第3章 6話
◇
地下牢には、湿った石と錆びた鉄の匂いがこもっていた。
足が止まる。
隣のキョウさんも同じだった。
薄暗い牢の奥で、鎖につながれた男が壁にもたれたまま動かない。
虚ろな目は、こちらを見ようともしなかった。
生きているのかすら、一瞬分からない。
気づけば、ミーナ様を抱く腕に力が入っている。
「……この人が」
腕の中で静かに頷く。
『はい、最初の転生者です』
誰も声を出せない。
「……ど、どうするの?」
隣から小さな声がした。
少し考えたあと、ミーナ様がぽんと手を叩く。
『あれを使いましょう』
「あれ?」
『リュックの中にある特別製の林檎です』
その瞬間、顔が引きつった。
隣を見ると、キョウさんも同じような顔をしている。
(あれ食べさせるの!?)
脳裏に浮かぶのは、あの黄金の林檎。
権能を盛った結果、本能的に「危険」と感じた代物だった。
そんなこちらを気にする様子もなく、話は続く。
『あれなら一発です』
「一発って何がだよ……」
隣からすぐに声が飛んだ。
だが、他に方法も思いつかない。
恐る恐るリュックを開ける。
取り出した黄金の林檎は、薄暗い地下牢でもぼんやりと光を放っていた。
「やっぱり怪しいよこれ」
『大丈夫です』
「説得力がない……」
ナイフで切り分けた瞬間、甘い香りが広がる。
普通の果物とは思えないほど濃密な香りだった。
「……食べてくれるかな」
返事はない。
男は虚ろな目のまま、動かない。
意を決し、そっと林檎の欠片を口元へ運ぶ。
「……失礼します」
そのまま口の中へ入れた。
静かだった。
何も起きない。
「……あれ?」
次の瞬間、ガシャン、と鎖が激しく鳴り響いた。
「ひぃっ!?」
反射的に飛び退く。
身体が大きく震え、鎖を激しく鳴らしながらのたうち回り始めた。
「えっ!? ちょ、待っ!? 怖っ!!」
キョウさんが悲鳴を上げ、そのままこちらへしがみついてくる。
思わず抱き返した。
「ちょっと!? 大丈夫なのこれ!?」
『効いてますね』
「何が!?」
ミーナ様だけ妙に冷静だった。
男の身体から湯気のような熱が立ち上り、虚ろだった瞳に少しずつ光が戻っていく。
長い眠りから、無理やり意識を引きずり上げられているようだった。
やがて激しかった動きが収まり、荒い呼吸だけが地下牢に残る。
しばらくして、しゃがれた声が響いた。
「……クソ女神が」
肩が跳ねる。
隣のキョウさんも同じだった。
「……何、食わせやがった」
今度の声には、確かな意思がある。
腕の中からミーナ様が抜け出し、一歩前へ出た。
『初めまして。私は代理でこの世界の管理を任されている女神ミーナと申します』
『こちらはサチと、キョウさんです。私と一緒に旅をしています』
◇
荒い呼吸のまま、目の前でひとりでに動くぬいぐるみを見る。
その後ろでは、二人が涙目で身を寄せ合っていた。
妙な光景だった。
(ミーナって言ったか? カーラとは違うのか?)
カーラから感じた、あの底知れない悪意はない。
「……また新しい嫌がらせかと思った」
『違います』
ゆっくり息を吐く。
不思議なくらい頭が冴えていた。
霞がかった思考が晴れ、千切れていた感覚が戻ってくる。
「で、何食わせた」
待ってましたと言わんばかりに、ミーナが黄金の林檎を掲げた。
『特製の林檎です』
「その林檎が一番怖ぇよ……」
横から小さな声が聞こえる。
『疲労回復、血行促進、集中力向上、自然治癒促進、肉体強化等々』
『あと、味もお墨付きです』
「いろいろ盛りすぎだろ」
もう一人の少女も、少しだけ表情を緩める。
こわばっていた空気が、わずかに和らいだ。
輝きを放つ林檎を見つめる。
「……人間が食っていい代物じゃないな」
冗談みたいな果実だが、確かに神の領域のものだった。
改めてミーナを見る。
「お前、本当にカーラじゃないんだな」
『はい』
「カーラはどうした」
『飽きたからと、留守の間の管理を私に押し付けて遊びに行きました』
申し訳なさそうに答える。
乾いた笑いが漏れた。
「……はは」
飽きた。
退屈。
面白くない。
あの女神が何度も口にしていた言葉。
世界ですら、その程度の理由で放り出す。
実にあの女神らしかった。
「で、俺に何の用だ」
現在の世界について、静かに説明が始まる。
信仰によって神の力が左右されること。
代理として使える権限が限られていること。
そして。
『カーラ様に弄ばれた転生者たちを助けたいんです』
その言葉だけは真っ直ぐだった。
完全に信用したわけじゃない。
だが、長い時間を生きたからこそ分かる。
目の前の存在は、少なくともカーラとは違う。
ふと、ミーナが首を傾げた。
『そういえば、お名前聞いてませんでした』
「俺の名前……ユウキだ」
『よろしくお願いします。ユウキさん』
その響きが、懐かしく聞こえた。
名前を呼ばれたのは、いつぶりだろう。
勇者でも、兵器でもない。
ただ、“ユウキ”として。
その感覚が、妙に胸に残った。
「……変なやつだなお前」
『そうですか?』
その空気が妙に心地よくて、本当に久しぶりに笑った。
『では、拘束を外しますね』
その声と同時に、身体を繋いでいた鎖がひとりでに軋み始める。
鈍い音と共に砕け散った。
長い長い拘束だった。
自由になった両手を見つめる。
「……終わった、のか」
『はい』
どこか安堵したような、明るい返事だった。
「その林檎、残りも食っていいか」
『どうぞ』
嬉しそうに差し出された林檎を受け取り、再び齧る。
「それ、美味しいんですか?」
横からキョウが恐る恐る聞いてきた。
「味はさておき、人間が食うもんじゃない」
「でもあんたは食べてるじゃん」
呆れた声が返ってくる。
林檎を片手に、自嘲気味に笑う。
「俺が人間に見えるか?」
キョウが眉をひそめた。
「いや、どう見ても人間でしょ」
「サチもそう思うよね?」
突然話を振られたサチが、慌てて頷く。
「は、はい!」
思わず目を見開いた。
「……そうかよ」
今度は、自然に笑えた。
◇
地下牢を出ると、外では王と兵士たちが待っていた。
俺の姿を見るなり、王が深く頭を下げる。
「その御姿……伝承に残る勇者様」
「“勇者”ね……」
力なく言葉が漏れた。
「前回、俺が外に出たのはいつだ」
緊張した面持ちで答える。
「記録によれば……約五百年前かと」
後ろで、サチとキョウが言葉を失っていた。
「ご、五百年……?」
「え、ちょっと、想像できないんだけど……」
小さく息を吐く。
「そうか。結構経ったな」
二人とも、何とも言えない顔をしている。
「俺の武器、まだ残ってるか」
「はっ、宝物庫に保管されております」
「なら取りに行く。ついでにこの見た目もどうにかしたい」
そう言って歩き出すと、慌てて王が後を追ってきた。
振り返らずに声だけ投げる。
「客間で待っててくれ」
◇
客間で待っていると、扉が開いた。
現れたユウキさんを見て、目を見開く。
痩せ細った身体は変わっていない。
けれど、伸び放題だった髪と髭は整えられ、薄手の黒い上着にゆったりしたズボンを身につけていた。
腰には刀を差している。
さっきまで地下牢にいた人とは、ずいぶん印象が違った。
「髪、長いままなんだ」
キョウさんがぽつりと漏らす。
ユウキさんは自然に後ろ髪へ触れた。
「ああ。妻に、長い方が似合うって言われてな」
「……へぇ」
「当時は黒髪が珍しかったらしくてな」
どこか遠くを見るような目だった。
何を言えばいいのか分からない。
そんな空気を気にする様子もなく、ミーナ様が話を切り出す。
『ユウキさん。信仰について、どう思いますか?』
「その前に、今はどうやって集めてる?」
『今は旅をしながら、人々を助けて信仰を集めています。二十年くらいで、皆さんを帰すのに必要な権限が――』
「二十年!?」
キョウさんが勢いよく立ち上がった。
「長すぎるでしょ!」
「あっ」
思わず声が漏れる。
そういえば、言ってなかったかも。
「カーラはいつ戻る?」
ユウキさんは、そんなこちらを気にする様子もなく尋ねた。
『百年くらいは戻らないそうです。ですから二十年もあれば――』
「俺からすれば、二十年で帰れるなら大歓迎だが、この二人には長すぎる」
「そう! それ!」
隣でキョウさんが大きく頷く。
ユウキさんが考えるように視線を落とした。
「まず大元を変える。そのためにカーラ崇拝の総本山へ行く」
「信仰対象そのものを、お前に移す」
『……なるほど』
「五年以内に終わらせる」
「……五年でも長いけど」
「分かってる。上限だ」
五年。
ユウキさんにとっての五年は、自分たちが感じる五年とは違うのかもしれない。
それでも、こちらに合わせようとしてくれている。
ミーナ様も真剣に頷いた。
『分かりました』
重くなりかけた空気を払うように立ち上がる。
「それでは、次の目的地が決まりましたね」
「切り替え早いなぁ……」
キョウさんが呆れたように言う。
「良いことですよ!」
明るく返した。
◇
三人を見ながら、静かに目を細める。
――また。
誰かと旅をする日が来るなんてな。
ふと、昔の景色が脳裏をよぎる。
笑っていた仲間たち。
歌っていたセシリア。
あの頃の自分。
小さく息を吐く。
「……行くか」
その声に、三人は同時に頷いた。




