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離縁の日まで、契約どおりに愛しません ~冷酷と噂の辺境伯に嫁いだ誓約術師は、三年で出ていく予定でした~  作者: やまご


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第九話 使者は条文を持たない

応接間で待っていたのは、痩せた中年の男でした。


見覚えがあります。ハルヴァ、という名の家令です。実家で十年、父の側にいた男でした。私が書斎で誓約書を捌いているあいだ、ずっと廊下を歩いていた人です。声をかけられたことは、数えるほどしかありません。


「ヴィオラお嬢さま」


彼は立ち上がり、そう言いました。


「ガルドウィン夫人だ」


セヴェリン様が、静かに訂正しました。


ハルヴァの目が、一瞬だけ揺れました。


「これは、失礼を。ガルドウィン夫人」


彼は改めて礼をしました。


「辺境伯におかれましては、突然の訪問をお許しくださいませ」


「用件を」


セヴェリン様は椅子を勧めもせず、そう言いました。私は少し驚きましたが、口を挟みませんでした。


ハルヴァは動じませんでした。


「伯爵より、夫人へお言伝がございます。ご帰宅いただきたい、と」


   ◆


私は、自分の呼吸が一度止まったのを感じました。


「帰宅」


「はい」


「私は嫁いでおります」


「もちろんでございます。永久にとは申しません。半年、あるいは一年」


ハルヴァは丁寧に言いました。


「アシュフィールド家の誓約書が、滞っております。伯爵はたいそうお困りでして、夫人のお力を借りたいと」


「読み手を雇うようお勧めしたはずです」


「相場を拝見いたしました」


彼の口調は、変わりません。


「あの金額は、当家には出せません」


「では、複数年に分けて雇われるか、件数を減らされるかしかありません」


「件数は減りません。土地も小作も、そこにございますので」


「でしたら、費用を捻出なさるほかありません」


私は、自分の声が思ったより平坦であることに、少し驚きました。


「夫人」


ハルヴァは、初めて少し前に身を乗り出しました。


「お父上は、こう仰せです。ヴィオラは家のために十年尽くしてくれた。今また家が困っている。血を分けた娘が、見捨てるはずがない、と」


見捨てる。


その言葉を、私は口の中で転がしました。


「ハルヴァ」


「はい」


「父は、その言葉を書面にできますか」


彼が、動きを止めました。


「……書面、と申しますと」


「今おっしゃったことです。娘が家のために尽くしてきた。家が困っている。だから戻ってほしい。これを誓約書に書けますか」


「誓約書、でございますか」


「はい。誓約書の中では、虚偽の条文は熱を持ちます」


私は言いました。


「父が本当にそう思っておられるなら、書いて署名しても熱は出ません。書けるはずです」


応接間が、静かになりました。


ハルヴァは何も言いませんでした。


私は続けました。


「そして、もし書けるのでしたら、対価の条文も同じ紙に入れていただきます。半年でも一年でも、私が働く分の報酬を。相場でなくてかまいません。半額でも三分の一でも。金額が書いてあれば、私は伺います」


「夫人」


ハルヴァの声が、少しだけ低くなりました。


「実の家に、対価を求められますか」


「求めております」


私は答えました。


「実の家だから求めております。他家であれば、そもそも私に頼まないはずです」


   ◆


ハルヴァは、しばらく黙っていました。


やがて、彼は少し身を引いて、別の話を始めました。


「……差し出がましいことを申し上げます。ご当主の前で恐縮ですが」


「言え」


セヴェリン様が言いました。


「夫人の婚姻には、三年の期限がございます」


私の背中が、わずかに強張りました。


「三年後、夫人はこの家をお出になります。そのとき、どこへ行かれるおつもりでしょうか」


「それは、当家の話ではない」


「いいえ、当家の話でございます」


ハルヴァは言いました。


「行き先はアシュフィールド家しかございません。夫人には他家に縁もございませんし、女性の身で読み手として登録することは、管理院が認めておりません」


私は口を開きかけて、閉じました。


事実です。誓約術の読み手として管理院に登録できるのは、男性に限られています。私が十年、記録に残らなかった理由もそこにあります。書ける腕があっても、名前を残す制度がない。


「三年後に戻る場所を、今のうちに確かめておかれるのが賢明かと存じます」


ハルヴァは、静かに言いました。


「伯爵は、こう仰せです。今回力を貸してくれるなら、三年後の居場所は保証する。断るのであれば――」


「保証は、しない」


セヴェリン様が言いました。


「そこまでは申しておりません」


「言っているだろう」


彼の声は、荒くありませんでした。ただ、温度がありませんでした。


「三年後の生活を人質に、無償の労働を要求している。それを条文にすれば、そう書くことになる」


「辺境伯」


「書けるか」


セヴェリン様が言いました。


「妻が言ったとおりだ。書けるなら書け。書けないなら、それは虚偽ということだ」


ハルヴァの顔から、はじめて表情が抜けました。


   ◆


「……本日は、お言伝を届けに参っただけでございます」


彼は立ち上がりました。


「返答は、いかがいたしましょうか」


私は、少し考えました。


「二つ、お伝えください」


「承ります」


「一つ。書面での依頼をお待ちしております。対価の条項を含めていただければ、内容を検討いたします」


「二つめは」


「妹の名で処理されていた誓約書について」


私は言いました。


ハルヴァの視線が、こちらに固定されました。


「この十年、私が読んだ誓約書のうち、少なくとも百通ほどは、リナリーの名で管理院に届け出られております。届け出の名義人と実際の処理者が異なる場合、届け出は無効ではありませんが、後日争われれば、名義人が責任を負います」


「――何を、仰せに」


「事実を申し上げております」


私は続けました。


「妹は誓約書を読めません。読めない者が名義人になっている届け出が百通ございます。そのうち一件でも紛争になれば、リナリーが説明を求められます。説明できません。私は、そのことをお伝えしております」


応接間が、水を打ったように静かになりました。


「脅しでございますか」


ハルヴァが、掠れた声で言いました。


「いいえ」


私は首を振りました。


「私からは何もいたしません。婚姻誓約書の第七条により、私は実家に対して何も主張できません。ですから、これは主張ではありません」


私は膝の上で、手を重ねました。


「ただ、父にお伝えください。娘が読まなくなった誓約書は、誰かが読まなければならない。読まないまま積んでおけば、いずれ勝手に崩れます。私が崩すのではありません。放っておけば崩れるように、書かれているのです」


ハルヴァは、深く一礼しました。


礼の形は、これまでで一番丁寧でした。


「……確かに、承りました」


   ◆


使者が去ったあと、応接間には私たち二人だけが残りました。


「セヴェリン様」


「なんだ」


「先ほどは、庇っていただき、ありがとうございました」


「庇ってはいない」


彼は窓のほうを見ていました。


「あの男の言葉を、条文に直しただけだ。君がいつもやっていることだろう」


「そうかもしれません」


私は少し笑いました。笑ってから、頬が強張っているのに気づきました。


「震えているな」


「……はい」


隠す意味もないので、そう答えました。


「怖かったか」


「怖かったわけではありません」


私は自分の手を見ました。


「十年、あの家で働いておりました。そのあいだ、一度も対価の話をしたことがありません。今日、初めて口に出しました」


指先が、まだ少し冷たいままです。


「言えるものだと、思っていませんでした」


セヴェリン様は、しばらく何も言いませんでした。


やがて、彼は短く言いました。


「言えたな」


それだけでした。


けれど、私はその四文字を、ずいぶん長く覚えていることになります。


   ◆


その夜、寝室で灯りを消す前に、私は婚姻誓約書の写しをもう一度開きました。


第九条。三年後、双方の合意なき場合、自動的に解消される。


ハルヴァの言葉が、耳に残っていました。


三年後、どこへ行くのか。


女性は読み手として登録できない。だから、私が読み手として生きる道はない。彼はそう言いました。


事実です。


――けれど、事実であることと、変えられないことは、同じではありません。


私は灯りを消しました。


明日、管理院の登録制度について、条文を調べようと思いました。禁じている条文が、どこに、どう書かれているのか。誰も読んだことのない古い規則ほど、たいてい、抜け道が残っているものです。


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