第3章 7話
◇
五年か……。
この世界で過ごしてきた時間よりも長い。
それでも、こいつらと会ってからの一か月は全然違った。
この旅を楽しいと感じ始めている。
そう考えれば、五年でも耐えられる気がした。
「お話はまとまりましたか」
扉が開き、王様が戻ってくる。
「はい。教会の総本山へ向かうことになりました」
「でしたら、今夜は城へお泊まりください。もう日も暮れております」
窓の外は、いつの間にか夕焼けに染まっていた。
「出発は明日の朝にされては」
「そうですね」
話がまとまったところで、それまで黙っていたユウキさんが王様へ顔を向けた。
「一つ聞いていいか?」
「なんでしょうか」
「カーラと会ったことはあるか?」
「……何度か」
「その時、どんな姿だった?」
「どんな、と申しますと」
「絵や石像と同じだったか?」
「大きくは変わりませんでした。黒紫の髪に、整った顔立ち……」
「他には?」
「ただ、少し」
「少し?」
「目元は、絵画などで見る女神様より優しい印象でした」
「……そうか。わかった」
何を確かめたかったんだろう。
さっきまで張っていた表情が、少しだけ緩んだように見えた。
「あ、あの。ここからどれくらいかかりますか?」
「街道を使えば、一週間ほどでしょう」
「一週間か。場所が変わってないなら、俺なら一日もあれば着く」
「そんなに早く?」
「ああ」
「……それなら、急いだ方がいいんでしょうか」
「何かあるのか?」
「実はここまで、歩いて旅をしながらこの世界を見てきたんです」
「……お前たちはこっちに来てどれくらい経つんだ?」
「私は……二か月ぐらいです」
「三年だよ」
「それくらいなら、旅もしてみたいか……」
「いや、私は違うけど」
「……あいつらが俺と同じなら、もう何百年も生きてる。今さら数日早く着いたところで、何も変わらないさ」
「そうですか……」
「なら、歩いていきませんか」
「……そうだな」
◇
一夜明け、必要な食料と消耗品を買い足して納屋へ向かう。
「むーちゃん」
『お留守番、ありがとうございます』
呼ばれた大きな身体が、のそのそと近づいてくる。
サチが首に腕を回すと、細い腕が柔らかな毛の中へ埋もれた。
「……見たことない生き物だな」
「そうですか? 荷物を運んだり、人を乗せたり。よく見ますよ」
「そうなのか。俺が旅してた頃には見なかったな」
「それっていつ頃?」
「まともに旅してた頃なら……九百年くらい前かな」
「それなら、変わっていてもおかしくないんでしょうか」
「かもしれないな」
「俺の知らないものも増えてるってことか」
九百年。
この人から出てくる歳月は途方もなさすぎて、実感が湧かない。
「ユウキさんは乗らないんですか?」
「歩くよ。身体も戻したいし、ちょうどいいだろ」
昨日の夜、城でも食事をしている姿は見た。
けれど、地下牢を出た時と変わらず、腕はまだ細いままだった。
「一週間ずっと?」
「そのつもりだ」
やがて王都の門を抜け、街道へ出る。
私たちの横を、ユウキさんは歩調を合わせるように歩いていた。
◇
街道は緩やかに続いていた。
少し前を、ユウキさんが一人で歩いている。
朝からその距離はほとんど変わらず、聞こえてくる足音も一定だった。
サチは特に気にしていないようだけど、私はまだ少しだけ警戒している。
あれだけの力を持った男と、今日から一緒に旅をするんだから。
「そういえばさ。髪の話してた時、妻がって言ってたけど。どんな人だったの?」
「奥さんがいたんですか?」
サチも興味を持ったらしい。
「ああ。明るくて、おせっかいでさ。この世界のことも色々教えてくれた」
少し懐かしそうに笑う。
「セシリアっていうんだ」
「ユウキさんも、最初は何も知らなかったんですね」
「そりゃな。言葉が通じても、常識まで分かるわけじゃないから」
「怒られたりもした?」
「何度も。貴族とか階級制度に馴染みがなくてな」
「確かに」
(私もそこは苦労した)
そこで、ふと引っかかった。
(って、ちょっと待って)
「千年前にこっちに来たんでしょ。元の世界では何年だったわけ?」
「俺は西暦2020年の日本から来た。聞き覚えあるか?」
「私は2025年の日本……」
「わ、私も2025年の日本です……」
(どういうこと。時間の流れ、おかしすぎるでしょ)
「女神様は、なんでこんなことになってるか分かる?」
『分かりません』
(そりゃそうか)
『憶測にはなりますが、その時代、その国の人が状況への適応力が高いとも考えられます』
「言いたいことは分かる。俺も異世界転生だと素直に受け入れたしな」
『召喚する側からすれば、状況説明も不要なので楽なのかもしれませんね』
「なるほどね……」
サチが少し考え込む。
「ユウキさんと一緒にいた皆さんも、日本から来たんですよね?」
「ああ。セシリア以外はな」
「セシリアさんは、この世界の人だったんですか?」
「ああ」
「どうやって知り合ったんですか?」
「冒険者になったばかりの頃だな。一緒に旅するようになって、そのうち結婚した」
「最初は、セシリアさんにこの世界のことを教えてもらったんですよね」
「ああ」
「なんか、少し分かる気がします」
「何が?」
「私にとっての二人みたいな感じだったのかなって。この世界のことを教えてもらって、一緒に旅して」
二人、か。
「……そうかもな」
横から見える表情が、さっきまでより少し柔らかくなった気がした。
「今でも、好きなんですね」
前を歩く足が、わずかに遅くなる。
「まあな」
短い返事だった。
「じゃあ、セシリアさんにも――」
そこまで言って、サチが口を止めた。
千年前。
そして、セシリアさんはこの世界の人だった。
ユウキさんが静かに続ける。
「……もう、いないんだ。セシリアは転生者じゃないからな」
街道を抜ける風が、草を大きく揺らす。
「……ごめんなさい」
「いいよ。昔の話だ」
歩幅は変わらない。
けど、さっきまでより少しだけ、その背中が近く感じた。
◇
日が沈み始め、街道から少し外れた川辺で移動を終える。
「今日はここにしましょうか」
「ここで野宿か」
「はい」
「久しぶりだな」
「昔もよくしてたんですか?」
「旅してた頃はな」
地面に荷物を広げ、薪と簡素な寝床を準備していく。
「……こういうのも久しぶりだ」
薪に火がついたところで、ユウキさんが首を傾げる。
「……火の魔法は使わないのか?」
「魔法?」
「ああ」
「使えないけど……そんなの本当にあるの?」
「私も見たことありません。ミーナ様が使っているのは魔法なんでしょうか?」
『私の力は魔法とは別ですね』
「そうなのか。ほら、魔法っていうのはこんな感じだ」
掌を上に向けて開く。
その上に、小さな炎が現れた。
「本当に魔法だ……」
焚き火とは別の炎が、何もない空中で揺れている。
「昔は普通だったぞ」
手を閉じると、炎も消えた。
『今の人類は、生まれつき魔力を持っていません』
「……持ってない?」
『はい』
「誰も?」
『少なくとも、生まれながらに持っている人はいません』
「俺たちの頃は、量に差はあってもみんな持ってたぞ」
『そのようですね』
「俺も魔法自体は、こっちに来てから教わった」
(最初から使えたわけじゃないんだ)
「お前らは転生者なんだろ?」
「そうだけど」
「カーラから魔力は貰わなかったのか?」
「そんな話はされてないよ。言葉は通じるようにしたって、それだけ」
『二人に与えられたのは、こちらの言葉を理解する力だけです』
「言葉だけか」
『はい』
「女神様の力で、私も魔法を使えるようにはならないの?」
『今の状況では無理ですね。いずれはそういったこともできますが』
「そうなんだ」
(同じ転生者なのに、ずいぶん扱いが違うらしい)
「じゃあ、武器は?」
「武器?」
サチが荷物の中から、小さなナイフを取り出す。
「これならあります」
「料理用だな」
「はい」
「私はそれすら持ってないよ」
「今まで戦ったことは?」
「私はないです。生き物を傷つけるのはどうしても苦手で……」
「私もないよ。こっちに三年いたけど、釣りを覚えたくらい」
焚き火の中で、乾いた薪が小さく弾けた。
「それで旅してて平気なのか?」
『私がいますから』
「……あんたが?」
『旅の途中で出会う獣や魔物には、二人を襲わないようお願いしています』
「お願い?」
『はい。私は豊穣を司る神ですから、動物や植物とは意思を通わせることができます』
「魔物も?」
『この世界に根づいて暮らしている生き物ですから』
「言うこと聞くのか」
『皆、聞いてくれますよ』
少し離れたところでは、むーちゃんがのんびり草を食べている。
「だから、今まで襲われなかったんですね」
『はい』
「……それ、最初から?」
『はい。キョウさんがこの世界へ来た時から』
「そうだったんだ」
(……知らなかった)
林檎をくれていたのは知っていた。
どうやら、それ以外にも手を回してくれていたらしい。
◇
日が沈む頃には、鍋から白い湯気が立ち上っていた。
「できましたよ」
器が並ぶ横で、黄金の林檎が荷物から取り出される。
「俺はこれでいい」
「食べないんですか?」
「今は身体を戻す方が先だからな。普通の食事を取るより、こっちの方が早いだろ」
金色の表面に、焚き火の明かりが揺れる。
『そうですね。身体に必要なものは、その林檎だけでも十分補えます』
「なら問題ないな」
「……美味しいですか?」
「うまいよ」
「なら、よかったです」
二つの器から湯気が上がる横で、黄金の林檎だけが少しずつ減っていく。
身体には、それで十分らしい。
それでも、必要なものを補っているだけで、食事をしているようには見えなかった。
(なんか、変な感じ)
◇
すっかり辺りが暗くなった頃。
「少し離れる」
「どこへ?」
「鍛錬してくる」
「今からですか?」
「ああ。昼間は歩いただけだから。身体を早く戻したい」
「暗いですけど、大丈夫ですか?」
「問題ないよ」
「じゃあ、これ持ってって」
首元からペンダントを外し、放る。
「これは?」
「女神様と繋がってる。離れてても話せるし、居場所も分かるから。念のため」
『何かあれば、そこから私と話せます』
「保険ってことか」
「そういうこと」
「分かった。借りとくよ」
焚き火から遠ざかる背中は、やがて月明かりの向こうへ消えていった。
◇
焚き火の前で、サチの腕の中にいる女神様と目が合う。
『どうしました?』
「そういえばさ」
『はい』
「王都で、サチの身体使ってたでしょ」
「……あ」
『使っていた、という言い方は少し気になりますが……はい』
「私でもできる?」
『できますよ』
「そうなんだ」
「やってみてもいい?」
「キョウさんもですか?」
「ちょっと気になっただけ」
『かなり体力を使いますよ』
「数分なら平気でしょ」
『本人がいいのでしたら』
腕の中から小さな身体が離れ、地面へ降りる。
『では、少しだけ』
「うん」
淡い光が視界を包む。
意識が沈む。
けれど、眠ったわけではない。
(……変な感じ)
辺りは真っ暗なのに、外の景色だけははっきり見える。
焚き火。
目の前にいるサチ。
視界に入る、自分の手。
『どうですか?』
自分の口から、別人の声が聞こえてくる。
(聞こえてる?)
『はい』
(本当に中にいるんだ)
「すごいです……。本当にキョウさんなのに、雰囲気が全然違います」
『そんなに違いますか?』
「はい。目がミーナ様の赤色です」
『そうなんですね』
「表情も……いつものキョウさんとは少し違います」
(どういう意味だよ)
『キョウさんが少し気にしています』
(言わなくていい!)
声は外へ届かない。
『それに』
視界の中で、自分の手がゆっくりと開かれる。
『キョウさんの身体ではありますが、こうしてサチに触れるのは初めてですね』
「え?」
伸びた指先が、サチの手に触れる。
(……おい)
『いつもより大きいですね』
「ミーナ様?」
そのまま一歩近づき、腕の中へ抱き寄せた。
「えっ」
(ちょっと待て)
サチの頬が、みるみる赤くなっていく。
『いつもと反対ですね』
今度は頭へ手が伸び、髪をゆっくりと撫でる。
「……」
耳まで赤い。
(人の身体で何してんの!?)
(戻して!)
『もうですか?』
(戻して!)
『はい』
意識が浮かび上がり、身体の感覚が戻ってくる。
気づけば、真っ赤になったサチを腕の中に抱いたままだった。
「……」
「……」
「……もうやらない」
『そうですか?』
「やらない」
サチの顔を見る。
「……何その顔」
「いえ……」
「またやりたいとか思ってない?」
「……少し」
「一生やらないから」
◇
寝床を整えている背中を眺めていると、さっきの光景がなかなか頭から離れなかった。
抱きしめて、頭を撫でる。
それだけで、あれだけ顔を赤くしていた。
試しに手を伸ばし、サチの頭へぽんと手を置く。
「?」
「どうしました?」
「いや……」
何を言えばいいのか分からない。
「いつも頑張ってるなと思って」
目を丸くしたあと、穏やかな笑顔に変わった。
「ありがとうございます」
「……」
手を離す。
(反応違いすぎるだろ)
さっきの、真っ赤になった顔が頭をよぎる。
(……何やってんだろ、私)
少し冷静になって、もう一度心の中で決めた。
(やっぱり、もうやらない)




