第十話 禁じているのは、誰か
翌朝、私はバルトに尋ねました。
「この屋敷に、誓約管理院の規則集はございますか」
「規則集、でございますか」
「登録に関する規程です。読み手の資格を定めた条文が載っているはずです」
家令は少し考えて、頷きました。
「先代様の書斎に、古い法令の類がまとめて置かれております。荒らされた際、書き物や帳簿は持ち出されたようですが、法令集は残っておりました」
「残っていた、というのは」
「重うございますので」
バルトは淡々と言いました。
「盗む者は、軽いものから持ってまいります」
◆
先代の書斎に入るのは、初めてでした。
北向きの、日の入らない部屋です。壁一面が書棚で、下段に厚い革表紙が並んでいます。埃を払うと、背に押された金文字が出てきました。
『誓約管理令』
『誓約管理令施行細則』
『同 補遺』
三冊です。私は施行細則を抜き出しました。指が重みで沈むほどの分厚さです。
登録に関する規程は、第四編にありました。
第百二十条から、順に読んでいきます。
第百二十条、読み手の登録は管理院が行う。第百二十一条、登録には試験を要する。第百二十二条、試験の科目。第百二十三条、受験の資格。
私はそこで、指を止めました。
『第百二十三条 受験を志願する者は、成人に達し、身元を保証する者を有し、かつ、いずれの家にも属さぬ者でなければならない』
一度、読み直しました。
女性を排除する文言が、ありません。
◆
私は補遺を引き出しました。
補遺には、条文の解釈と、過去の運用例が載っています。第百二十三条の項を探すと、細かい字で注が並んでいました。
『いずれの家にも属さぬ者』の解釈について。
家督相続人および相続権を有する者は、これに該当しない。家の資産に対する権利を持つ者は、判断に私情が入るおそれがあるため。
なるほど、と思いました。
読み手は他家の誓約書を検分します。自分の家に利害があれば、公正に読めません。だから、家に属さない者に限る。制度として筋が通っています。
その下に、さらに小さな字で、追記がありました。
『婦女は原則として父または夫の家に属するものと解されるため、本条の要件を満たさない。ただし、これは慣行上の解釈であり、条文の明文によるものではない』
私は、その二行を何度も読みました。
条文には、書かれていない。
書かれていないことを、慣行が埋めている。
そして、慣行はどこにも署名されていません。
◆
「セヴェリン様」
執務室へ行くと、彼は書状を読んでいるところでした。
「どうした」
「管理院の登録規程を読みました。ご報告してよろしいでしょうか」
「聞こう」
私は施行細則と補遺を、机に置きました。
「女性の登録を禁じる条文は、存在しません」
セヴェリン様が、顔を上げました。
「昨日の話か」
「はい。使者は、管理院が認めていないと申しました。事実として、女性の登録者は一人もおりません。ですが、禁じている条文はありませんでした」
「では、なぜ一人もいない」
「補遺の解釈によります」
私は該当の頁を開きました。
「登録の要件は、いずれの家にも属さぬ者であること。そして補遺は、婦女は父または夫の家に属するものと解する、と書いております。ただし、その下に一行あります」
彼が身を乗り出しました。
「――慣行上の解釈であり、条文の明文によるものではない」
「はい」
私は言いました。
「補遺は、自分で自分の根拠の弱さを認めております。これを書いた人は、正直な方だったのだと思います」
「つまり」
セヴェリン様が、ゆっくりと言いました。
「家に属していない女なら、要件を満たす」
「条文の上では、そうなります」
「君は属している」
「はい。今はガルドウィン家に」
言ってから、私はその先を考えました。
考えてしまってから、少し息が詰まりました。
三年後、婚姻が解消されます。そのとき私はガルドウィン家を出ます。実家に戻らなければ、アシュフィールド家にも属しません。
どこにも属さない女になります。
「――ヴィオラ」
セヴェリン様が、名前を呼びました。
初めてのことでした。
私は顔を上げました。
「その顔をするな」
「どのような顔を、しておりましたでしょうか」
「三年後の計算をしている顔だ」
彼は言いました。
「私が言ったはずだ。三年後の話をしているのではない、と」
「申し訳ありません」
「謝ることではない」
セヴェリン様は、机の上の補遺に指を置きました。
「使える。それだけは覚えておけ」
◆
その日の午後、私はドラン村へ向かいました。
テオへの読み書きの指導が、この日から始まります。
集会所の隅に、板と炭を用意してもらいました。生徒はテオ一人のつもりでしたが、行ってみると七人いました。若い者が四人と、年配の女が三人です。
「増えました」
テオが照れくさそうに言いました。
「聞きつけたやつらが、俺も俺もと」
「かまいません」
私は板を立てました。
「まず、数字からいたします。誓約書を読むためには、文字より先に数字です」
「なんでです」
一人が聞きました。
「騙されるのは、たいてい数字だからです」
◆
一刻ほど教えて、休憩に入ったときでした。
年配の女の一人が、遠慮がちに話しかけてきました。
「奥様。つかぬことをお伺いしますが」
「はい」
「先代様のことを、覚えておいでで」
「私は存じ上げません。嫁いで、まだひと月ほどですので」
「ああ、そうでしたね」
女は少し笑いました。それから、声を低くしました。
「亡くなられる少し前に、村へ来られたのですよ。先代様が」
私は手を止めました。
「村へ」
「はい。北の丘の、境の話でした。杭を東へ寄せると。村の者は反対しましたよ。あの丘は、うちの村の放牧地でしたから」
「反対されて、先代様は」
「困った顔をなさっておりました」
女は言いました。
「そして、こう仰いました。二年だけ我慢してくれ、と」
「二年」
私は、その数字を繰り返しました。
「二年経てば、元に戻すと。そう仰いました。だから村の者も、しぶしぶ納得したのです」
「戻す、と」
「はい。はっきりと」
私は、頭の中で境界誓約の条文を並べました。
第六条。二年を経過した日をもって確定し、以後いかなる異議も申し立てられない。
戻すどころか、確定させる条文です。
「奥様?」
「……いえ」
私は板の前に戻りました。
「先代様は、そのお話を、書面にはなさいませんでしたか」
「書面。さあ、どうでしょう」
女は首を傾げました。
「ただ、その場で紙を出されて、何か書いておいででした。村長さんに見せて、それから、しまわれて」
「その村長は」
「去年、亡くなりました」
◆
日が傾く頃、私は集会所を出ました。
ガーロ村長を捕まえて、聞きました。
「前の村長の遺品は、どちらに」
「息子が持ってます。何かありましたか」
「先代様が、二年で境を戻すと仰ったそうです」
村長の顔が、動きました。
「……ああ。そんな話は、聞いた覚えがある」
「書面があるかもしれません」
「うちの村に?」
「前の村長に、何かを見せたと」
ガーロ村長は、しばらく黙っていました。
それから、低い声で言いました。
「探します。ただ」
「はい」
「あの丘は、もう向こうのもんだ。二年経った。確定したって、あんたが言ったんじゃないか」
「境界は確定しました」
私は言いました。
「ですが、確定したのは境界だけです」
風が吹きました。丘の方角から、乾いた土の匂いがしました。
「先代様が二年で戻すと仰ったなら、その約束は、どこかに書かれているはずです。書かれていて、まだ本署名が入っていないのだとしたら――」
私は自分の言葉に、自分で気づきました。
予約された誓約。
期限のない略式署名。
『二年だけ我慢してくれ』
二年後に本署名を入れるつもりだった条文が、この世界のどこかに、まだ生きたまま置かれているということです。
そして先代様は、その二年を待たずに亡くなりました。




