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第3章 2話

◇


三人で旅を始めて、数日が過ぎた。


「ミーナ様、あれは何ですか?」


『あれは――』


また始まった。


ここ数日ずっとこれだ。


見たことのない何かを見つけてはサチが尋ね、女神様が答える。


少し後ろから、その様子を眺める。


(……お気楽な奴だ)


同じように異世界へ連れて来られたはずなのに、サチは楽しそうだった。


それに、困っている人を見つければすぐに手を差し伸べる。


(こいつら、お人よしなんだよ)


飢えた人間も、病気で苦しむ人間も、帰る場所を失った人間も、この世界にはいくらでもいる。


信仰については聞いた。


でも、全部助けて回れるわけがない。


(それに私は、この世界の人間を助けたいとか思えるほどの余裕はないし)


帰りたい。


今は、それだけ。


◇


最初に立ち寄った村の宿で、夜も更けた頃。


隣のベッドではサチが眠っている。


寝ていても、ぬいぐるみは抱えたまま。


(どんだけ好きなんだよ)


窓際の椅子に座り、煙草に火をつけた。


一息ついたところで、胸元のペンダントが目に入る。


指で摘まむと、小さな飾りが淡く光った。


『聞こえますか?』


「っ……」


突然の声に肩が跳ねる。


隣のベッドを見る。


起きてはいない。


「……いきなり話しかけないでよ」


『すみません』


『少し、お話ししてもいいですか?』


「ぬいぐるみからでも話せたでしょ」


『サチの前ではなく、キョウさんと二人で話したかったんです』


「……なに?」


『謝りたかったんです』


ペンダントを弄っていた指が止まる。


『キョウさんが助けを求めていたことも、ずっと見ていました』


『それなのに、声に応えることも、助け出すこともできませんでした』


『……ごめんなさい』


ゆっくり煙を吐く。


「謝られても、なかったことにはならないよ」


『はい』


「私がされたことも、この三年間も、今さら消えるわけじゃないし」


『はい』


言い訳はなかった。


仕方がなかったとも言わない。


煙草を灰皿へ押しつける。


「だから、今すぐ全部許すのは無理」


『分かっています』


「……でも」


助けられた直後なら、こんな言葉は出なかったかもしれない。


途中からはもう、帰ることすら諦めていた。


「助けに来たことまで、なかったことにする気はないよ」


『……ありがとうございます』


「お礼言われることでもないでしょ」


『必ず、元の世界へ帰します』


ペンダントを見下ろす。


「……帰る時ってさ」


『はい』


「私、三年行方不明だったことになるの?」


『いいえ。召喚される直前へ戻します』


「……そっか」


ほんの少し肩の力が抜ける。


「それなら安心かも」


ペンダントを服の中へ戻す。


「寝る」


『はい』


『おやすみなさい、キョウさん』


「おやすみ」


◇


数日後、立ち寄った街の宿はこれまでよりずっと広かった。


何より、部屋の奥には小さな浴室があり、木製の湯船にはすでに湯が張られていた。


「お風呂あるじゃん」


「ちゃんと浸かれますね」


隣でサチも嬉しそうに覗き込む。


「神様と一緒だと金に困らなくていいね」


『褒められている気がしません』


「褒めてるって」


「サチから入れば?」


「いいんですか?」


「私は後でいいよ」


「ありがとうございます」


着替えをまとめ、そのまま当然のようにぬいぐるみまで抱えた。


「待って」


「はい?」


ぬいぐるみを指差す。


「それも持ってくの?」


「はい」


「いや、濡れるでしょ」


「あ……」


腕の中へ目を落とす。


『私はここで待っていますよ』


「……分かりました」


迷ってから、ぬいぐるみをテーブルへ座らせた。


「すぐ戻ります」


『はい。ゆっくり入ってきてください』


浴室の扉が閉まる。


「ほんと、どこにでも持ってくんだね」


『大切にしてくれています』


「まあ、自分で作ったんだしね」


それから五分も経たないうちに、浴室の扉が開いた。


「忘れものでもした?」


髪は濡れたままで、肩から水が落ちている。


身体もろくに拭いていない。


「サチ?」


返事はない。


テーブルまで歩いてくると、ぬいぐるみを抱きしめ、胸元へ強く押しつけたまま床へ座り込んだ。


「……どうしたの?」


肩が震えている。


『サチ?』


「ごめんなさい……」


「一人になったら……」


何度か息を整えてから、言葉を続ける。


「部屋に戻った時、二人ともいなくなってるんじゃないかって……」


黙って聞く。


「そんなことないって分かってるのに、嫌な想像ばっかり膨らんで……」


ぬいぐるみを抱く腕に、さらに力が入る。


『大丈夫ですよ』


女神様の声は穏やかだった。


『私はここにいますから』


「……はい」


濡れたまま震えるサチを見る。


持っていくのを止めたのは、私だ。


「……ごめん、止めなきゃよかった」


「違います」


「キョウさんは悪くないです」


「でも」


「私も、大丈夫だと思ったので」


顔を上げる。


「だから、キョウさんのせいじゃないです」


「……そっか」


それ以上は言えなかった。


代わりに手拭いを取り、頭へ被せる。


「身体、冷えたでしょ。もう一回入ってきなよ」


「ぬいぐるみ、持ってっていいから」


「……はい」


今度はぬいぐるみを抱いたまま、浴室へ戻っていった。


その背中を見届ける。


「床、拭くか」


誰に言うでもなく呟いた。


しばらく、布が床を擦る音だけが続く。


異世界を楽しそうに眺め、よく笑っていた。


だから、どこかで平気なのだと勝手に思っていた。


(……違うんだ)


胸元のペンダントから、小さな声がした。


『キョウさんは、大丈夫ですか?』


「子供じゃないんだから平気」


「それより、サチのそばにいてあげて」


『……はい』


私はそれ以上何も言わず、濡れた床を拭き続けた。


◇


翌日、街を出てしばらくすると、街道の先で何台もの荷車が止まっていた。


降りて近づいて見ると、木の橋が途中から大きく傾いている。


「橋、壊れてますね」


そう言ったサチの横顔を見る。


「……助けるんでしょ」


「え?」


「顔に書いてある」


『直せると思います』


「女神様までやる気だし」


近くにいた商人へ事情を聞き、女神様の力を借りてもいいか確認する。


了承を得ると、壊れた橋の下から太い木が伸び始めた。


幹が傾いた橋を持ち上げ、伸びた根が橋脚と橋桁へ絡みついていく。


やがて橋は元の高さへ戻った。


「ミーナ様のお力です」


そう伝えると、周囲から歓声が上がる。


礼を言う者もいれば、驚いて橋を眺める者もいる。


その中で、商人の一人がサチの腕の中へ目を向けた。


「その抱えてるのは、ミーナ様の人形か?」


「はい」


「へぇ。ちょっと触らせてくれよ」


「あ……すみません。これは――」


「いいじゃないか、少しくらい」


男が手を伸ばすと、サチが一歩下がった。


ぬいぐるみを抱く腕に力が入っている。


「ちょっとちょっと」


二人の間へ入る。


「なんだよ。少し触るだけだろ」


「その辺にしなよ」


「別に減るもんでも――」


「そういう話してないんだけど」


「困ってんの、見て分かんないの?」


男がサチへ目を向ける。


ようやく、その表情に気づいたらしい。


「……悪かったよ」


伸ばしていた手を引く。


「気になって、つい」


「次から気をつけな」


「ああ。そっちの嬢ちゃんも悪かったな」


そう言って離れていった。


サチの方を見る。


「大丈夫?」


「……はい」


「ありがとうございます」


「別に」


視線を逸らす。


昨日の姿を知らなければ、自分も気づかなかったかもしれない。


◇


騒ぎが落ち着いたあとも、サチの周りには商人たちが集まっていた。


女神様のことを尋ねられるたび、嬉しそうに答えている。


少し離れたところから、その様子を眺める。


「随分、気にしてるんだね」


横から声を掛けられた。


橋を渡る順番を待っていた年配の女性だった。


「何が?」


「あの子。さっきからずっと見てるだろ」


「放っといたら、いつまででも人の話聞いてそうだから」


女性は笑った。


「優しい子だねえ」


「お人よしなだけでしょ」


「あんた、あの子の付き添いかい?」


「付き添い?」


「一緒に旅してるんだろ?」


「まあ、そうだけど」


もう一度、サチを見る。


こっちの常識を知らないサチと、人間の感覚が少しずれた女神様。


困っている人間を見つければ、二人ともすぐに足を止める。


(やっぱり、お人よしだ)


この世界の人間を救いたいなんて、今でも思わない。


帰りたい気持ちだって変わらない。


でも、この二人が誰かを助けたいって言うなら、困らないよう少し手を貸すくらいのことはしたい。


「……なんていうかな」


「保護者みたいなもんだよ」

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