第九話 使者は条文を持たない
応接間で待っていたのは、痩せた中年の男でした。
見覚えがあります。ハルヴァ、という名の家令です。実家で十年、父の側にいた男でした。私が書斎で誓約書を捌いているあいだ、ずっと廊下を歩いていた人です。声をかけられたことは、数えるほどしかありません。
「ヴィオラお嬢さま」
彼は立ち上がり、そう言いました。
「ガルドウィン夫人だ」
セヴェリン様が、静かに訂正しました。
ハルヴァの目が、一瞬だけ揺れました。
「これは、失礼を。ガルドウィン夫人」
彼は改めて礼をしました。
「辺境伯におかれましては、突然の訪問をお許しくださいませ」
「用件を」
セヴェリン様は椅子を勧めもせず、そう言いました。私は少し驚きましたが、口を挟みませんでした。
ハルヴァは動じませんでした。
「伯爵より、夫人へお言伝がございます。ご帰宅いただきたい、と」
◆
私は、自分の呼吸が一度止まったのを感じました。
「帰宅」
「はい」
「私は嫁いでおります」
「もちろんでございます。永久にとは申しません。半年、あるいは一年」
ハルヴァは丁寧に言いました。
「アシュフィールド家の誓約書が、滞っております。伯爵はたいそうお困りでして、夫人のお力を借りたいと」
「読み手を雇うようお勧めしたはずです」
「相場を拝見いたしました」
彼の口調は、変わりません。
「あの金額は、当家には出せません」
「では、複数年に分けて雇われるか、件数を減らされるかしかありません」
「件数は減りません。土地も小作も、そこにございますので」
「でしたら、費用を捻出なさるほかありません」
私は、自分の声が思ったより平坦であることに、少し驚きました。
「夫人」
ハルヴァは、初めて少し前に身を乗り出しました。
「お父上は、こう仰せです。ヴィオラは家のために十年尽くしてくれた。今また家が困っている。血を分けた娘が、見捨てるはずがない、と」
見捨てる。
その言葉を、私は口の中で転がしました。
「ハルヴァ」
「はい」
「父は、その言葉を書面にできますか」
彼が、動きを止めました。
「……書面、と申しますと」
「今おっしゃったことです。娘が家のために尽くしてきた。家が困っている。だから戻ってほしい。これを誓約書に書けますか」
「誓約書、でございますか」
「はい。誓約書の中では、虚偽の条文は熱を持ちます」
私は言いました。
「父が本当にそう思っておられるなら、書いて署名しても熱は出ません。書けるはずです」
応接間が、静かになりました。
ハルヴァは何も言いませんでした。
私は続けました。
「そして、もし書けるのでしたら、対価の条文も同じ紙に入れていただきます。半年でも一年でも、私が働く分の報酬を。相場でなくてかまいません。半額でも三分の一でも。金額が書いてあれば、私は伺います」
「夫人」
ハルヴァの声が、少しだけ低くなりました。
「実の家に、対価を求められますか」
「求めております」
私は答えました。
「実の家だから求めております。他家であれば、そもそも私に頼まないはずです」
◆
ハルヴァは、しばらく黙っていました。
やがて、彼は少し身を引いて、別の話を始めました。
「……差し出がましいことを申し上げます。ご当主の前で恐縮ですが」
「言え」
セヴェリン様が言いました。
「夫人の婚姻には、三年の期限がございます」
私の背中が、わずかに強張りました。
「三年後、夫人はこの家をお出になります。そのとき、どこへ行かれるおつもりでしょうか」
「それは、当家の話ではない」
「いいえ、当家の話でございます」
ハルヴァは言いました。
「行き先はアシュフィールド家しかございません。夫人には他家に縁もございませんし、女性の身で読み手として登録することは、管理院が認めておりません」
私は口を開きかけて、閉じました。
事実です。誓約術の読み手として管理院に登録できるのは、男性に限られています。私が十年、記録に残らなかった理由もそこにあります。書ける腕があっても、名前を残す制度がない。
「三年後に戻る場所を、今のうちに確かめておかれるのが賢明かと存じます」
ハルヴァは、静かに言いました。
「伯爵は、こう仰せです。今回力を貸してくれるなら、三年後の居場所は保証する。断るのであれば――」
「保証は、しない」
セヴェリン様が言いました。
「そこまでは申しておりません」
「言っているだろう」
彼の声は、荒くありませんでした。ただ、温度がありませんでした。
「三年後の生活を人質に、無償の労働を要求している。それを条文にすれば、そう書くことになる」
「辺境伯」
「書けるか」
セヴェリン様が言いました。
「妻が言ったとおりだ。書けるなら書け。書けないなら、それは虚偽ということだ」
ハルヴァの顔から、はじめて表情が抜けました。
◆
「……本日は、お言伝を届けに参っただけでございます」
彼は立ち上がりました。
「返答は、いかがいたしましょうか」
私は、少し考えました。
「二つ、お伝えください」
「承ります」
「一つ。書面での依頼をお待ちしております。対価の条項を含めていただければ、内容を検討いたします」
「二つめは」
「妹の名で処理されていた誓約書について」
私は言いました。
ハルヴァの視線が、こちらに固定されました。
「この十年、私が読んだ誓約書のうち、少なくとも百通ほどは、リナリーの名で管理院に届け出られております。届け出の名義人と実際の処理者が異なる場合、届け出は無効ではありませんが、後日争われれば、名義人が責任を負います」
「――何を、仰せに」
「事実を申し上げております」
私は続けました。
「妹は誓約書を読めません。読めない者が名義人になっている届け出が百通ございます。そのうち一件でも紛争になれば、リナリーが説明を求められます。説明できません。私は、そのことをお伝えしております」
応接間が、水を打ったように静かになりました。
「脅しでございますか」
ハルヴァが、掠れた声で言いました。
「いいえ」
私は首を振りました。
「私からは何もいたしません。婚姻誓約書の第七条により、私は実家に対して何も主張できません。ですから、これは主張ではありません」
私は膝の上で、手を重ねました。
「ただ、父にお伝えください。娘が読まなくなった誓約書は、誰かが読まなければならない。読まないまま積んでおけば、いずれ勝手に崩れます。私が崩すのではありません。放っておけば崩れるように、書かれているのです」
ハルヴァは、深く一礼しました。
礼の形は、これまでで一番丁寧でした。
「……確かに、承りました」
◆
使者が去ったあと、応接間には私たち二人だけが残りました。
「セヴェリン様」
「なんだ」
「先ほどは、庇っていただき、ありがとうございました」
「庇ってはいない」
彼は窓のほうを見ていました。
「あの男の言葉を、条文に直しただけだ。君がいつもやっていることだろう」
「そうかもしれません」
私は少し笑いました。笑ってから、頬が強張っているのに気づきました。
「震えているな」
「……はい」
隠す意味もないので、そう答えました。
「怖かったか」
「怖かったわけではありません」
私は自分の手を見ました。
「十年、あの家で働いておりました。そのあいだ、一度も対価の話をしたことがありません。今日、初めて口に出しました」
指先が、まだ少し冷たいままです。
「言えるものだと、思っていませんでした」
セヴェリン様は、しばらく何も言いませんでした。
やがて、彼は短く言いました。
「言えたな」
それだけでした。
けれど、私はその四文字を、ずいぶん長く覚えていることになります。
◆
その夜、寝室で灯りを消す前に、私は婚姻誓約書の写しをもう一度開きました。
第九条。三年後、双方の合意なき場合、自動的に解消される。
ハルヴァの言葉が、耳に残っていました。
三年後、どこへ行くのか。
女性は読み手として登録できない。だから、私が読み手として生きる道はない。彼はそう言いました。
事実です。
――けれど、事実であることと、変えられないことは、同じではありません。
私は灯りを消しました。
明日、管理院の登録制度について、条文を調べようと思いました。禁じている条文が、どこに、どう書かれているのか。誰も読んだことのない古い規則ほど、たいてい、抜け道が残っているものです。




