」


「この三人でいるのが」


王都までは、まだ遠い。


そして荷物には、誰も食べたがらない黄金の林檎が一つ増えた。

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