第66話 それでも、隣にいる
――一行だけ、増えた。
増えた一行を、私は見に行かなかった。
カレスト家の庭。
朝。
春は、とうに終わっている。
「お嬢様」
「はい」
「朝食の支度が整いました」
「ええ」
一拍。
「二人分でしょうか」
「はい」
ルークが答える。
「二人分で、頂いております」
――そうか。
厨房の帳簿に、二人と書かれている。
三人いて、二人。
それでも、私が入っている。
それだけのことだ。
それだけのことが、ひと月ぶりだった。
私は手帳を開く。
【関係 接続】
【責任者 私】
消えていない。
そして、もう一つ。
あの日、私が自分へ書いた記録が、崩れている。
【状態 観測不能】
薄い。
あの日の名簿の一行と、同じ薄さだ。
当然だった。
接続がある者は、観測されない側にいられない。
繋がるとは、そういうことだ。
――戻ってきた。
自由だった場所から。
誰にも触れられない場所から。
自分で選んで出て、自分で選んで戻った。
得たものより、失ったもののほうが数えやすい。
「……見えてる」
ノクスが、庭の隅から言う。
「ええ」
「……こわい?」
「ええ」
私は答える。
「怖いです」
嘘ではない。
上位存在は、消えていない。
構造が崩れただけで、退いただけだ。
命名管理者も、まだどこかにいる。
観測される側に戻るということは、その全部の視野に戻るということだ。
世界のルールは、何も変わっていない。
私は一度も、それを書き換えていない。
切り離して、また繋いだ。
それだけだ。
「……」
ノクスが、こちらへ来る。
輪郭は、以前より濃い。
だが、まだ揺れる。
「ノクス」
「……ん」
「一つ、伺います」
「……いいよ」
「名前を、決めますか」
仮称のまま、ずっと来た。
私が与えた「仮称:」の断り書きを、この子は外していない。
外す資格があるのは、この子だけだ。
「……まだ」
ノクスが言う。
「……まだ、いい」
「ええ」
私は頷く。
「では、そのままで」
いつか、この子が自分で決める。
決めるまで、こちらからは触らない。
名前を与えるのは、奪う行為だ。
それだけは、最後まで変わらない。
庭の門のあたりに、人影があった気がして、目を向けた。
誰もいない。
黒い服も、いない。
観客は、また消えている。
――今はまだ。
その一言を残したまま、いつも通りに。
いずれ戻ってくるのだろう。
観る対象が、また観られる場所に戻ったのだから。
「お嬢様」
「はい」
「冷めます」
「ええ」
私は立ち上がる。
立ち上がってから、少しだけ、その場に留まった。
この庭で、私は何も勝ち取っていない。
名誉は戻っていない。
記録局にも戻っていない。
婚約破棄の記録は、今も残っている。
そこに、不当という注記が一行、足されただけだ。
あの人は、空白のまま王宮のどこかにいる。
三年前に私がしたことは、無かったことにならない。
――何も、終わっていない。
それでいい。
終わったことにしてしまえば、それは記録ではなくなる。
「ルーク」
「はい」
「隣を、歩いてください」
一拍。
「後ろではなく」
ルークが、少し黙った。
「……よろしいのですか」
「ええ」
私は答える。
「もう、書いてしまいましたから」
「……かしこまりました」
この人は、そう言って、半歩だけ横へ出た。
半歩だ。
並びきりはしない。
従者のままで、隣に近い場所に立つ。
それが、この人の選び方だった。
私は歩き出す。
屋敷へ向かって。
誰かが、こちらを見ている。
使用人か、庭師か、あるいはもっと上の何かか。
分からない。
分からないまま、歩く。
見られている。
定義されうる。
消されうる。
あの日、私が捨てたはずのものが、全部戻ってきている。
それでも。
――私は、ここにいます。
――隣に、この人がいます。
第二部「空白に住む人」、これで一区切りです。
第一部の彼女は「観測されなくても、ここにいる」と言いました。
第二部の彼女は、その自由を手放して、観測される側へ戻ります。繋がりを持つとは、そういうことでした。
世界のルールは、今回も何ひとつ書き換わっていません。名誉も戻らず、師も空白のまま、婚約破棄の記録には一行足されただけです。
けれど、隣に一人います。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
ノクスの「仮称」も、あの黒服の男も、記録の力の由来も、まだ残したままです。いつか続きを書くとしたら、そのあたりから始めます。
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